(画像は『わが町』 葬列の一場面)
『わが町』の作者ワイルダーは、きわめて異質の作家だと思う。
オルビーのように「不条理劇」ではないにしても、正直見ていて手も足も出ないしんど~い芝居でした。
とはいうものの、ありふれた日常の中の親子関係、子供の成長など、この作品は遥か上空から俯瞰するような眼差しで人間の営みを描いているとも思った。
つまりは生きることの意味や日常の価値を考えさせるものが多かった。
舞台に置かれているのは机と椅子だけ。ほかの装置は一切なし。
俳優は役になりきるのではなく、役を演じていることを観客にあきらかにしてゆく手法なんです。
舞台監督(小堺一機)という橋渡し役を配して、舞台と観客、虚構と現実の間を行き来するという、あまり見慣れないというか、画期的な作品だといえましょう。
ワイルダーとほぼ同期のアメリカの劇作家であるアーサミラー、オニール、テネシー・ウイリアムらは、人間の心理の内奥に鋭く分け入ることで、社会のゆがみや捻れを批判的に抉り出した作品だった。
これらの作品は日本でもたびたび上演されており、正直こちらはすんなりと入っていける。
今回の『わが町』に関しては、ワイルダーの「異質性」が理解出来ず退屈きわまる三時間だった。
(画像/左 小堺一機 右 鷲尾真知子 )
(画像上段から 斉藤由貴 相島一之 佃井皆実 中村倫也 )
『わが町』観劇後にあらためてホンを読んでみた。もちろん今回上演された新訳である。
虚心に読み返せば、舞台で見えなかった新たな発見がいくつかあった。
生きているってことは、ああこういうことなんだと。
作中ギブズ夫人(斉藤由貴)が「それは真実のすべてじゃない」というセリフがある。
つまり生とは「無知と盲目の世界」「死者の眼」をもって初めて「生」の意味を知ることができるというのです。
いささか哲学的になっちゃいましたから、これで擱きますね(笑)。
小堺一機は精いっぱいの努力で、見ごたえのある舞台監督役を作り出した。
ドクター・ギブスの相島一之、ウエブ夫人の鷲尾真知子は両人とも手堅い。
アイドルらしいが中村倫也は役の掘り下げがいまひとつ。なんだか分からぬうちに終わってしまった感じ。
エミリー役はオーディションで選ばれた佃井皆実。
チャーミングだが、もう少し溌剌さがほしい。
今回注目したのが音楽の稲本 響。
舞台上に1912年製のスタインウェイを持ち込んでの生演奏。
ピアノは『わが町』が書かれた時代のものだそうですが、曲調は現代調でスリリグに活性化したのがよかった。
(2011年1月20日 新国立劇場中ホールにて所見 )