当人相応の要求(32)
例えば、こうである。
映像に音をつける作業。それに、従事する人たち。卵が先なのか?
彼は、暗い中で、椅子に座りながら映像を追い求めることを、そのくつろいだ時間に、人生のわりかし多くの時間を割いてきた。目線の先にあるもの。それは、ハリウッド製のモノクロの映画かもしれない。男女が出会って、危機を迎え、ときには解決したり、よりが戻ったり、永久に離れ離れになったりするときもある。
また、別の機会には、フランスの都市を舞台にした華麗なる逆転劇が描かれているときもある。その、途中や最後の盛り上がる場面に印象的に挟まれる音楽があることについて知識を増やしていく。
そういうことに長けている人たちがいることも知っていくようになる。例えば・・・
「太陽がいっぱい」というフランスの美しい顔をもつ男性が主人公の映画。完全に別の人間になりきるチャンスがある。その犯罪が、これまた美しく完成される寸前で、すべての愚考が暴かれていく。その後ろに哀切に鳴る音楽。これを、一体、誰が作曲したのだろう?
その同じ人は、大作と呼ぶに相応しい、アメリカのイタリア系のマフィアの歴史劇のテーマソングも書いている。
だが、本人の弁では、映画の音楽を作ることは、本職ではなく、実際はクラシックの作曲家だと自分で語る。しかし、かれは、その本職の技を知らない。すべては仮初めだと思っている音楽に、胸を焦がしていく。ニーノ・ロータというイタリアの人。
ロシアのひまわり畑。そこで記憶をなくした男性が、家庭を作っている。もしかして、過去に一度、結婚したことがあるのだろうか? そして、以前の妻は、生きているその男性を探す旅に出る。そして、やっと本物を見つけるが、その時に流れる音楽。ヘンリー・マンシーニという多作な人。その口ずさめる情緒的な音楽。彼は、もっとその作曲家のメロディーを知りたくなり、数枚組みのCDを買い集める。
それで、その人は1994年に、この世での歩みを止める。70年で、おそらく多くの耳とそこから入る記憶により、称えられる人。
しかし、彼が誰より好きな映画音楽家は、フランシス・レイだ。甘酸っぱい、永久に手に入らないものを追い求めるような、柔らかい羽毛のような音楽。いつか大人になって、可憐さを失う少女の一瞬の輝きを写真に納めたような音楽。
あるレーサーがいる。命の危機にさらされ、それが元で妻を失う。自分には、可愛い一人の男の子が残っている。休みには、寄宿舎にいるその子と遊び、日曜が終わると、その子に別れを告げ、次の一週間を待つ。同じように、一人の女の子を持つ母親と知り合うようになる。彼らは、それぞれ痛手を負っているが、それを忘れるかのように恋に陥る。しかし、昔に負った傷が深くこころに入り込んでいるため、ある瞬間に、それ以上すすむのを躊躇しそうになる。だが、それで本当によいのだろうか?
その時に流れる音楽。クロード・ルルーシュという映画監督の画期的な作品。男と女。まだまだ、そのチームは、たくさんの鮮烈な映像と、哀愁ある音楽を組み合わせて名作を連発する。
まだまだいる。全編のセリフを歌にした、ミシェル・ルグランという人。
それらの人の考え出した音楽が、完全なる映像をより一層、豊かなものにしていく。さらに、サスペンスを盛り上げたバーナード・ハーマンというひとの先鋭的なサイコの音楽。
彼は、街中を歩いている。ふとした時に店やアーケードから音楽が流れてくる。そういえば、この音楽を聴いたときには、あんなことをしていたっけ? と自分のささやかなる半生のバックに流れていた音楽たちと邂逅する。
例えば、シンディー・ローパーという80年代的な音楽家がいる。その人のハスキーな高い声を聴くと、彼は、自分が10代であった時に、簡単に戻れることを知っている。
大人になれば、そういう鮮烈な印象深い事件と決裂してしまうのだろうか、あまり思い出せなくなる。その為に、もっといろいろ思い出を増やしておけばよかったと思うと同時に、いや、いままで確保してきた思い出で、その小さな集合体でもう充分なのではないかと相反する気持ちの中を揺れる。
例えば、こうである。
映像に音をつける作業。それに、従事する人たち。卵が先なのか?
