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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(62)

2013年05月22日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(62)

 大勢のひとが拍手をする。その拍手の音の渦につつまれるひと。川崎さんはなぜ、このような職業を選びたいと思うのか、そのきっかけになった自分の過去のできごとを話す。ぼくらにはある映像が徐々に思い浮かび、いま朗らかにしている彼女が経験した辛かったできごとが披露され、映像も方向転換せざるをえなくなる。晴れは曇り空に。それを通過した彼女は誰かに、自分の言葉を通してきちんと理解してもらいたい、そのお手伝いをしたいと願うようになった、と言った。多くのひとが、そういう望みがありながらも、親や先生が敷いたレールに乗って運ばれてしまう。もちろん、大多数にとってはその道は幸福につながるはずだろうし、両者の気持ちが一致することもまれではない、と川崎さんはある面では賛同している。もちろん、わたしもそうだった。だが、もし、両者の願いが相容れないときには、多くのひとびとはどちらかに傾いてしまい、夢を閉ざすのか、それともいがみ合いが生じてしまう可能性もあると言った。でも、あきらめるにはもったいないこともあるし、ここで文章を書くことを学んだり、川島先生の孤独な戦いは、評価されなくても、やはりする必要のあることではないのだろうか、と加えた。もし、わたしが望みの職業につき、自分の企画を実行できる立場になったら、川島さんをインタビューしたり取材の記事を書くことを、そのうちのひとつにすると宣言した。

 ぼくは、まだ数冊しか、それも誰も読んでいないようなものしか残していない。きれいな衣装を着てマイクをきゃしゃな指で握る彼女。ぼくは、柔らかそうなソファに座り、彼女を相手に受け答えをしている。テレビの向こうでは、「こいつは、いったい誰なんだ?」と、みな、怪訝な顔をする。そして、チャンネルを替える。彼女の立場は危うくなり、どこか地方の放送局で、誰も知らないひとをインタビューするのが専門の仕事になる。望みは叶うのだ。多少、変形はしながらも。

 いやいや、その前に、列を作るほどの人気者に自分がなればいいだけなのだ。簡単なことなのだ。赤子の手をひねるようなものなのだ。ぼくは、川崎さんが話していた正面のところに着くまで、夢のような時間を過ごせた。映画の賞を取った華々しい俳優のような気持ちに。
「だから、彼女はアナウンサーになりたいんですね。こういうテーマで、次は考えてみましょうか。なぜ、自分はいまの自分になったのか」
「なってしまったのか」佐久間さんが、悲しそうにそう付け加えた。それで、みなが笑った。

「いつもいつも手探りですいません。人生での岐路。秋になれば物思いの時間も増えることだし、そうしましょうか。まったくの創作は書く方も評価する方もむずかしい。やはり、自伝や伝記のほうが入りやすいかもしれないですね。でも、自分のことを書いても他人は嘘を見抜けない」自分で言っておきながらも、そうだろうかと思案するためぼくは黙ってしまった。「もちろん、まったくの創作、作り話を書いてぼくに読んでほしいと思うひとがいれば、ぼくは熱心に読みますよ。それが仕事で、いちばん好きな趣味でもあるんですから」言い訳がましいことを呟きながら、ある本をテキストにしてディスカッションをする後半の時間になった。

 マーガレットは、ここを去る前にしておかなければならないことをリストアップしていた。その実行に取り掛かった。先ずは、きれいにカーテンを洗った。床を掃除した。庭を掃いた。建て付けの悪くなったドアを直しておこうと思い、近くの道具屋さんに行き、釘やねじを見た。その思いがけないお客さんに興味をもった店主は理由をたずね、すると、必要なものの値段だけで手間賃はなく、午後にも直しに来てくれると約束をしてくれた。もともとは、店主の父が建てるときに関係した家だったらしい。彼は幼いマーガレットのことも知っていた。いつか息子や娘でも連れてくるようになったら、あいつに用を頼むといいといって奥を指差した。そこには、まだ、若そうな頬の赤い男性がいて、ある部品をいじっていた。ラジオを直しているらしい。手先の器用さは遺伝するものなのか、とマーガレットは思いながら小さく会釈をした。

 後半の本を媒介にした討論も愉快に終わり、ぼくはクラスを後にした。生徒たちには一体感ができていた。年代も違ければ、目標や家庭環境も同じではない。ただ、誰もが本のなかにある世界を愛しているらしいことが共通点だった。彼らは、食事に行くらしいが、ぼくも誘われたが今日は断った。青い絵の具を早めに届けてあげたい。

 だが、クラスの前で役所の担当者に呼び止められた。

「盛況みたいですね、先生」役所勤めではないような丁稚のような身振りで彼は近付いて来た。「また、新しい生徒が入るみたいですよ。断る理由もないんで、うちの市の住民だから。来月からですね。これ、申込書の写し。住所は黒く消してしまいました。きれいな女性なんで、先生のやる気もまたアップするかもしれませんね」

「どれどれ」ぼくは受け取り、名前を見た。写真がつくような履歴書ではない。ただの申込書。下の半分が隠された直筆の申込書。「加藤さんか、あれ」
「知り合いですか?」
「おそらく」
「先生も隅におけませんね」

 ぼくは、外に出る。青空。直ぐ角には文房具店がある。ぼくは場所が分からず、なかを無闇にうろうろする。あった。青い絵の具。それだけ買うのも何だか間が抜けているように感じ、高級そうなペンを眺めた。キーボードしか必要ない。口からの言葉ではなく、ディスプレイの文字しかぼくには必要ない。だが、ある日、インタビューを受け、サインも求められるのだ。ある日だが。これぐらいのものがあっても悪くないだろう。ぼくはキャップを取り、メモ用紙にさらさらと書き付ける。ハンフリー・ボガード。なぜだか、ひとの名前を勝手に使ってしまったらしい。寡黙さ。クラスでひとと会うことを現在の自分は楽しみにしている。ぼくは部屋で押し黙っていることに向いていないのかもしれない。それは欠点なのか長所なのか。判断のできないままキャップをきっちりと閉め、買うかどうかをまだ悩んでいた。

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