当人相応の要求(24)
例えば、こうである。
それが、なくてはならない世界の情景。たいらな地平線に屹立する建築物。もし、それらのものがなかったら? 食卓に塩や胡椒がないようなものだろうか?
1852年に生まれた、アントニオ・ガウディという人物。70年代後半には、建築の仕事をぼちぼち始め、先行きの不安になったサグラダ・ファミリアの二代目建築家として、その仕事に没頭していく。
彼は、知らない。スペインの風土と気候を。人間のもつ優雅な想像力を。そして、優雅でもなく、ときにはエキセントリックに、ときには悲愴的に踊られたり、語られたりするダンスを。
しかし、知ることもある。いや、自分もそのような境遇に起きたいという希望を。
一つの建築物のことだけに、頭を占領され、そのこと以外には興味がなくなっていく、人間の心の意向を憧れたりもする。その建物は、縦に100メートルほどあるそうだ。成功すれば、(なにに? 建築の伝承の成果があがれば)その倍近い高さになる予定になるとのことだ。
一人の人間の頭のなかにあるものが、世界に語りかけること。
フランスの王制が終わりを告げ、100年も経った頃、万国博覧会というものが開かれる。それを記念して、ある高い建築物が表れる。その前には、地上に痕跡すらなかったもの。しかし、いまでは誰もがあって当たり前と認める記念の塔。
建築した人は、実際には違うらしいが、建てることに尽力した、ギュスターブ・エッフェルという人の名前と切っても切れない関係になっている。
およそ高さ320メートルほどの、世界に対する人間の知恵の確かな証拠。モーパッサンという作家は、その建物を毛嫌いしたらしいが、ずっとそんな気持ちだったのだろうか?
彼も、その地を歩くことを夢想する。遠いところから、方向を間違えないための目印として。また、近くまで近寄り、痛くなるほど首を傾げた姿勢で、上空を見上げる。ジーンズのうしろのポケットには、モーパッサンの文庫でも入れながら。
ビッグ・ベンという愛称が、とても似合うイギリスの時計塔。高さ、およそ95メートル。その世界に時を知らせる時計は1858年に完成しているそうだ。
工事の責任を持ち、建設に力を貸したのは、ベンジャミンという人物。その名前。
だが、それからの人間社会は忙しくなり、時間を知るのには、時計の塔を眺めたり、鐘を鳴るのを気にするほどの余裕はなくなってしまうのかもしれない。それぞれの腕に、管理という名のときが、それぞれの所有者を無限にしばる。
トーマス・ハーディという人間の悲劇を垣間見せてくれる小説家を、彼は好きであった。その悲しいまでに真っ直ぐなジュードという人物。環境の犠牲者でありつづける人間。その物語の主人公に夢中になっていた彼は、その付近のウェストミンスター寺院などを歩いた気でいる。いずれ、行くことにもなるだろう。与えられた環境に挑み、おびえないこころの奥の闘志があれば。
東京にも美しい塔がある。赤と白のバランス。前田久吉という大阪の新聞王でもある人の強い願いで、世界一の塔が建つ。世界に実力を証明しなければならなかった回復途中の日本。
テレビというものが持つ強み。だれもが、時代の目撃者。いっぱしの評論家気取り。
電波を浴び続ける人類。新しいものを追い求める衝動。古くなるもの、廃れていくもの。
ここもいずれ、必要なくなるのかもしれない。テレビは、なくならないにしても。
新しく東京に建つ、タワー。江戸から続く東京の花の名所の近くで。
彼は、こころのなかで永井荷風という作家を思い浮かべている。寂しい都会を放浪する男。景色や風景の一部に成り果てること。彼も颯爽と、なにごともこの地上に生きた痕跡をのこさないで生きられたら、と思っている。永井荷風という人物が、もしかしたら成し遂げたのではないのかと期待を膨らませて。
このように、もうそれらのものが無かった世界を思い出すことが出来ない人類。当然のように、現存してから後に生まれてきた彼。世界は、いずれ数回塗り替えられるだろう。
彼の心は、簡単に塗り変わってしまうのだろうか? それとも、あるこころの奥の、懐かしさの表現のように、それらの建物がなくなってしまったとしても、はっきりとリアルに伝えられるのか。
例えば、こうである。
それが、なくてはならない世界の情景。たいらな地平線に屹立する建築物。もし、それらのものがなかったら? 食卓に塩や胡椒がないようなものだろうか?
