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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(63)

2013年05月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(63)

 ぼくは青い絵の具をもって家に帰った。背中には汗が伝わって流れ落ちる感触があった。妻は誰かと電話で話しているようだった。口調から察すると相手は母親であるらしい。女性たちは立場によって言葉遣いや声色を変える。ある意味では演じている。いや、化けている。先ほどの川崎さんもそうだったのだろうか? まさか。

「はい、買ってきたよ。もう、できちゃったかな」
「二枚はね」早速、由美はチューブ状の絵の具を押してパレットの四角いマスに出した。
「あとは、ママがプールで寝ているところ」

「あのままで?」
「ママに注文をだされた。サングラスをかけて、大きな帽子をかぶって、足も長くて、青いジュースを長いストローで飲んでいるところにしてと」
「また、青か。でも、それは真実に反するね」
「ママに言いくるめられた。だって、あるがままを絵にしなさいって先生に言われたの、ってね」
「言われなくても、それが夏休みの思い出なんだから脚色はまずいよね」

 後方に気配がする。いつから女性が近付くことを恐れるようになってしまったのだろう。
「あなたも、売れるようにデフォルメするんでしょう。自分の文章を」理論武装する妻。それでなくても、ぼくより圧倒的に言葉の数が多いのに。「化粧しない女性ばっかりになったら、あなたも困るでしょう。そういう法律でもつくる?」
「そこまでは、言わないけど、さ、教育上ね」

「建前上ね。あなたは、本当のことしか書いたらダメと今日、教えてきたの?」
「本当のことでも、他人は客観的に嘘が見抜けないとは、まあ、考えたけど」
「だから、由美もそうしなさい。きれいなママの方が、あなたもうらやましがられるでしょう?」妻は腕を組み、絵の仕上がりを見守る。だが、もう鉛筆で下絵ができあがっていた。あとは、そこに彩色するだけなのだ。道は、もう決められてしまっていた。迷子にもなれない。「そうだ、明日、夏休みの最後だからって、おばあちゃんが由美に会いたいって。あなたは行かなくていいんでしょう?」

「そうだね。仕事する」
「夕飯、悪いけど、どうにかして」
「どうにかする」
「ビールでも、飲みに行けば。たまには。わたし、なんだか、飲む気がなくなってしまったから」

 レナードは最後の絵を仕上げると、そのまま港町の酒場に寄った。自分の存在は忘れられても、自分が成し遂げたことは、かすかながらも残ると期待をかけようとしていた。種を蒔くが、成長も見られない。収穫の時期にもいない。それが画家であり、芸術家でもあるのだと思おうとした。なにかをあきらめるのに口実がいるからなのだが。

 レナードは壁を見る。自分の描いた漁船の絵が、もうその場にしっくりと馴染んでいることを喜んでいた。反対に、既に自分の手から離れてしまったことによって、客観的になることができた。上手に育った息子や娘のお陰でしつけに苦慮しなかった事柄がある面では物足りなくも感じ、それでも、やはり安堵以外の何物でもなかったのだと、絵を見ながらふたつの感情の間で揺れた。この壁があの絵を求めたのだ。ここのお客がこの絵がある風景を望んだのだと、結局はそういう判定におさまった。だが、もう見ることもない。

「できた。わたしの夏休みの宿題も終了。来年まで、さらば」
「バカだな、冬の休みにも、宿題はあるんだよ」
「ママ、ほんと?」
「あるけど、ほんのちょっとよ。ちょびっと。絵はどうなの? どれどれ」クッキーの食べくずがついた手を皿の上ではらってから、妻は絵を持ち上げた。「上手じゃない。こういう塾行く? 絵の才能を伸ばせるような」

「そんなとこあるんだ?」
「実家のそばにはあった。わたしも行きたかったけど、あれ以上、習い事を増やす時間もできなくて、あきらめたけどね。あなたは?」
「野原で駆けずり回っていたよ、暇があれば。あまり、お育ちが自慢できないもので」
「由美もそっちの方がいい」
「父の遺伝子を受け継ぐのを拒否できない娘。でも、これで、明日十分遊べるわね。パパもたくさん仕事ができるし」
「パパ、だって、たくさん仕事をしていたよ、この夏。由美がいちばんの証人」
「泣かせるセリフだね。だけど、机の前に座っていただけなのかもしれないよ、長時間。ずっと、へのへのもへじを書くだけしかしてないのかも」

「パソコンの音がしてたから大丈夫、それが証拠」
「じゃあ、完成なの? 我が夫の偉大なる戦争と平和は」
「それほどの大作は誰も読まないよ。でも、周辺だけはね、外観だけは」
「工事現場みたいな話ね。細かな内装はまだと。壁紙を貼って、照明器具をつけて」
「それも脚色。プールに優雅に寝そべる女性みたいにね」
「いやあね」
「ほんと、いやあね」と由美もマネして言った。それから、絵を大事そうに自分の部屋に持っていってしまった。

 レナードはカウンターで二杯目のグラスに口を近づけていた。達成感と喪失感の相反するものに包まれていた。土着できないもの。渡り鳥。自分の存在をそう定義していた。しかし、地球の反対で、その土地に合ったのか珍しい花々が居場所を見つけることもある。あの絵のように、その場所が自分を熱烈に求め、探し出すのかもしれない。自分はあやつり人形のように運命の軽やかな羽根に乗り、そこに導かれるのだ。もがいてはいけない。拘泥してもいけない。ぬかるみに足をとられてもダメだ。ただ、薄氷のうえをすすむようにつま先で颯爽と渡りぬけるだけだ。グラスが空になる。三杯目の酒をすすめられそうになったが、それもこの場所への愛着になると思い、レナードは断ってしまった。もう、次の場所へと気持ちは向かっていた。そして、ここだけで使える硬貨の枚数を減らすためにカウンターに置いたが、親切な店員は餞別だからと言って受取ってはくれなかった。だから、またポケットに無雑作に突っ込み、店を出た。

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