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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(37)

2013年04月13日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(37)

「次は、狭山君の発表をどうぞ」彼はぼくの味方側にはいなかった。ぼくが書いているものを都度、批判した。だが、大きなグループでは文章を愛好しているので同じ側にいた。それから、足取りもゆっくりと悠然と歩いてくる。一体、どのようなものを書いているのだろう。

 彼は前に出ると一息ついて窓の外を見た。ぼくも連られて外を見た。スプリンクラーの名残りなのか虹が出ていた。由美にも見せたいものだとぼくは思っていた。妻の頭痛はどうなったのだろう。

「自分の選んだものが運命なのか、それとも、やはり取捨選択をすること自体、自分の能動的かつ受動的な意味合いで、道を切り拓いているのだろうか。そのことをわたくし自身で判断したいと考えていた。それは、ずっと自分の頭にあるものだった。遠い昔。そこで、母は電車の目の前に立っている老人に席を譲るようぼくに告げ、シートとわたくしの背中の間に手を挟み、座席から降りるよう言葉以外でも促した。わたくしは飛び降りるような形で足の裏を車内の床に着けた。この前に立った老人は、わたくしの前にあらわれる必要があったのだろうか。これも偶然の一部なのか。吊り革に届かないため、ひやりとした鉄の棒につかまりながら幼少期のわたくしは考えつづけていた。あのとき、頑なに譲らないとしたら、母はどのような態度を取ったのだろうか。自分で席を譲ったのか。ただ、不機嫌になったのか。誰も分からない。人間は瞬時の判断をしつづけ、意味付けも後悔も、逆に満足も判断に比べれば、割合としては少なく、数パーセントしか襲ってこない。

 わたくしはある少女に恋をする、彼女はぼくの前にあらわれる必要があったのだろうか。もし、別の学校に通うことになったら、その相手はどこかに生まれてくるのだろうか。それとも、わたくしは恋をすることが不可能な存在になってしまったのだろうか。

 ある画家がモナリザを描く。彼の前にそのモデルがあらわれる必要があったのだろうか。もし、いなかったら名画は生まれなかったのだろうか。いや、そのようなことはありえない。別の種類の名画がきちんと存在するのだ。ルーブル美術館の壁を埋める要求に見合うものとなるものが。

 そして、わたしはこのクラスを受講することを選んだ。当初は無意味なものだと思っていた。書くという作業はひとりですればいいのだ。ライバルもいらない、胸の奥に眠るものを自分で勝手に叩き起こせばいい。しかし、わたくしはここでの数ヶ月に満足している。もし、今後、なにも書かないとしてもある種の経験ができた。恩師にも巡り合えた。恩師の最高傑作はいつか生まれるのだろう。それは運命でもあり、努力でもある。瞬時の判断ではなく、根気のいる作業だろう。よそ見をしないで頑張ってほしい。同じように、わたくしも打ち込むべきものを、ただひたすらに打ち込んで行きたい」

 クラスは静まり返る。

 レナードは水浸しになった床を仕上げとしてぼろ切れで拭いた。配管のつなぎ目をきっちりと閉め、一時しのぎにせよなんとか災難が大きくならないよう防いだ。酔いのことも辛い朝も忘れていた。汚れたズボンで手を拭い、外に出た。今日も鳥が鳴いている。隣の家の子どもが鳥の名前を告げた。

「詳しいんだね。将来、なにになるの?」
「動物と暮らしたい。おじさん、今度、動物の絵を描いて」

 その言葉を母がとがめる。
「いいえ、いいんですよ。依頼がないことには、こちらも将来が心配になりますから。居る間になにか描くよ」

 ぼくはクラスに居ても幻影を見ていた。発注がある、それは素晴らしいことなのだ。静まり返ったクラスは狭山君に喝采をおくる。運命を切り開こうとしている児玉さんはとくに目を潤ませながら拍手をしていた。彼女にこれ以上、火をつける役目など必要なかったのだ。後押しはいらない。もう、決戦が待っている。しかし、狭山君の恩師というのはぼくなのか? こんなに簡単にぼくは騙されてしまうのか。初恋の少女のように彼のとりこになってしまったのか。油断は禁物だ。彼はぼくの味方側にはいないはずだ。いや、ぼくの情熱が伝わった結果なのだ。この仕事を引き受けたことへのご褒美でもあるのだ。

「素晴らしかったですね。掛け替えのない友情。親の模範やしつけ。ひとりの娘をもつ人間としては考えさせられました。文字や言葉を上手に正確にあやつることは文明人の証です。みなさんも、胸に眠っている言葉を叩き起こしにいきましょう。では、さてと、ある一冊の本をきょうも持ってきましたので、読んでみます。いや、声のきれいな川崎さんに読んでもらいましょう」

 ぼくは、ある女性に本を差し出す。彼女は満更でもなさそうに受け取って、ある箇所を読み上げた。

 ぼくは草原にいる。いや、空気のきれいな高原にいる。爽やかな風が通り過ぎ、きれいな鳥の声もする。ディスカッションの内容を考えながら、川崎さんの声に聞き惚れる。彼女はアナウンサーか新聞記者になりたいとの夢を持つ大学生だ。彼女の父がたまたまぼくのことを知っていて、本に詳しい存在だと勘違いも混じって、認めていた。言葉をあやつる人間のところに週一回でも通えば、就職に表立って有利にならなくても、そこそこは役立つだろうと考えたようだ。次は、彼女になにか発表してもらおう。ぼくは他人の評価を期待していた。それに溺れてみたいとも思っていた。彼女の声が止む。代わりに蝉の音がした。レナードはどの動物を選ぶのだろう。川崎さんはどの会社を選ぶのだろう。由美の声は、誰に似たのだろう。妻の母がぼくに厭味を言うときの声にも似ていた。いつまでも高原にはいられない。

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