文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

さて、このトランプ米大統領による韓国批判に、韓国政府・メディアはどんな反応を示すでしょうか。なんか、日本が根回しして偽情報を吹き込んだとか言いそうですね

2019年08月26日 22時31分15秒 | 全般

以下は阿比留瑠偉氏のfacebookからである。
さて、このトランプ米大統領による韓国批判に、韓国政府・メディアはどんな反応を示すでしょうか。
なんか、日本が根回しして偽情報を吹き込んだとか言いそうですね。あと、予想通り文在寅大統領は金正恩に信用できない男と思われているのが何とも…。


読売新聞も同日朝刊で、トランプ氏が24日夜のG7首脳による夕食会で、文氏を「信用できない人物だ」と語っていたと伝えた。

2019年08月26日 22時28分56秒 | 全般

「韓国の態度はひどい…金正恩になめられている!」トランプ氏が文氏“裏切り”に激怒、G7席上で痛罵 米高官「GSOMIA破棄…韓国の説明はうそだ」 
以上はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlからである。
今日は新聞を読んでいなかったので、最初に、このニュースを知ったのは、月刊誌「正論」編集部からの電子レターによってだった。
それで産経新聞の確認をしたのが以下の写真である。
ここではzakzakの全文を御紹介する。
19時とwatch9は、この事を(こんなに大きな産経新聞の記事を)高山正之の箴言で言えば「嘘つき仲間の朝日新聞」の記事ではないから全く報道しなかった。
NHKの報道部を支配している左翼小児病患者達は産経新聞や月刊誌4誌は、読んでいないはずである。
彼らが、上記の媒体を「そっちの方ですか…」と明言したのを、5年前の8月以降に私は実体験したが、それは後日に。
19時のニュースは、この産経新聞の大きな報道に全く触れないどころか、韓国議会を大写しにして、「日本が輸出に関して待遇を元に戻すならGSOMIAを元に戻す等と言う、これ以上ない戯けた事を長い尺で放送する有様だった。
まるでKBS日本支社の放送だったのである。
伊達にKBSを(高山氏の言によれば、ただで)渋谷のNHK放送センター内に置かせているわけではない態様だった。
NHKは中国と韓国の事に関しては、それぞれの支局であると言っても全く過言ではない…絶対的に日本国営放送局ではないのである。
NHKの報道部を支配している人間達も頭脳も心も日本人ではないのである。
以下はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlから。
ドナルド・トランプ米大統領が、フランスで開催中のG7(先進7カ国)首脳会議の席上、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権を痛罵する一幕があった。日米韓3カ国の安全保障の基盤である日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を、文政権が一方的に破棄決定をした重大な裏切り行為などが、我慢ならなかったようだ。
「韓国の態度はひどい。賢くない。彼らは金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長に、なめられている!」
トランプ氏はサミット初日の24日夜(日本時間25日午前)、外交安全保障に関する会議で、こう発言したという。産経新聞が26日朝刊で報じた。
複数の政府関係者によると、トランプ氏は、イラン情勢に関する議論を終えた直後、突然、安倍晋三首相に目を向けると、文氏をこき下ろした。安倍首相は言葉を発することなく、笑みを浮かべただけだったという。
読売新聞も同日朝刊で、トランプ氏が24日夜のG7首脳による夕食会で、文氏を「信用できない人物だ」と語っていたと伝えた。
安倍首相とトランプ氏はG7に合わせて行われた日米首脳会談(25日)で、北朝鮮による「核・ミサイル問題」の解決には、日米韓3カ国の緊密な連携が重要だと確認したという。
トランプ氏の冒頭発言は、その「最大の障害」が文政権であり、GSOMIA破棄決定は、北朝鮮をはじめ、中国やロシアを利することになりかねないことを示している。
トランプ氏の怒りの背景には、文政権のうそもあるようだ。
朝鮮日報(24日、日本語版)によると、文政権はGSOMIA破棄の決定にあたり、「事前に米国に理解を求め、米国は理解を示していた」と説明していた。ところが、トランプ政権の高官は「うそ(lie)だ」「明確に言って事実ではない。ここ(駐米韓国大使館)とソウルの(韓国)外交部に抗議した」と同紙記者に語ったという。
同盟国の首脳や幹部から、「ひどい」「賢くない」「信用できない」「うそつき」と罵(ののし)られた文政権。
米韓同盟の行く末も怪しくなってきた。


