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当人相応の要求(31)

2007年10月08日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(31)

例えば、こうである。
 地面のなかにひっそりと潜り、その存在を消して、誰かが通過するのを気長に待つもの。攻撃的な武器の範疇のなかでは、まぎれもなく受身である。でも、その意義や威力は、立派過ぎるほど効力がある。
 地雷という名前がついている。負荷がかかる重さによって、人間や戦車などに細かく対応も出来るようだ。いま、現在も、地上のどこかで、誰かの到来を待つ。夢や希望に捉われた、はかない人間の自信のないこころのように。
 1984年のサラエボ。自由な競技者の象徴としてのオリンピック。一先ずは、五体満足の身体と集中力でアピールするもの。もちろん、その裏表のように、ハンディを持つ人の大会もある。
 何人かに一人は、メダルを手にする。何人かは、こちらの方が多いが、練習の甲斐もむなしく、敗北感に覆われる。勝利者の割合はどれくらいのものだろう? いたって少ないはずだ。
 その自由の理想ある町が、戦場となる。オリンピックの2回ほど開催される期間の後に、そこはきれいな街並みだったらしいが、廃墟と銃声の絶えない町になる。誰かが、望んだのだろうか。ある人の命は無くなり、ある人たちは生き延びる。その割合は? 勝利者がいるのか? もし仮にいたとしたら、勝利者の手にするものは?
 現実はつづく。ほころびたジーンズの膝や裾の部分のように。
 いまだに、ひっそりと地中に眠るもの。割合は、人口の6人に一人の割り当てで、まだ残っているそうだ。急に訪れる不安と現実化される、役割を全うする武器。いつか、お前を追いつめてやるぞ、という決意。
 もちろん、それらの武器が残るなら、廃絶や撤廃を考える人たちがいる。実際に行動を起こす人も少なからずいる。その表舞台に立つ人。
 プリンセス・オブ・ウエールズ。選ばれしもの。ボスニアが戦場となっている頃に、別居する。庶民という立場を揺るぎない足場として育った日本人の彼は、テレビのインタビューで、自分の半生を語った彼女の声を聞く。しかし、その伏し目勝ちな表情は強く印象に残るが、肉声のイメージがなく、すぐにその声を忘れてしまう。
 ひっそりと、誰かの不幸をぴったりと背中に張り付き、そのチャンスが到来する時期を待つもの。ある日、大切な誰かの存在がなくなる。ボスニアの町で、地雷を踏んだためか、もしくは、1997年、8月の末にパリの道路の車の中でか。
 理解するきっかけが必要である。彼は言葉による具体的な答えが欲しくなるような心がある。ある瞬間、それを求めてもいないときに、不意に分かるときもある。
ヘレン・フィールディングという人の書いた「ブリジッド・ジョーンズの日記」という書物のなかで、イギリス人があまりにも彼女のことをいじめたものだから、神様が取り上げてしまった。ということが書かれていて、その本を読んだ彼は追悼の言葉としては、最高のものと考えた。だが、実際に、本物の弟は、葬儀の中で、
「狩猟の女神の名を持つあなたが、人々に追い掛け回されるのはなんという皮肉であろう」と弔辞を残す。
 アンゴラを歩く彼女。世界的な名声を、良い意味で利用する活動。まだまだ、カンボジアにも、誰かの命を消極的な形で狙っているものが見つけられずにいる。
 誰しも、急に世界の中でささやかながらも自分の居場所を失うときがある。ある人は、友人を失ったり、働く場所をうしなったり、家や貯えをなくすことも当然のようにある。そのことに積極的にか、間接的にか関わってもよいのだろうか?
 36歳で、美しさの陰りもない最中で、その小さな足場を取り外されてしまった人。彼は、いつの日か、自分の年齢が彼女のストップした年齢を上回っていることを知る。
 しかし、誰かの存在、その存在が象徴的であればあるほど、無くなった瞬間には、こころの中で理解する時間が必要になる。結局は、その理解したい気持ちも、知っていて負け戦をしているようなことかもしれない。国が分かれる。サッカーを見ながら、新しい国家の名前を必然的に覚えさせられる憂鬱感。その逆に、妖精というニックネームを与えられた存在を、彼は日本の地で知る。
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