当人相応の要求(28)
例えば、こうである。
誰かが、箱というものを発明している。中に物を封じ込めるものとして。その中にあるものは、自分のものだという確約として。
子供の頃、大切にしていた宝箱。誰もが一時、持っていたものかもしれない。その人にしか分からない大切なもの。彼にも、そのような箱があった。壊れかけのプロモデルや、なにかの一部、正体不明なネジやボルトなどもあった。
ある日、学校から帰ると、いとこのお兄さんがいて、その中の破片をつなぎ合わせ、ロボットを作り上げていた。その奇跡のような作業に驚いたとともに、所有権の問題がからみ、その完成品がどうなったかまでは覚えていないが、いくらか不愉快に感じたことを、彼は幼いこころながらも覚えている。つまりは、誰かの所有権。
その箱が建物になり、中味も豪華なものに変貌していく。
上野にある東京国立博物館。その裏側にある碑。初代館長の思い。
町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年 (1865)に渡英、大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱 し、自らの財産を投げうって書・古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年に退職、仏門に入り、明治30年9月15日上野で 没しました。
彼は、思う。自分は人の顔を覚えるのは得意だが、その逆に名前が覚えられない。もしかして、造形を印象付ける何かの方が、脳の中に多く組み込まれているのだろうか。
博物館や美術館でなにかを見る。作品と対峙する。形や印象は、こころに残っているのだが、その作品名が記憶にないため後で困った状態になる。
しかし、その所有の仕方。日本も一時、お金が膨らんでいく時代があった。不動産の無謀な価格の急上昇もあった。そんな時代に彼も成長した。そのお金を政策として地方にばらまき、箱を作り、中味をどこからか買ってきた。しかし、あまりにもそれは、収穫の少ない、実りの小さいものではないのか。
大英博物館。巨大化していた大英帝国。その子供や孫のような植民地を世界のあらゆるところに抱え、そこから、根こそぎ所有権を訴え、持ってきている。その収穫の多さ。利回りの素晴らしさ。ある時代の国家の繁栄の仕方と、許されてきたものの違いと、傍若無人とが入り混じったもののように考える。そうした方法でしか、手に入れられない有数のもの。
彼は、夢想する。その箱にまとめて、集約された形で所有されているものを出来るだけ見ること。こころは、ウイーンに飛んでいる。
ハプスブルク家という王様の意地とプライドの400年間の記録として、まれにみる美術コレクションを保存している美術館がある。1891年、一般公開され、王様(もちろん女王がいれば含む)以外の庶民の好奇心ある目にも解放される。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している、ということになっている、そのなかでもブリューゲルの名作の数々、『雪中の狩人』『農民の踊り』『子どもの遊戯』など(彼は形はあれね、ということで記憶にはあるのだが、資料で調べてみないと全く名前はわからないのだが)、美術全集でおなじみの傑作が一室に納められている部屋があるらしく、彼はそこに足を踏み入れられる日がくることを、自分の人生に期待している。
その名前は、端的にも美術史美術館。
民衆の土臭い繁栄の土台(底辺として)のような生活に、郷愁と愛着と誇りをもっている彼。もし、格差というものが如実に、なくならないものとして世界に存在し続けるならば、その下側に居場所を見つけたいと思っている彼だが、ある多くの人々の手の技による世界の遺産に触れる機会を作ってくれるのは、植民地を有した国家や、ヨーロッパの繁栄の頂点としての王様や、一億円のばら撒きの結果としてであることを知る。その、アンバランスな世の中に、所有権の有無を計る。
例えば、こうである。
誰かが、箱というものを発明している。中に物を封じ込めるものとして。その中にあるものは、自分のものだという確約として。
子供の頃、大切にしていた宝箱。誰もが一時、持っていたものかもしれない。その人にしか分からない大切なもの。彼にも、そのような箱があった。壊れかけのプロモデルや、なにかの一部、正体不明なネジやボルトなどもあった。
ある日、学校から帰ると、いとこのお兄さんがいて、その中の破片をつなぎ合わせ、ロボットを作り上げていた。その奇跡のような作業に驚いたとともに、所有権の問題がからみ、その完成品がどうなったかまでは覚えていないが、いくらか不愉快に感じたことを、彼は幼いこころながらも覚えている。つまりは、誰かの所有権。
その箱が建物になり、中味も豪華なものに変貌していく。
上野にある東京国立博物館。その裏側にある碑。初代館長の思い。
町田久成は天保9年(1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年 (1865)に渡英、大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志し、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱 し、自らの財産を投げうって書・古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年に退職、仏門に入り、明治30年9月15日上野で 没しました。
彼は、思う。自分は人の顔を覚えるのは得意だが、その逆に名前が覚えられない。もしかして、造形を印象付ける何かの方が、脳の中に多く組み込まれているのだろうか。
博物館や美術館でなにかを見る。作品と対峙する。形や印象は、こころに残っているのだが、その作品名が記憶にないため後で困った状態になる。
しかし、その所有の仕方。日本も一時、お金が膨らんでいく時代があった。不動産の無謀な価格の急上昇もあった。そんな時代に彼も成長した。そのお金を政策として地方にばらまき、箱を作り、中味をどこからか買ってきた。しかし、あまりにもそれは、収穫の少ない、実りの小さいものではないのか。
大英博物館。巨大化していた大英帝国。その子供や孫のような植民地を世界のあらゆるところに抱え、そこから、根こそぎ所有権を訴え、持ってきている。その収穫の多さ。利回りの素晴らしさ。ある時代の国家の繁栄の仕方と、許されてきたものの違いと、傍若無人とが入り混じったもののように考える。そうした方法でしか、手に入れられない有数のもの。
彼は、夢想する。その箱にまとめて、集約された形で所有されているものを出来るだけ見ること。こころは、ウイーンに飛んでいる。
ハプスブルク家という王様の意地とプライドの400年間の記録として、まれにみる美術コレクションを保存している美術館がある。1891年、一般公開され、王様(もちろん女王がいれば含む)以外の庶民の好奇心ある目にも解放される。古代から19世紀に至るヨーロッパ各地の美術品を収蔵している、ということになっている、そのなかでもブリューゲルの名作の数々、『雪中の狩人』『農民の踊り』『子どもの遊戯』など(彼は形はあれね、ということで記憶にはあるのだが、資料で調べてみないと全く名前はわからないのだが)、美術全集でおなじみの傑作が一室に納められている部屋があるらしく、彼はそこに足を踏み入れられる日がくることを、自分の人生に期待している。
その名前は、端的にも美術史美術館。
民衆の土臭い繁栄の土台(底辺として)のような生活に、郷愁と愛着と誇りをもっている彼。もし、格差というものが如実に、なくならないものとして世界に存在し続けるならば、その下側に居場所を見つけたいと思っている彼だが、ある多くの人々の手の技による世界の遺産に触れる機会を作ってくれるのは、植民地を有した国家や、ヨーロッパの繁栄の頂点としての王様や、一億円のばら撒きの結果としてであることを知る。その、アンバランスな世の中に、所有権の有無を計る。