19時とwatch9は、この事を(こんなに大きな産経新聞の記事を)高山正之の箴言で言えば「嘘つき仲間の朝日新聞」の記事ではないから全く報道しなかった。

2019年08月26日 22時27分47秒 | 全般

「韓国の態度はひどい…金正恩になめられている!」トランプ氏が文氏“裏切り”に激怒、G7席上で痛罵 米高官「GSOMIA破棄…韓国の説明はうそだ」
以上はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlからである。
今日は新聞を読んでいなかったので、最初に、このニュースを知ったのは、月刊誌「正論」編集部からの電子レターによってだった。
それで産経新聞の確認をしたのが以下の写真である。
ここではzakzakの全文を御紹介する。
19時とwatch9は、この事を(こんなに大きな産経新聞の記事を)高山正之の箴言で言えば「嘘つき仲間の朝日新聞」の記事ではないから全く報道しなかった。
NHKの報道部を支配している左翼小児病患者達は産経新聞や月刊誌4誌は、読んでいないはずである。
彼らが、上記の媒体を「そっちの方ですか…」と明言したのを、5年前の8月以降に私は実体験したが、それは後日に。
19時のニュースは、この産経新聞の大きな報道に全く触れないどころか、韓国議会を大写しにして、「日本が輸出に関して待遇を元に戻すならGSOMIAを元に戻す等と言う、これ以上ない戯けた事を長い尺で放送する有様だった。
まるでKBS日本支社の放送だったのである。
伊達にKBSを(高山氏の言によれば、ただで)渋谷のNHK放送センター内に置かせているわけではない態様だった。
NHKは中国と韓国の事に関しては、それぞれの支局であると言っても全く過言ではない…絶対的に日本国営放送局ではないのである。
NHKの報道部を支配している人間達も頭脳も心も日本人ではないのである。
以下はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlから。
ドナルド・トランプ米大統領が、フランスで開催中のG7(先進7カ国)首脳会議の席上、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権を痛罵する一幕があった。日米韓3カ国の安全保障の基盤である日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を、文政権が一方的に破棄決定をした重大な裏切り行為などが、我慢ならなかったようだ。
「韓国の態度はひどい。賢くない。彼らは金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長に、なめられている!」
トランプ氏はサミット初日の24日夜(日本時間25日午前)、外交安全保障に関する会議で、こう発言したという。産経新聞が26日朝刊で報じた。
複数の政府関係者によると、トランプ氏は、イラン情勢に関する議論を終えた直後、突然、安倍晋三首相に目を向けると、文氏をこき下ろした。安倍首相は言葉を発することなく、笑みを浮かべただけだったという。
読売新聞も同日朝刊で、トランプ氏が24日夜のG7首脳による夕食会で、文氏を「信用できない人物だ」と語っていたと伝えた。
安倍首相とトランプ氏はG7に合わせて行われた日米首脳会談(25日)で、北朝鮮による「核・ミサイル問題」の解決には、日米韓3カ国の緊密な連携が重要だと確認したという。
トランプ氏の冒頭発言は、その「最大の障害」が文政権であり、GSOMIA破棄決定は、北朝鮮をはじめ、中国やロシアを利することになりかねないことを示している。
トランプ氏の怒りの背景には、文政権のうそもあるようだ。
朝鮮日報(24日、日本語版)によると、文政権はGSOMIA破棄の決定にあたり、「事前に米国に理解を求め、米国は理解を示していた」と説明していた。ところが、トランプ政権の高官は「うそ(lie)だ」「明確に言って事実ではない。ここ(駐米韓国大使館)とソウルの(韓国)外交部に抗議した」と同紙記者に語ったという。
同盟国の首脳や幹部から、「ひどい」「賢くない」「信用できない」「うそつき」と罵(ののし)られた文政権。
米韓同盟の行く末も怪しくなってきた。


