通勤者で混み合う郊外の駅前ロータリー内には、こじんまりとした広場があります。そこには
年末から年始にわたり、手作り感満載のイルミネーションが点灯中。
通勤電車から降りた一人の男性が、いつものように駅前発のバス停に向かうのではなく、カメ
ラを片手にイルミネーションで飾られた広場にやってきました。彼は今年の3月に定年を迎えます。
男性: 通勤の帰り道で、この景色を見るのもあと僅かだな。中央の大きな木を覆っている電飾
は去年よりも数が増えて素晴らしい。家内から「ハート形の電球がひとつだけあって、
それを見つけるといい事があると聞いたから、写真を撮ってきて」と頼まれちゃったよ。
見つかるかな?
それにしても、せっかくイルミネーションが飾られているのに、ここに立ち止まって見
る人が少ないのは寂しいことだ。おそらくハートの電球の事を知らないのだろうな。
それとも、見慣れた風景になって関心が薄れているのかな。さてさて、この中から見つ
けるのは大変だぞ。
男性は電飾で飾られた大きな樹木の周りを1回、2回と首を上下左右に回して探しましたが見つか
りません。そこで、視点を変えようと、イルミネーションの内側に入り込みました。
枝は少し上のほうから出ているので、幹の周りには結構な空間があったのです。内側に入った途
端、電飾に飾られた白いイスが目に入りました。
男性: どうしてこんな所にあるんだろう?外からじゃあ、見えなかったな。イスの背には大きな
ハート形の電飾が光っているぞ。座っても大丈夫なのかな?試してみよう。
男性が恐る恐るイスに座った途端、ツリーの内側がスクリーンに変わり、映像が映し出されたので
す。さらに、その絵が動き始めたではありませんか。
男性: ワ~、驚いた!これは影絵だ。川に桃が浮かんで、流れてくるぞ。日本昔話の「桃太郎」
かな?音声はないけど、どうやって映し出されているのだろう?
これはなかなか見応えがあるじゃないか。観るのが私一人だけじゃ、もったいないな。
男性は暫く動く影絵を楽しそうに眺めていましたが、ふと、この白いイスが映像のスイッチの役
割をしているのではないかと考え、立ち上がってみました。
男性: アッ、消えた。やはり、このイスに座ると映像が流れるようになっているんだ。凝った装
置なのに、どうして、これがニュースにならないのかな?家内が言っていたハート形の電
球というのは聞き間違いで、このハートを背に付けた白いイスのことなんじゃないかな?
ここから電飾越しに外を見ると、車や歩く人の姿が幻想的で、まるで別世界にいるみたい
だ。こんな場所にイスがあるなんて誰も想像しないし、座るとこんな映像が観られるとは
思いもつかないよな。これを見つけた私はラッキーだ。
自分の体験を妻に話してあげようと、白いイスの写真を撮り、もう一度イスに座り直して再び映し
出された影絵の映像も写真に撮りました。その作業が一段落して、光輝くイルミネーションの外側
に出た後に男性は振り返ってみましたが、そこからはやはり、あの白いイスは全く見えません。
男性は自分が乗るべきバスが停留所に停まっているのを見つけると、首をかしげつつ、バスに乗り
込みました。
男性: ただいま~!駅前のイルミネーションでハート形の電球を探していたら、不思議な体験を
したよ。
奥さん: で、ハート形の電球は見つかったの?
男性: いや、見つからなかったよ。でも、代わりに大きなハートを背につけた白いイスを電飾ツ
リーの内側で見つけたんだ。
奥さん: ハートが付いたイス?どんなイスなの?
男性: 写真を撮ってきたから、カメラの液晶画面で見てごらん。バッチリ写っているはずだよ。
奥さん: どれどれ。エ~ッ!?何よ、この写真。ロータリーのイルミネーションは綺麗に写って
いるけど、それ以外は光が入り過ぎて何が映っているのか、さっぱり分からないわ。
白いハートのイスなんて、どこにも映っていないわよ。
男性: 嘘だろ?ありゃ、本当だ。これはどうしたことだ。特別なカメラの設定はしていないから、
普通に写っているはずなのになぁ。あの体験はいったい何だったのだろう。
定年を迎える私への「お疲れ様プレゼント」だったのかな。そうだったとしたら嬉しい
けど。
奥さん: 頭、大丈夫?それに、あれだけ自慢していた写真の腕もたいしたことはないわね。新し
いカメラが欲しいって言っていたけど、まずは今のカメラを使いこなすのが先決じゃ
ないの?買い換えるなんて、10年早いわよ。
男性: そんな~。もっといいカメラ、買ってよ。お願い。
あなたの街のイルミネーションの中にも、あなたの心を暖めてくれるハートのイスが隠れている
かもしれませんよ。ぜひ探してみてください。