文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

あなたは天から贈り物を授かって生まれてきた人だ。私はそれに手を触れてあれこれしたくはない。私に出来るのは、

2024年12月27日 19時12分34秒 | 全般
今朝、YouTubeから流れてきたバイオリニストの音を聴いた私は本当に驚いた!
超弩級の天才の響きだったからである。
私は即座に思った。
夏帆はハイフェッツもさりながら、彼女の再来、そう例えるのが一番相応しい。

それにしても、インターネットと既存メディア、特に地上波テレビメディアの勝負は、とうに着いている。
しかも、その差は、既に、惑星間の距離ほど開いている。
後者が10年1日のごとく、愚劣なワイドショー(知的だ等とは全く言えない、ましてや、ジャーナリズムなどとは、とても言えない)を始めとした、定番の様な番組作りをしている(それも各局横並びでである)時に、前者は、夭折した超弩級の天才バイオリニストが、この世に残してくれていた録音のほぼ全てを、瞬時に視聴させてくれるのだから。

私は本当に驚いたのである。つまり驚愕したのだ。
一体、何という符号なのだろうか。
私がシャンソン界のみならず、世界のポピュラーミュージック界で、至上の天才シンガーとして、エディット・ピアフを敬愛している事は既述の通り。

このパリに生まれた超弩級の女性天才バイオリニストは、あろうことか、飛行機事故で30歳の若さで夭折したのである。
その飛行機に同乗していたのが、ピアフを敬愛している人間なら誰でも知っているボクサーであるマルセル…ピアフが心底愛していた、彼女の最愛の人だった!

私は、長い間、私の写真をスライドショーにして、世界中の読者に届けたいと思っていた。
先日来、それを実現している事はご存じの通り。
その為にも、PCをSSDに替えた。
勿論、日本製である。

昨夜、私は、マリア・カラスが素晴らしかったからだろうが、このスライドショーと共に贈る音楽に、ピアフを入れよう、それも一番好きな♬私の信条♬にしようとの思いが過った。

今朝、YouTubeから冒頭の凄い響きが流れてきたのである。
しかも、ショーソンのポエムだった!!
私は、初めて、彼女を知ったから本当に驚いた。

ジネット・ヌヴー(ウィキペディア)
ジネット・ヌヴー(フランス語: Ginette Neveu, 1919年8月11日 - 1949年10月28日)は、フランスのヴァイオリニスト。
稀にみる天才的ヴァイオリニストで将来はフリッツ・クライスラー、ジャック・ティボーと並ぶ名人になることを確実視されていたが、航空機事故により30歳で死去。

デビューまで
母がヴァイオリン教師、父もアマチュアながらヴァイオリンを嗜む音楽一家に生まれた。
ひとつ年上の兄ジャンはピアニスト。
母の手ほどきにより幼少時より才能を発揮し、7歳でブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番をパリのサル・ガヴォー(fr:Salle Gaveau)で奏き、1930年、パリ音楽院に入りナディア・ブーランジェに学んだ。
翌年の1931年、ヌヴーはウィーンでのコンクールに参加し、高名なヴァイオリニストのカール・フレッシュ教授にその才能を見出された。
フレッシュはヌヴーの両親に手紙を送ってヌヴーを直ちにベルリンに留学させるように勧めたが、ヌヴー家が裕福でなかったことにより、ベルリン留学が実現するまでには2年を要した。
ようやくベルリンにやって来たヌヴーの演奏を聴いたフレッシュは、こう感想を述べている。

あなたは天から贈り物を授かって生まれてきた人だ。私はそれに手を触れてあれこれしたくはない。私に出来るのは、いくらかの純粋に技術上の助言くらいだ。— ジネット・ヌヴー2(Shellman)

ヌヴーはフレッシュの指導を4年にわたって受け、15歳であった1935年にワルシャワで開催されたヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し、180名の競争相手を破って優勝した。
当時26歳のダヴィッド・オイストラフは2位となったが、結果発表の翌日に、故国で待つ妻に送った手紙でこう言及している。

