1987年7月17日、裕次郎さんのご逝去を報じる臨時ニュースが流れた時は、全身の力が抜けました。
確か、「夕焼けニャンニャン」観ていたと思います。
それから各局で裕次郎さんの追悼番組を放送、テレ朝が一番力を入れていたと思いますが、当時太陽ロスだった私は、日テレに注目していて、あれは週明けて月曜日か火曜日だったか、午後のひるさがり放送の「酒井広のうわさのスタジオ」。遺影に選ばれたのは♯665クライマックス、そしてコメントゲスト、当時は既にこういう番組にはめったに顔を出さなかった露口さん、そして辰平さん、木之元さん、岡田P氏という豪華な出演陣・・・・この面々を見たときには既に号泣してました・・・。
VTRのチョイスは最終回のインタビュー映像中心に名場面(#1~)で構成、さらにBGMも的確に選曲されていたことから、もしかすると太陽スタッフが編集に関わっていたのではないかというぐらいの出来でした。
露口さんの長い「間」とか、辰平さんの毒(タバコ)のはなしとか、辛さがダイレクトに伝わってきて、こんな辛い追悼番組、後にも先にもありませんね・・・。
最終回の7分間アドリブも放送され、沖さんの話にも出てきて・・・。
露口さんにとっては、裕次郎さんは「永遠のボス」だと・・・。
恐らく、露口さんとしては、この番組で裕次郎さんの追悼をする側の筆頭としての役割を以て、「一個人・露口茂」が公に太陽を語るという事に終止符を打たれたのではないかと思っています。
それに、太陽を語るということは、必然的に裕次郎さんの事を語らなければならないので、その辛さもあるのかもしれません。
露口さんが、DVDのインタビューに参加されないのは、そのあたりも原因にあるのかもしれません。
と、命日を過ぎてしまいましたが、そんなことを想い出して・・・。
私の世代は、裕次郎さん=ボスという方が多いですが、私はちょっと違うかも・・・(^_^;)
本放送当時、北海道の日テレ系・日曜日の午後2時ごろからは、1960年代の映画をバンバン放送していました。
そこで日活作品が多く放送され、映画全盛期の裕次郎さんのお姿は馴染みがあったことと、文句なく太陽本放送当時は、トップ大スターという地位はごく自然だったので、裕次郎さん=トップスター というのが個人的には当たり前であり。
それに、もう一つあるのが。
石原プロ自体が報道やテレビに理解があり、ワイドショーなどの取材を積極的に受けていたというのもあるのかもしれません。梨本さんを筆頭とするレポーターとも友好的な関係を保っていたことから、仕事も遊びもダイナミックなところを取材させていたということで、観ている側に強烈な印象を残していました。
なので、そういう意味でもなじみ深い存在ではあったと思います。
追悼番組で、辰平さんが、死ぬ順番があべこべになった、若すぎますと項垂れたのが・・・・本当に項垂れました。
ちょっととりとめのない書き方になってしまいましたが、済みません、書き逃げします<(_ _)>
確か、「夕焼けニャンニャン」観ていたと思います。
それから各局で裕次郎さんの追悼番組を放送、テレ朝が一番力を入れていたと思いますが、当時太陽ロスだった私は、日テレに注目していて、あれは週明けて月曜日か火曜日だったか、午後のひるさがり放送の「酒井広のうわさのスタジオ」。遺影に選ばれたのは♯665クライマックス、そしてコメントゲスト、当時は既にこういう番組にはめったに顔を出さなかった露口さん、そして辰平さん、木之元さん、岡田P氏という豪華な出演陣・・・・この面々を見たときには既に号泣してました・・・。
VTRのチョイスは最終回のインタビュー映像中心に名場面(#1~)で構成、さらにBGMも的確に選曲されていたことから、もしかすると太陽スタッフが編集に関わっていたのではないかというぐらいの出来でした。
露口さんの長い「間」とか、辰平さんの毒(タバコ)のはなしとか、辛さがダイレクトに伝わってきて、こんな辛い追悼番組、後にも先にもありませんね・・・。
最終回の7分間アドリブも放送され、沖さんの話にも出てきて・・・。
露口さんにとっては、裕次郎さんは「永遠のボス」だと・・・。
恐らく、露口さんとしては、この番組で裕次郎さんの追悼をする側の筆頭としての役割を以て、「一個人・露口茂」が公に太陽を語るという事に終止符を打たれたのではないかと思っています。
それに、太陽を語るということは、必然的に裕次郎さんの事を語らなければならないので、その辛さもあるのかもしれません。
露口さんが、DVDのインタビューに参加されないのは、そのあたりも原因にあるのかもしれません。
と、命日を過ぎてしまいましたが、そんなことを想い出して・・・。
私の世代は、裕次郎さん=ボスという方が多いですが、私はちょっと違うかも・・・(^_^;)
本放送当時、北海道の日テレ系・日曜日の午後2時ごろからは、1960年代の映画をバンバン放送していました。
そこで日活作品が多く放送され、映画全盛期の裕次郎さんのお姿は馴染みがあったことと、文句なく太陽本放送当時は、トップ大スターという地位はごく自然だったので、裕次郎さん=トップスター というのが個人的には当たり前であり。
それに、もう一つあるのが。
石原プロ自体が報道やテレビに理解があり、ワイドショーなどの取材を積極的に受けていたというのもあるのかもしれません。梨本さんを筆頭とするレポーターとも友好的な関係を保っていたことから、仕事も遊びもダイナミックなところを取材させていたということで、観ている側に強烈な印象を残していました。
なので、そういう意味でもなじみ深い存在ではあったと思います。
追悼番組で、辰平さんが、死ぬ順番があべこべになった、若すぎますと項垂れたのが・・・・本当に項垂れました。
ちょっととりとめのない書き方になってしまいましたが、済みません、書き逃げします<(_ _)>