快気分析

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仕組みとアプローチ -  五徳(徳姫)と築山殿や家康の嫡男「松平信康」 そして築山殿と信康の落命

2023-07-08 18:31:05 | 家康
 五徳(徳姫)にまつわるイザコザ、それは当然ながら「信長によって仕掛けられたもの」に過ぎないのでしょうね。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A7%AB

徳姫(とくひめ、1559年11月11日(永禄2年10月12日) - 1636年2月16日(寛永13年1月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。織田信長の長女。
(中略)
天正7年(1579年)に徳姫は父の信長に、築山殿と信康の罪状(武田との密通など)を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は、安土城に滞在していた家康の使者である酒井忠次を通して信康の殺害を命じたとされる。これにより築山殿は8月29日に小藪村で殺害され、信康は9月15日に二俣城で切腹した。しかし、この「信長の十二ヶ条」は、後に加筆・修正された可能性があるともいわれており、他にも信康切腹事件に関しては不可解な点が多く、近年では家康と信康の対立が原因とする説も出されている[3][4][5]。

引用開始

 これは「原因と結果が逆」で、「五徳(徳姫)が信康の正妻としての立場で情報収集できたからそれを信長が知った」、と言うよりも「信長は五徳とは別の独自の手段で情報収集し、信長の意向により五徳(徳姫)があたかも初めて知ったかのように見せかけるために」信長の内々の指令で五徳が「十二ヶ条の訴状を書いた」と言うカタチにしたのだと考えるのが普通ではないかと思えます。
 それが信長のやり方でしょう。

20230708 19:54

一部訂正必要箇所が有りました。
「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A7%AB

徳姫(とくひめ、1559年11月11日(永禄2年10月12日)」


「https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A7%AB

引用開始(一部抜粋)

徳姫(とくひめ、1559年11月11日(永禄2年10月12日)」に訂正。

「引用開始

 これは「原因と結果が逆」で」


「引用終了

 これは「原因と結果が逆」で」
に訂正です。
 悪しからず。

仕組みとアプローチ -  「鉄砲の三段撃ち」が実際に有ったと更に思ったもう一つの理由

2023-07-02 12:39:42 | 家康
 長篠の戦いにおける「鉄砲の三段撃ち」は実際に有ったと考えている理由については以前に記事にした通りです。
 少部隊がそれぞれ「鉄砲の三段撃ち」をしていた事例と言うのは長篠の戦い以前に既に有ったような歴史的文献も有るようです。
 ですが「少部隊ではなく大中部隊クラスがタイミングを合わせて鉄砲の一斉三段撃ちを出来た」と言うのはこの「長篠の戦い」が初めてだった可能性は少なくないと考えています。
 「少部隊ではなく大中部隊クラスがタイミングを合わせて鉄砲の一斉三段撃ちを出来た」という理由については「鉄砲の総数を知られないようにした為」と言う旨を以前の記事で書きましたが、そう言う面も大きいと思っていますが、更に論理を追跡すると次の様な背景が分かって来ます。
 それは「鉄砲の一斉三段撃ちの規模がタイミング的の同時であるほど、敵方である武田勢の馬にダメージを大きく出来た」と言う事です。
 武田勢の騎馬軍団が騎馬で馬防柵で阻止されて突撃出来なくとも、「馬防柵を倒す為にはまず縄などを使って馬防柵先端に引っ掛けて、それを馬を使って引っ張って倒す」、と言う事は当然のように戦闘現場では試行されていたでしょう。
 ところが「鉄砲の一斉三段撃ち」で馬が驚いて武田軍の思うように動かないとなると、「馬防柵を縄掛けしてから馬を使って引き倒す作戦が実行出来ない」となるわけです。
 なのでやはり「鉄砲の2段撃ち(タイミング取りが無理)や4段撃ち、5段撃ち(タイミング取りがムダ)」とかではなく、「鉄砲の3段撃ち」なのは「ワンツーはタイミングの合図も兼ねた一斉射撃で、三段目のスリーは大中部隊がそのワン・ツーの間隔に合わせたタイミングで一斉三段撃ちを実行出来た」と言うのが当時の戦闘現場では最も有効だったと考えています。
 

仕組みとアプローチ -  武田軍の惨敗と長篠の戦い 結局は織田勢の部隊が見えて無かった情報戦の敗北

2023-06-30 19:04:00 | 家康
 主旨はサブタイトルの通りです。
 当時の武田勝頼は信長が大部隊で出陣したとの情報はわかっていても未だ到着しているかどかがわかっておらず、「もしかしてもうすぐ到着すると言う程度なのでその前に徳川勢8000なら叩けるじゃん、早い内に叩いちゃおう」と言う「賭け」をしちゃったんじゃないでしょうか。
 馬場信春と山県昌景の両翼分散配置での攻撃などから見受けられる戦闘記録からはそう考えざるを得ません。
 まあ結果は織田勢はとっくに到着していながらも武田勢にはその姿を見せないような配置などの「ダマシ」に武田軍が引っかかったわけです。
 織田勢が陣取る森林に何故、武田側の諜報員がいなかったのでしょうね。
 そんな程度の情報収集ではやはり「即日決着で負け」となるのも無理はありません。