複数の政府関係者によると、トランプ氏は、イラン情勢に関する議論を終えた直後、突然、安倍晋三首相に目を向けると、文氏をこき下ろした。

2019年08月26日 22時26分35秒 | 全般

「韓国の態度はひどい…金正恩になめられている!」トランプ氏が文氏“裏切り”に激怒、G7席上で痛罵 米高官「GSOMIA破棄…韓国の説明はうそだ」 
以上はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlからである。
今日は新聞を読んでいなかったので、最初に、このニュースを知ったのは、月刊誌「正論」編集部からの電子レターによってだった。
それで産経新聞の確認をしたのが以下の写真である。
ここではzakzakの全文を御紹介する。
19時とwatch9は、この事を(こんなに大きな産経新聞の記事を)高山正之の箴言で言えば「嘘つき仲間の朝日新聞」の記事ではないから全く報道しなかった。
NHKの報道部を支配している左翼小児病患者達は産経新聞や月刊誌4誌は、読んでいないはずである。
彼らが、上記の媒体を「そっちの方ですか…」と明言したのを、5年前の8月以降に私は実体験したが、それは後日に。
19時のニュースは、この産経新聞の大きな報道に全く触れないどころか、韓国議会を大写しにして、「日本が輸出に関して待遇を元に戻すならGSOMIAを元に戻す等と言う、これ以上ない戯けた事を長い尺で放送する有様だった。
まるでKBS日本支社の放送だったのである。
伊達にKBSを(高山氏の言によれば、ただで)渋谷のNHK放送センター内に置かせているわけではない態様だった。
NHKは中国と韓国の事に関しては、それぞれの支局であると言っても全く過言ではない…絶対的に日本国営放送局ではないのである。
NHKの報道部を支配している人間達も頭脳も心も日本人ではないのである。
以下はwww.zakzak.co.jp/soc/news/190826/for1908260011-n1.htmlから。
ドナルド・トランプ米大統領が、フランスで開催中のG7(先進7カ国)首脳会議の席上、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)政権を痛罵する一幕があった。日米韓3カ国の安全保障の基盤である日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を、文政権が一方的に破棄決定をした重大な裏切り行為などが、我慢ならなかったようだ。
「韓国の態度はひどい。賢くない。彼らは金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長に、なめられている!」
トランプ氏はサミット初日の24日夜(日本時間25日午前)、外交安全保障に関する会議で、こう発言したという。産経新聞が26日朝刊で報じた。

  • 複数の政府関係者によると、トランプ氏は、イラン情勢に関する議論を終えた直後、突然、安倍晋三首相に目を向けると、文氏をこき下ろした。安倍首相は言葉を発することなく、笑みを浮かべただけだったという。

読売新聞も同日朝刊で、トランプ氏が24日夜のG7首脳による夕食会で、文氏を「信用できない人物だ」と語っていたと伝えた。
安倍首相とトランプ氏はG7に合わせて行われた日米首脳会談(25日)で、北朝鮮による「核・ミサイル問題」の解決には、日米韓3カ国の緊密な連携が重要だと確認したという。
トランプ氏の冒頭発言は、その「最大の障害」が文政権であり、GSOMIA破棄決定は、北朝鮮をはじめ、中国やロシアを利することになりかねないことを示している。
トランプ氏の怒りの背景には、文政権のうそもあるようだ。
朝鮮日報(24日、日本語版)によると、文政権はGSOMIA破棄の決定にあたり、「事前に米国に理解を求め、米国は理解を示していた」と説明していた。ところが、トランプ政権の高官は「うそ(lie)だ」「明確に言って事実ではない。ここ(駐米韓国大使館)とソウルの(韓国)外交部に抗議した」と同紙記者に語ったという。
同盟国の首脳や幹部から、「ひどい」「賢くない」「信用できない」「うそつき」と罵(ののし)られた文政権。
米韓同盟の行く末も怪しくなってきた。