1852年に生まれた、アントニオ・ガウディという人物。70年代後半には、建築の仕事をぼちぼち始め、先行きの不安になったサグラダ・ファミリアの二代目建築家として、その仕事に没頭していく。
彼は、知らない。スペインの風土と気候を。人間のもつ優雅な想像力を。そして、優雅でもなく、ときにはエキセントリックに、ときには悲愴的に踊られたり、語られたりするダンスを。
しかし、知ることもある。いや、自分もそのような境遇に起きたいという希望を。
一つの建築物のことだけに、頭を占領され、そのこと以外には興味がなくなっていく、人間の心の意向を憧れたりもする。その建物は、縦に100メートルほどあるそうだ。成功すれば、(なにに? 建築の伝承の成果があがれば)その倍近い高さになる予定になるとのことだ。
一人の人間の頭のなかにあるものが、世界に語りかけること。
フランスの王制が終わりを告げ、100年も経った頃、万国博覧会というものが開かれる。それを記念して、ある高い建築物が表れる。その前には、地上に痕跡すらなかったもの。しかし、いまでは誰もがあって当たり前と認める記念の塔。
建築した人は、実際には違うらしいが、建てることに尽力した、ギュスターブ・エッフェルという人の名前と切っても切れない関係になっている。
およそ高さ320メートルほどの、世界に対する人間の知恵の確かな証拠。モーパッサンという作家は、その建物を毛嫌いしたらしいが、ずっとそんな気持ちだったのだろうか?
彼も、その地を歩くことを夢想する。遠いところから、方向を間違えないための目印として。また、近くまで近寄り、痛くなるほど首を傾げた姿勢で、上空を見上げる。ジーンズのうしろのポケットには、モーパッサンの文庫でも入れながら。
ビッグ・ベンという愛称が、とても似合うイギリスの時計塔。高さ、およそ95メートル。その世界に時を知らせる時計は1858年に完成しているそうだ。
工事の責任を持ち、建設に力を貸したのは、ベンジャミンという人物。その名前。
だが、それからの人間社会は忙しくなり、時間を知るのには、時計の塔を眺めたり、鐘を鳴るのを気にするほどの余裕はなくなってしまうのかもしれない。それぞれの腕に、管理という名のときが、それぞれの所有者を無限にしばる。
トーマス・ハーディという人間の悲劇を垣間見せてくれる小説家を、彼は好きであった。その悲しいまでに真っ直ぐなジュードという人物。環境の犠牲者でありつづける人間。その物語の主人公に夢中になっていた彼は、その付近のウェストミンスター寺院などを歩いた気でいる。いずれ、行くことにもなるだろう。与えられた環境に挑み、おびえないこころの奥の闘志があれば。
東京にも美しい塔がある。赤と白のバランス。前田久吉という大阪の新聞王でもある人の強い願いで、世界一の塔が建つ。世界に実力を証明しなければならなかった回復途中の日本。
テレビというものが持つ強み。だれもが、時代の目撃者。いっぱしの評論家気取り。
電波を浴び続ける人類。新しいものを追い求める衝動。古くなるもの、廃れていくもの。
ここもいずれ、必要なくなるのかもしれない。テレビは、なくならないにしても。
新しく東京に建つ、タワー。江戸から続く東京の花の名所の近くで。
彼は、こころのなかで永井荷風という作家を思い浮かべている。寂しい都会を放浪する男。景色や風景の一部に成り果てること。彼も颯爽と、なにごともこの地上に生きた痕跡をのこさないで生きられたら、と思っている。永井荷風という人物が、もしかしたら成し遂げたのではないのかと期待を膨らませて。
このように、もうそれらのものが無かった世界を思い出すことが出来ない人類。当然のように、現存してから後に生まれてきた彼。世界は、いずれ数回塗り替えられるだろう。
彼の心は、簡単に塗り変わってしまうのだろうか? それとも、あるこころの奥の、懐かしさの表現のように、それらの建物がなくなってしまったとしても、はっきりとリアルに伝えられるのか。