学生の頃、私のクラスで、
学校祭の出し物として、「演劇」をすることになりました。
脚本にする物語は、心優しい少女が主人公で、
意地悪な王女の我がままに振り回されるが
少女の優しさを見ていた妖精たちが、
最後に、王女に罰を与える、という、
いわゆる、「シンデレラ」などに見られる、
典型的な童話に決まりました。
でもそれを脚本におこすとなると、
元々そういうものがある訳じゃないので、大変な作業です。
そこで、クラス全員で、その物語を読んで感想文を書き、
その中でよく書けている人に、脚本を書いてもらおう、
ということになりました。
私は、「脚本にするのが難しい」という以前に、
感想文を書くのすら面倒くさくて、
書かずに期日を迎えたんですが、
「感想文を書いていない1名が書いてくるまで待つ!」
と、意地でも私に書かせようとする担任に負けて、
私は、渋々感想文を書き上げました。
私は、どうせ書くならと、その感想文の中で、
意地悪で我がままな王女に罰が下るのは当然だが、
自分たちの保身のために、その王女の我がままを
そこまで許していた、「長いものには巻かれろ」主義の
「その他大勢」の家来たちに、同様の罰が与えられないのは
おかしいのではないか、という内容を熱く論じ、
まんまと担任の思惑通りに、脚本を書くことになりました
その時書いた熱い想いを、この小説にも盛り込みました。
「 我々はかつて、民衆を苦しめ悪政を行っていた前政権を崩壊させ、それらに携わった者たちを重刑に処した。そして民衆を我々の信じる道に導いたのだ。
そのことが「悪」だと言うなら、これから同じことを繰り返そうとしている彼らは何なのだ。彼らだって正義を振りかざしているだけの人殺しだ。我々と、どこが違うというのだ。我々を悪だと責めるならば、なぜ我々について来た?なぜ賛同したのだ?命惜しさに正義を曲げて悪に付くような人間に、我々を非難する権利があるのか。彼らはただ、集団で居たいだけなのだ。我々が罰せられるならば、我々に今まで一言でも賛同した奴らも同罪だ。違うか?
私は、たった一人で反ナチを訴えて処刑されていった者たちが許せないのではないのだ。我々の眼が光っている時には平気で反ナチの者たちを処刑し、その死骸を蹴り、踏みつけ、見せしめのために逆さ吊りにし、その死骸が朽ち果てていく横を狂喜しながら通り過ぎ、「でも私はそうしたくてしている訳ではありません。我々はナチスに脅されて仕方なくやっているのです」などと不運な自分を精一杯慰めている。ごく数名の反ナチ指導者を祭り上げているそういう奴らを許すわけにはいかないのだ。
彼らは、総統と同じ目をしている。狂気の申し子、アドルフ・ヒトラーの目だ。彼らは“正義を理解し訴えている”のではなく、“熱狂している”のだ。彼らにとって、処刑直前の処刑場はコンサート会場であり、そこに連れて来られた受刑者はそこで歌を歌う代わりに死ななければならない。彼らの狂気はそこでピークに達し、高々と一心不乱に振りかざされている拳と意味をなさないかん高い叫び声が、一段と激しさを増す。
それが、健全な精神を持った民衆のやることなのか。・・・いいや、違う。それくらいは、悪名高いナチスの一員である私でもわかることだ。
いったい、正義とは何だ。どれほどの価値があるというのだ。邪悪な思想よりもほんの少したくさんの人間がそれを信じているというだけの話ではないのか。邪悪な思想の持ち主を神に代わって自分が罰すると豪語している者ほど、神に対して畏れ多い者はいないのではないのか。違うのか?どうだ、違うと言ってみろ!」
「 総統は、知能に乏しく野卑で残忍な心の持ち主であった。利己的な誇大妄想狂な上に酷い偏執狂の彼は、ナチス最高司令部を無能呼ばわりし、自分の周囲の者を不忠だと責め立てた。周囲の者は、総統のこのような変貌ぶりに少なからず動揺し、その彼らの動揺はまた、総統の不信を買った。
彼らは今初めて、総統が狂人であることに気づき、自分たちが狂人になり切れない偽善者に過ぎなかったことを思い知ったのだ。しかし既に時遅く、自らが狂人ではないのだと気づいて自分の懐から反発し去って行こうとしている者を、総統は容赦なく処刑していった。
狂人として生きるか、人間として死ぬか、その二者選択をせずにいつまでもふらふらと生き抜いていけると考えていた“その他大勢”が、このナチスという組織にどれだけたくさん存在していたのだろうか。」
小説「雪の降る光景」第3章より
ちなみに、この時の担任は、当時、
私が一番信頼していた「大人」の1人で、
今でも連絡を取り合っています