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年08月26日 21時45分23秒 | 全般

1

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。

2

NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを明らかにしている。

3

戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 

4

そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。

5

戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである

6

カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった

7

少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。

8

天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。

9

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10

山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。


以下はリアルタイムのベスト10である。

2019年08月26日 18時58分27秒 | 全般

1

NHK、TBS、テレビ朝日の偏向報道が何故あれほど酷くて執拗なのかを明らかにしている。

2

山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。

3

彼らの特性は何といっても「嘘を躊躇わない」だ。*この点においても朝日新聞と中国や朝鮮半島とは共通するものがあるのだろう*

4

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5

本多勝一はいい例だ。彼は1972(昭和47)年「中国の旅」を書いた。中身は嘘ばかりだ。毎日新聞の浅海一男が創った「百人斬り」を彼は支那人に実話と語らせている

6

北朝鮮に吸収される韓国という構図が明らかな今、喫緊の課題として日本の防衛をどうするか、日本の安全保障体制の再構築を急がなければならない時に

7

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。

8

カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった

9

戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである

10

戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 


少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。

2019年08月26日 16時17分05秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。文部大臣時代が問題になったのである

2019年08月26日 16時16分40秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。

2019年08月26日 16時16分16秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。

2019年08月26日 16時15分52秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ

2019年08月26日 16時15分24秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 

2019年08月26日 16時14分56秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。

2019年08月26日 16時14分30秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである

2019年08月26日 16時14分05秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。

 


カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった

2019年08月26日 16時13分40秒 | 全般

そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。と題して2019-05-27発信した章である。
以下の書は日本国民全員が必読であるのみならず世界中の人たちにも必読の書である。
朝日新聞を購読しNHKを視聴しているだけの人たちが全く知らなかった事実…知らされなかった事実が満載されている。
戦後日本で最高の書の一つである。
渡部昇一氏は私の生まれ故郷である宮城県の隣県である山形県の出身である。
山形県人は、戦後日本で最高の知識人であり日本の本物の宝物である氏の同郷人である事を日本と世界に向かって誇り続けなければならない。
見出し外の文中強調は私。
知的分野は左翼一色に
ある意味で実業界では世代交代が進み、新鮮な気持ちで事に当たれたということはよかったのかもしれない。
しかしここで重要なのは、学校、ジャーナリズムに対する公職追放の徹底だった。 
公職追放令の中心になった人は誰だろうか。
マッカーサーだって、戦前の日本のことを詳しく知っていたわけはない。
それで起用されたのがハーバート・ノーマンである。 
彼は日本で布教していたカナダの宣教師の息子として日本で育った。
日本語も日本人同様にできるし、日本のこともよく知っている。
ケンブリッジ大学に留学して共産党員となり、のちにアメリカのハーバード大学で学んで『日本における近代国家の成立』(英文)で博士になった。
日本史の個人教授を務めたのは羽仁五郎であった。
羽仁五郎はマルキストの明治史の学者である。
このノーマンのように、日本のことを熟知した人を占領軍は必要としていたのである。 
カナダの外交官なのに占領軍のなかで働くことになったノーマンが日本に来た時、最初に会おうとして探し出したのは、ハーバード大学時代の左翼仲間である経済学者、都留重人であった。
ハーバート・ノーマン、都留、羽仁などが、公職追放令のリスト作りに重大な関係があったものと考えられる。 
戦前、帝国大学は「天皇の大学」だったから、左翼系の学者やコミンテルンに通じているような人たちは辞めさせられた。
この人たちが、敗戦日本における公職追放令のあと、真っ先に戻ってきたのである。
そこに元々いた帝国大学教授の多くは公職追放になってしまった。 
そして、のちに新しくできた大学の教授を輩出するような日本の一流大学、旧帝国大学や一橋大学の総長・学長は左翼系になった。
戦前ならば、天皇陛下の大学に相応しくないと批判された人たちである。 
彼らのような敗戦利得者が日本に及ぼした悪影響は大きい。 
たとえば、矢内原忠雄氏は立派なキリスト教徒と言われるが、戦後に東大の総長になる。
戦前は「神よ、日本を滅ぼしてください」というような論文を書いて、天皇陛下の大学に相応しくないと辞めさせられたような人だ。
当時の日本は温和だから取り消せば済む話だったが、彼は取り消さなかった。
敗戦後に東大に復帰、法政大学総長になった大内兵衛氏は、第二次人民戦線運動関係で東大の経済学部を辞めさせられている。 
また瀧川幸辰氏は、京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。
天皇陛下の大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのにそれを拒否したので、辞めることになった。
しかし、辞めたからといって刑罰を受けたわけではなく、瀧川氏は弁護士になった。
そして日本の敗戦後は京大の法学部長、そしてその後、京都大学総長になった。
私は瀧川氏の近親の方からの話として聞いたが、当時、彼は共産主義者だったということだ。
瀧川氏とともに辞職した京大の教授たちの多くは、戦後はいろいろな大学の要職についた。 
A級戦犯になった荒木貞夫氏は、陸軍大臣、軍事参議官、男爵と、軍人としての位を極めた人だが、彼は軍人として罪に問われたわけではない。
文部大臣時代が問題になったのである。
荒木氏は、「自分をA級戦犯にしたのは大内兵衛と瀧川幸辰だ」と書いている。
また、一橋大学学長になった都留重人氏は、明らかにコミンテルンの手先であったことを告白してもいる。
少し見ただけでも、日本の主要大学の総長や有力教授は、戦前、日本の帝国大学に相応しくないとされた人たちだった。
こういう人たちが、敗戦利得者として主要ポストに凱旋将軍の如く舞い戻ってきた。
彼らが戦後、日本中に雨後の筍の如く作られた大学や短大に教え子を輩出して教授職に育て、かつ、この人たちが作った試験問題で公務員を作った。 
特に、主要大学は講座制だから定員が決まっている。
その講座で学んだ人は必ずと言ってよいほど、教授と同じことを言う。
その弟子も、またその弟子も同じ。
その迷信はひ孫の弟子くらいになるまで続くことになる。 
また、彼らが教えた主要大学の卒業生は優秀だから高級官僚になり、有力な新聞社や有力な出版社にもいっぱい入った。
また、高校や中学校や小学校の教師もその系統の学者に教育されたのである。 
気がついたら、日本はあっという間に知的生活の分野が左翼一色になってしまった。
先述したコミンテルンのエージェントであるハーバート・ノーマンは、カナダ本国でも出ていない彼の全集が日本では岩波書店から出ているくらいだ。
言論界を左翼、が支配してしまうと、その人たちが死に絶えるまで世間はなかなか動かないであろう。
この時、辛うじて生き残った出版社に、大きなところでは文塾春秋、がある。
いまでも覚えているが、『文悲春秋』に「天皇陛下大いに笑う」という記事が載った。
辰野隆(フランス文学者)、サトウハチロー(詩人)、徳川夢聲(弁士・作家・俳優)、が天皇陛下と愉快に話をしたという記事だった。 
当時の左翼的な雰囲気のなかで、大雑誌にはこのような記事はまったくなかった。
知的なものと言えば左翼的な考え方だ、という時代だ。 
この記事を見て、一般の人たちは「まだこんな雑誌、が残っているのか」と喜び、『文塾春秋』は当時、毎月十万部くらいずつ部数が伸びたという。
知的だと言われていた左翼系雑誌を一般人は望んでいなかったということを示す例として、この記事の話を私は子供心にも覚えている。 
ちなみに、文塾春秋を創った菊池寛は公職追放された。
菊池寛=戦争責任者とみなされたということだから、いかに異常な事態かがわかるだろう。
そこで文塾春秋は一度、解散する。
しかし、残った佐佐木茂索氏、池島信平氏をはじめとする十二人が菊池寛から社名と誌名を貰い受け、なんとか再興した。 
このように我々がいま、進歩的だとか左翼的だと言っている人たちは皆、敗戦利得者とその弟子たちなのである。 
やがて、公職追放令はどんどん緩んでいく。
特に朝鮮戦争が起こると、東京裁判における日本の弁護団の「東アジアの共産化を避けようとした」という言い分が正しかったということになり、逆に共産党幹部は追放せよということになった。
実に滑稽な話である。
マッカーサーが日本を離れたあとは、リッジウェー中将が最高司令官に就任する。
リッジウェーは、占領軍の指令の実施にあたって制定された占領下諸法令の再審査の権限を日本政府に与えるという声明を出し、すぐに追放の解除が始まった。
最終的にはサンフランシスコ講和条約で日本が独立したので、追放令は廃止されたのである。
この稿続く。