仕組みとアプローチ -  酒井忠次と長篠の戦い

2023-06-30 18:36:18 | 家康
 長篠の戦いでは酒井忠次の案で鳶の巣山などの武田軍の砦を奇襲したのが成功して織田・徳川勢が圧勝できたのですが、これって「情報戦で明らかに武田勢が手薄だった」、と言う事でも有ると思うのです。
 酒井忠次を指揮官とする織田・徳川勢の言わば「中入り部隊」が鳶の巣山などの武田軍の砦を奇襲するルートに、「何で武田勢の見張り部隊がいない」とわかっていたのでしょうか。
 仮に武田方の見張りがいて織田・徳川勢の部隊がやって来たとわかったなら、当然、旗などの合図、のろしによる合図、それが無理でも鉄砲の発射による合図などで「武田勢に危機を知らせる通信手段が有ったはず」です。
 ところがそうした記録は残っていません。
 つまり酒井忠次の「中入り部隊」案は既にそのルートには武田勢がいない、いても通報手段を持っていない事を知っていたから実行できた、と言う事ではないでしょうか。
 当時の武田勢は進軍側(つまりアウェイ)、迎え撃つ徳川勢は迎撃側(つまりイン)、と言う事で元々自領地内の森林に見張りを多数配置して武田勢の情報網でどこが弱点かがわかっていたからこその成せるワザだった、と考えていますがどうでしょう。
 ところで長篠の戦いですが、の信長が即日勝利した「桶狭間の戦い」と似ている面が有ると思っています。
 それは「囮と正面攻撃を兼ねた正面部隊」と「敵方には知られずに森林などの見つからないようなルートから奇襲する中入り部隊」をうまく使いこなしている点です。
 いずれにしても「現地の森林でどこに諜報員や守備兵がいるかなどのデータ」が無ければ成功はしないはずです。

仕組みとアプローチ -  孟宗竹と竹束 「竹束の補給戦」と「長篠の戦い」

2023-06-30 17:55:54 | 家康
 これまでの記事で書いた通りで、孟宗竹は少なくとも17世紀までは殆ど日本に存在していませんでした。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%A6%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%81%E3%82%AF

モウソウチク(孟宗竹)はアジアの温暖湿潤地域に分布する竹の一種。種名は冬に母のために寒中筍を掘り採った三国時代の呉の人物、孟宗にちなむ。別名江南竹、ワセ竹、モウソウダケ。
(中略)
日本国内への移入
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出典検索?: "モウソウチク" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2023年5月)
日本では北海道から南西諸島まで広く分布する[2]。北限は函館市とされている[1]。

日本への移入時期は1728年、1736年など諸説ある[1]。

801年(延暦20年)、京都府長岡京市の海印寺、寂照院の開山・道雄上人が唐から持ち帰った、また1228年(安貞2年)に曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰った、など諸説あるが全国へ広まったのは薩摩藩による琉球王国経由の移入によってと考えられている。「南聘紀考 下」によると元文元年3月に島津吉貴が、琉球在番として琉球行きを命じられた物頭野村勘兵衛良昌に孟宗竹を輸入するように命じ、勘兵衛は琉球滞在中に清より輸入し、元文3年に帰国すると吉貴のいる仙巌園に孟宗竹を献上したという。

引用終了

 と言う事で僅かには国内に有ったのかもしれないものの、竹束に利用する程は殆ど無かったと言う感じもします。
 ですが、もしかしたら戦国武将の中にはこの孟宗竹の銃弾防御機能、特に大鉄砲、大筒などに対する防御機能に目をつけてどこかで繁殖させていた可能性もゼロではありません。
 こんな状況だったわけですが、当時は城攻めや野戦などが頻繁に起きていた状況からすると、竹束の需要はかなり有ったはずと考えられます。
 また当時ならば真竹やハチクなどのタケノコもかなりの食糧だったはずなので、竹束にできるまで生育し固くなったものはそう多くなかった可能性はあるとも思えます。(タケノコと言うと孟宗竹の大きなタケノコをイメージしますが真竹などのタケノコは細いものの採りやすくてしかも結構美味しいんです)。
 武田軍が敵地に侵攻し、ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので、そう言う竹の確保があまり十分ではなく、一方で迎撃する側の織田・徳川勢の方は自分の領地などで多くの竹林の位置や竹の質や量についてのデータが十分にあり、その補給路も確保していたはずで、性能の良い竹束の補給戦ではどう考えても織田・徳川勢の方が有利だったと考えています。
 「竹束の補給戦」と言う観点でも織田・徳川勢の方が有利だったはずなのは言うまでも有りません。

20230630 17:55 追記 一部訂正
 本文にやや言葉足らずの部分が有りました。
 特に常識的に知られている事に過ぎませんが「ましてや長篠の戦いでは長篠城と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」は正確には「ましてや長篠の戦いでは長篠城周辺の武田軍の砦である鳶ヶ巣山などの各砦と設楽が原で武田軍が連続せずに分断された状態になっていたようなので」に訂正です。