以下のように記事を見つけた。
私が、日ごろ、今回の震災の放射能は○○マイクロシーベルト以下なら安全だけど、年間○○ミリシーベル以下という基準が安全というのはおかしいとかだとか、地震はいろいろ事実を集めるといつ起きてもおかしくない状態だとか、科学的事実の具体的数字に過剰に一喜一憂する今の世の中についていけなくなってきて、なんか変だなということに対するヒントを与えてくれることが書いてある。
「科学には価値がない。生き物には意味がある」:日経ビジネスオンライン
現象に対して法則を見つけるだけであって、なぜということに答えは出さないということだ。
しかし、以下の記述のように科学技術以前の時代は、現象や物事に意味付けをしていた。それを科学が壊したというのだ。
科学で何でも解決すると言うことの偏りすぎた世の中に対する継承となるような気がする。
以下にあるように生物学だけが、価値があるそうだ。
他にも興味深い話が一杯ある。
「だから生物は生き残って子孫を増やすという目的を、あたかももっているかのようにふるまうようにできているのです。
「なぜ鳥は羽をもっているの?」「なぜ羽があるといいの?」と問うて、答えが出るのが生物学です。」
ときたが、以下のように見事にひっくり返される。
「ただしこういう論理の進め方を「自然主義的誤謬」と言います。論理学的には間違いです。」
この先生面白いことを言うなと思ったら、以前四dね感銘を受けた『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者なんですね。
「本川先生の代表作『ゾウの時間 ネズミの時間』では、動物の消費するエネルギーは体積の4分の3乗に比例する、というシンプルな法則を導きだしていらっしゃいます。」
Amazon.co.jp: ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書): 本川 達雄: 本
しかし、これは「現実だけど理論ではない? 」だそうだ。
経験則だって言うヤツですね。私は、変な論理より経験則の方が好きだし、私のかかわっているエンジン開発の世界でも結構経験則でやったほうがよい結果が出ることが多いような気がする。しかし、20世紀の科学発展のおかげでどんどん、経験則はお払い箱にされてきた。
そうだ、そうだ西洋哲学の悪しき流れ!、全く同感。
以下の話も面白い。
現実には、厳密にはフックの法則には従っていないんですよね。
「フックの法則ってありますね。バネにつけるおもりの重さを2倍にすれば、2倍に伸びる、ってやつです。でも、現実のバネに2倍の重りをかけても、2倍には伸びません。バネをつくっている鉄の格子には、格子欠陥が必ず入っているから、2.001倍とかになる。」
「つまり現実には「そのバネの個性」によって、ぴったり法則通りにいかない。この場合、物理学的には、格子欠陥がある現実が悪い、法則が間違っているわけじゃない、と判断します。」
「池上:地球の自転でずれてしまう1日の時間よりも、ずれのないセシウム時計の刻む1日の時間の方が正しいというのと同じですね。」
「科学は現実ではなく「現実を上手にモデル化する」ものだ
科学の論理や数式は厳密だから、科学とは厳密一点張りだと思っている人が多いのですが、本当は、現実を上手に近似する、いいかげんなものなんです。」
そう、そう。小気味良いですね!!!。現実は放射能○○マイクロシーベルトの基準を少し上回った、下回っただけで全てが白黒つくというものではないはずですよね
最後の言葉。
「理論と現実。両方の視点を持って、世界を把握し、分析する……、それが理系において「教養ある」アプローチ、ということになるんでしょうね。」
原発止めれば、、、原発ゼロにすれば、、、、解決みたいな単純な思考停止はいけないと思う。ずっと、ずっと、答えは永遠に出なくても考え続けなくてはいけないし、問題解決、課題解決の努力していのが教養あるアプローチでしょうね。
私が、日ごろ、今回の震災の放射能は○○マイクロシーベルト以下なら安全だけど、年間○○ミリシーベル以下という基準が安全というのはおかしいとかだとか、地震はいろいろ事実を集めるといつ起きてもおかしくない状態だとか、科学的事実の具体的数字に過剰に一喜一憂する今の世の中についていけなくなってきて、なんか変だなということに対するヒントを与えてくれることが書いてある。
「科学には価値がない。生き物には意味がある」:日経ビジネスオンライン
なるほど、わかりました。「科学という学問に価値がない」のではなく、「科学の方法論は、研究対象の『価値』を問わない」ということですね。
現象に対して法則を見つけるだけであって、なぜということに答えは出さないということだ。
しかし、以下の記述のように科学技術以前の時代は、現象や物事に意味付けをしていた。それを科学が壊したというのだ。
科学で何でも解決すると言うことの偏りすぎた世の中に対する継承となるような気がする。
かつて空間にも時間にもあった意味を、科学が壊した
本川:質量に比例して距離の二乗に反比例した力が働いて――というのは「How=どのようにして」に対する答えであって、「Why=なぜ」に対する答えではありません。「意味」を問うのはなぜの方です。それがない。