彼は、暗い中で、椅子に座りながら映像を追い求めることを、そのくつろいだ時間に、人生のわりかし多くの時間を割いてきた。目線の先にあるもの。それは、ハリウッド製のモノクロの映画かもしれない。男女が出会って、危機を迎え、ときには解決したり、よりが戻ったり、永久に離れ離れになったりするときもある。
また、別の機会には、フランスの都市を舞台にした華麗なる逆転劇が描かれているときもある。その、途中や最後の盛り上がる場面に印象的に挟まれる音楽があることについて知識を増やしていく。
そういうことに長けている人たちがいることも知っていくようになる。例えば・・・
「太陽がいっぱい」というフランスの美しい顔をもつ男性が主人公の映画。完全に別の人間になりきるチャンスがある。その犯罪が、これまた美しく完成される寸前で、すべての愚考が暴かれていく。その後ろに哀切に鳴る音楽。これを、一体、誰が作曲したのだろう?
その同じ人は、大作と呼ぶに相応しい、アメリカのイタリア系のマフィアの歴史劇のテーマソングも書いている。
だが、本人の弁では、映画の音楽を作ることは、本職ではなく、実際はクラシックの作曲家だと自分で語る。しかし、かれは、その本職の技を知らない。すべては仮初めだと思っている音楽に、胸を焦がしていく。ニーノ・ロータというイタリアの人。
ロシアのひまわり畑。そこで記憶をなくした男性が、家庭を作っている。もしかして、過去に一度、結婚したことがあるのだろうか? そして、以前の妻は、生きているその男性を探す旅に出る。そして、やっと本物を見つけるが、その時に流れる音楽。ヘンリー・マンシーニという多作な人。その口ずさめる情緒的な音楽。彼は、もっとその作曲家のメロディーを知りたくなり、数枚組みのCDを買い集める。
それで、その人は1994年に、この世での歩みを止める。70年で、おそらく多くの耳とそこから入る記憶により、称えられる人。
しかし、彼が誰より好きな映画音楽家は、フランシス・レイだ。甘酸っぱい、永久に手に入らないものを追い求めるような、柔らかい羽毛のような音楽。いつか大人になって、可憐さを失う少女の一瞬の輝きを写真に納めたような音楽。
あるレーサーがいる。命の危機にさらされ、それが元で妻を失う。自分には、可愛い一人の男の子が残っている。休みには、寄宿舎にいるその子と遊び、日曜が終わると、その子に別れを告げ、次の一週間を待つ。同じように、一人の女の子を持つ母親と知り合うようになる。彼らは、それぞれ痛手を負っているが、それを忘れるかのように恋に陥る。しかし、昔に負った傷が深くこころに入り込んでいるため、ある瞬間に、それ以上すすむのを躊躇しそうになる。だが、それで本当によいのだろうか?
その時に流れる音楽。クロード・ルルーシュという映画監督の画期的な作品。男と女。まだまだ、そのチームは、たくさんの鮮烈な映像と、哀愁ある音楽を組み合わせて名作を連発する。
まだまだいる。全編のセリフを歌にした、ミシェル・ルグランという人。
それらの人の考え出した音楽が、完全なる映像をより一層、豊かなものにしていく。さらに、サスペンスを盛り上げたバーナード・ハーマンというひとの先鋭的なサイコの音楽。
彼は、街中を歩いている。ふとした時に店やアーケードから音楽が流れてくる。そういえば、この音楽を聴いたときには、あんなことをしていたっけ? と自分のささやかなる半生のバックに流れていた音楽たちと邂逅する。
例えば、シンディー・ローパーという80年代的な音楽家がいる。その人のハスキーな高い声を聴くと、彼は、自分が10代であった時に、簡単に戻れることを知っている。
大人になれば、そういう鮮烈な印象深い事件と決裂してしまうのだろうか、あまり思い出せなくなる。その為に、もっといろいろ思い出を増やしておけばよかったと思うと同時に、いや、いままで確保してきた思い出で、その小さな集合体でもう充分なのではないかと相反する気持ちの中を揺れる。