2位になれたことに僕は満足している。ヌヴー嬢は『悪魔のように』素晴らしいと誰もが認めるだろう。昨日、彼女がヴィエニャフスキの協奏曲1番を正に信じられない力強さと激しさをこめて奏いた時、僕はそう思った。しかも彼女はまだ15歳かそこらなのだから、1位が彼女に行かなかったら、それは不公平というものだ。— ジネット・ヌヴー2(Shellman)

デビュー後の活躍、30歳での事故死
一躍スターとなったヌヴーは、ヴァイオリニストとしてのキャリアの最初に、ハンブルクでブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した。
次いで1936年にニューヨーク、1938年にベルリンでデビューした。
その後、第二次世界大戦が勃発する1939年9月までの間に、ヌヴーはドイツ、ソ連、アメリカ、カナダで演奏した。
特にベルリンでの人気はすさまじく、独エレクトローラ(英EMIのドイツ法人)との録音契約が直ちに成立し、1938年4月~5月と1939年4月に、計7曲をベルリンで録音した。
全て、SP盤1面に入るピアノ伴奏の小品であった。
録音時のピアノ伴奏はen:Bruno Seidler-WinklerとGustaf Beck であった。
ヌヴーは第二次世界大戦の間は演奏活動を中断していたが、フランスに平和が戻ると演奏活動を再開した。
ピアノ伴奏は、兄ジャンが務めた。
フランシス・プーランクのヴァイオリンソナタの作曲に当たって協力し、1943年の初演を作曲者と共に行った。
ヌヴーは1945年から1946年にかけ、フランスとイギリスの間を何度も行き来して演奏会や録音を行った。
1945年11月から、英EMIとの本格的な録音をスタートし、シベリウスとブラームスのヴァイオリン協奏曲をはじめ、CD換算で3枚分のスタジオ録音を翌1946年の8月までに行った。
1946年から1947年にかけて南北アメリカを演奏旅行し、次いで欧州各地で演奏した。
1948年にはオーストラリア・アメリカで演奏旅行を行った。
1949年にはエディンバラ国際フェスティバル(8月~9月)に出演し、イギリスの各地で演奏した。
1949年10月20日のパリでのリサイタルが、ヌヴーの最後の演奏会となった。
1週間後の10月27日、兄ジャンと共にエールフランスのロッキードL-749コンステレーションに搭乗し、三度目のアメリカ演奏旅行に向けて旅立った。
このエールフランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサー、マルセル・セルダンも同乗していた。
しかし、同機はアゾレス諸島の主島であるサンミゲル島の山中に墜落し、乗員と48人の乗客は全員死亡した(1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故)。

没後の出来事・評価
ヌヴーの遺体はパリに運ばれ、ペール・ラシェーズ墓地のショパンの墓のすぐ近くに葬られた。
フランス政府からレジオンドヌール勲章が授与された(「ジネット・ヌヴー2(Shellman)」)。
ジネット・ヌヴーは、30歳での事故死により短いキャリアを終えたが、今なお世界的な大ヴァイオリニストのひとりとして語り継がれている。
遺された音源は、モノラル録音ながらも生前の演奏風景を鮮明に伝えており、濃密でたくましい情感、雄渾多感な表現、非の打ち所のない音色のつやが特徴的である。
ヌヴーはフランス人ながらもとりわけブラームスを得意としており、死の前年の1948年5月、28歳の時にハンス・シュミット=イッセルシュテット指揮北ドイツ放送交響楽団と共演したヴァイオリン協奏曲のライヴ録音は、深い精神力を感じさせる解釈と鬼気迫る表現の激しさによって、他の追随を許さない。

私は、本稿を書いていて、何度も感涙に咽びそうになった。
本稿は、ラフの原稿ではあるが、誰よりも、先ず、村田夏帆に献呈したい。

今朝、私は驚愕したのだが、同時に、超弩級の天才は100年単位で出現するものなのだと再認識した。
超弩級の天才とは、すべからく100年に1度なのである。


Ginette Neveu - Chausson Poème (studio recording in 1946)
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