科学的自然観が世を席巻するまでは違いました。昔は、すべての空間に意味があったんです。日本でもそうです。こっちの方角には神様がいる、別の方角には別の神様がいる。だから、方違えに忙しかった。ところが、科学がこうした意味をぬぐい去った。空間は意味のない、全部均一のものになってしまいました。
以下にあるように生物学だけが、価値があるそうだ。
生物学だけが、「価値」がある。
この38億年のあいだに、生物にとっては何度も絶滅の危機が訪れました。巨大隕石が降ってきたり、地球全体が凍りついたり、環境は激変しました。それでも、生物は途絶えなかった。もし生物が続いていくようにできていなかったら、現代まで続いているはずがないでしょう。だから生物は続くようにできている存在だと言っていい。38億年の歴史が何よりの証拠です。
生物がずっと続くことのできる秘訣が生殖です。個体は亡びるに決まっています。熱力学の第二法則により、形あるものは必ず亡びる。それでも亡び果てないようにするメカニズムが生殖です。定期的に自分を複製し、自己を新たに増やす。そうすれば、今の自分が亡びても、複製した自分、つまり子供が生き延びられます。
他にも興味深い話が一杯ある。
「だから生物は生き残って子孫を増やすという目的を、あたかももっているかのようにふるまうようにできているのです。
「なぜ鳥は羽をもっているの?」「なぜ羽があるといいの?」と問うて、答えが出るのが生物学です。」
ときたが、以下のように見事にひっくり返される。
「ただしこういう論理の進め方を「自然主義的誤謬」と言います。論理学的には間違いです。」
この先生面白いことを言うなと思ったら、以前四dね感銘を受けた『ゾウの時間 ネズミの時間』の著者なんですね。
「本川先生の代表作『ゾウの時間 ネズミの時間』では、動物の消費するエネルギーは体積の4分の3乗に比例する、というシンプルな法則を導きだしていらっしゃいます。」
Amazon.co.jp: ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学 (中公新書): 本川 達雄: 本
動物のサイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い、総じて時間の流れる速さが違ってくる。行動圏も生息密度も、サイズと一定の関係がある。ところが一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりの総エネルギー使用量は、サイズによらず同じなのである。本書はサイズからの発想によって動物のデザインを発見し、その動物のよって立つ論理を人間に理解可能なものにする新しい生物学入門書であり、かつ人類の将来に貴重なヒントを提供する。
しかし、これは「現実だけど理論ではない? 」だそうだ。
経験則だって言うヤツですね。私は、変な論理より経験則の方が好きだし、私のかかわっているエンジン開発の世界でも結構経験則でやったほうがよい結果が出ることが多いような気がする。しかし、20世紀の科学発展のおかげでどんどん、経験則はお払い箱にされてきた。
生物学は、理系の王道から言わせると、非常に中途半端な立場にいるんです。法則ではなくて、単なる経験則じゃないか、いろいろ変わった事実を集めて喜んでいる、切手収集と同じじゃないかと。このあたりの科学における理論至上主義は、西洋哲学の悪しき流れを汲んでいるところもありますね。
そうだ、そうだ西洋哲学の悪しき流れ!、全く同感。
以下の話も面白い。
現実には、厳密にはフックの法則には従っていないんですよね。
「フックの法則ってありますね。バネにつけるおもりの重さを2倍にすれば、2倍に伸びる、ってやつです。でも、現実のバネに2倍の重りをかけても、2倍には伸びません。バネをつくっている鉄の格子には、格子欠陥が必ず入っているから、2.001倍とかになる。」
「つまり現実には「そのバネの個性」によって、ぴったり法則通りにいかない。この場合、物理学的には、格子欠陥がある現実が悪い、法則が間違っているわけじゃない、と判断します。」
「池上:地球の自転でずれてしまう1日の時間よりも、ずれのないセシウム時計の刻む1日の時間の方が正しいというのと同じですね。」
「科学は現実ではなく「現実を上手にモデル化する」ものだ
科学の論理や数式は厳密だから、科学とは厳密一点張りだと思っている人が多いのですが、本当は、現実を上手に近似する、いいかげんなものなんです。」
そう、そう。小気味良いですね!!!。現実は放射能○○マイクロシーベルトの基準を少し上回った、下回っただけで全てが白黒つくというものではないはずですよね
最後の言葉。
「理論と現実。両方の視点を持って、世界を把握し、分析する……、それが理系において「教養ある」アプローチ、ということになるんでしょうね。」
原発止めれば、、、原発ゼロにすれば、、、、解決みたいな単純な思考停止はいけないと思う。ずっと、ずっと、答えは永遠に出なくても考え続けなくてはいけないし、問題解決、課題解決の努力していのが教養あるアプローチでしょうね。