夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(36)
レナードは重い頭とだるい身体を実質的に感じ、ベッドに横たわっている。昨夜の港に近い酒場での深酒が効いたようだった。雇われている身でもないので、急いでなにかを準備したり支度をする必要もない。だが、この体たらくには自分でもあきれていた。こんなにもやわな存在になってしまったことを、ベッドのなかで恥じてもいた。
「もう、そんなに物音を立てないでよう」内容はとげとげしいものだったが、声は蚊の鳴くような弱々しいものでベッドの妻が言った。
「音なんか立ててないよ」
「その戸の閉め方の音とかよ」片目を毛布のなかから出した。「あら、ネクタイなんかするの?」
「たまにはね。酔って起き上がれない妻の代わりに働いてくるよ」
家を出ると、となりの家のマーメードが玄関を箒で掃いていた。
「おはよう。すがすがしい朝の完全なる演出」
「あ、今日はクラスの日ですか?」
「そう。物語を書くコツを教えてくるよ。自分が知りたいんだけどね、いちばん」
彼女はきょとんとした顔をしている。まさか、となりの先生の本を読んでいないのだろうか?
「それで、ネクタイを?」
「うん。タンスの奥から引っ張り出した。その戸の開け閉めがうるさいって、二日酔いの妻が注意した」
「飲み過ぎ?」
「そうみたいだね。外で働けばストレスも多いんだろうしね。たまには、羽目をはずさないと」
「優しいんですね」
「優しくないよ」天に誓っても。「どう、このネクタイ、いささか古臭いかな」
「さあ、どうでしょう。わたしぐらいの年代はネクタイについて注意を払っていないから。一家言をもつほどの感性も、分析もなく」
「むずかしい言葉をつかうんだね」ぼくは、慌てて時計を見る。そんなに悠長に無駄話をしている暇はなかった。「さあ、もう行かないと間に合わない」
「行ってらっしゃい」新妻だった女性に言われた過去を思い出している。彼女は、いまはベッドのなかで死にそうな様子だった。何がその期間に起こったのだろう? わたしは、知らない。知るためにはもっと興味をもたないといけない。
レナードは横たわった姿勢のまま時計を眺めた。この地でする事柄も段々と消化していった。思いがけなく肖像画のモデルも見つかった。もう一枚のモナリザ。世界はそれを必要としているのだろうか。自分には、いつかそれを描くチャンスと実力が訪れるのだろうか。自分の身体の儚さと芸術の一環とした連続性。歴史にきっちりと痕跡をとどめる。ローマ時代の水道橋のように目に見える形で。
「おはようございます、川島先生」
クラスの入口に児玉さんが立って待っていた。彼女は初恋のひとに会うというプランをいったいどうする気なのだろう。
「おはよう。さわやかな朝。さわやかな現実。さわやかな文章」ぼくは、ひとに会うことをただただ欲しているだけなのだろうか。部屋に閉じこもってキーボードを叩くこと自体が性に合っていなかったのか。「あれ、どうしました?」
「あれって?」
「あれって、あれですよ」こういう女性のまどろっこしさは、どこにその種子があるのだろう。「ファースト・ラブ」
「ああ、明日会いに行きます」
「決戦の日曜日」ぼくの家に初恋の女性が訪れる。妻と対面する。乱れた髪に、頭痛で苦しそうな表情。ぼくはもっと美人と結婚したのだと自慢したかった。しかし、証拠がすべての世の中だ。「どんな服装で行くか決めているんですか? 会って、良い結果になるといいですね」
「娘のセーラー服、あれ、まだ、残っているかしら・・・」
「不戦勝の日曜日」と小さな声で言い、ぼくはクラスの戸を開けた。
レナードの家の戸を叩く音がする。数ヶ月しか滞在しない家に訪れてくるひとなどいなかった。そのため家賃もきちんと前払いしてある。部屋も絵の具で汚れても問題なさそうなぐらいの古さだった。冬になれば、すきま風が忍び込むという程度では済みそうになかった。今は早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきた。それで何度も早く起こされた。窓や戸を開け、絵の具の匂いを換気し、歯を磨きながらたまに名もなきその鳥たちに泡をふくんだ口で話しかけた。
そう思いながらも戸を叩く音は止まらなかった。
ぼくが話し出しても、クラスのみんなは一週間ぶりの再会による高揚を抑え切れないようだった。彼らは部屋にこもって文字を埋めるという運命を選ぼうとしているのではなかったのか。大道芸人になりたいようなひともいた。だが、数人は真摯な視線を向けている。ぼくは不特定のひとたちに他になにが伝授できるかを想像していた。例えば、ケーキの作り方。裁縫をすること。日曜大工。どれも無理なようだった。
レナードは重い足取りで戸を開けた。すると、となりの家の主婦が娘を連れて立っていた。
「どうか、されました?」
「水道管が破裂したのか、水が止まらなくなってしまって。生憎、夫は遠くまで出掛けて留守で」懇願する主婦。それに調子を合わせたようなつぶらな瞳をもつ娘。レナードは、部屋の奥にある持ち主のいない工具を引っ張り出した。もう一枚のモナリザは忘れ、ここは火急の問題に取り組むのだ。それがひとの喜びとなるのだ、と自分の行為に夢中になりかけた。
「誰かに書いたものを読んでもらう。頼まれてもいない。流通にのるわけでもない。歴史を揺るがすわけでもない。だが、文字や楽譜は廃れないとぼく自身は思っている。ある種の経験はそれによって共通の財産になる。君が書いたものはだから誰かの真似であってはならない。しかし、文字自体は、突飛なものではなく共通の遊具である必要もある」
ぼく自身が話していてこんがらがっていた。宿題をはやく披露してもらわないといけない。前を見る。乙女のような表情をしている児玉さんがいた。ぼくは意味もなくネクタイに触れる。結び方は忘れたくても忘れられない。この趣味の好悪を久美子は判断できなかった。いや、大人になりかけている彼女は真実を告げることを優しさにより拒否したのか。児玉さんの初恋の男性は、どんな真実の言葉を漏らすのだろう。窓のそとは青い、これ以上にないほどの快晴だった。スプリンクラーが水を撒いている。と思ったら時間が来たのかピタッと止まった。
レナードは重い頭とだるい身体を実質的に感じ、ベッドに横たわっている。昨夜の港に近い酒場での深酒が効いたようだった。雇われている身でもないので、急いでなにかを準備したり支度をする必要もない。だが、この体たらくには自分でもあきれていた。こんなにもやわな存在になってしまったことを、ベッドのなかで恥じてもいた。
「もう、そんなに物音を立てないでよう」内容はとげとげしいものだったが、声は蚊の鳴くような弱々しいものでベッドの妻が言った。
「音なんか立ててないよ」
「その戸の閉め方の音とかよ」片目を毛布のなかから出した。「あら、ネクタイなんかするの?」
「たまにはね。酔って起き上がれない妻の代わりに働いてくるよ」
家を出ると、となりの家のマーメードが玄関を箒で掃いていた。
「おはよう。すがすがしい朝の完全なる演出」
「あ、今日はクラスの日ですか?」
「そう。物語を書くコツを教えてくるよ。自分が知りたいんだけどね、いちばん」
彼女はきょとんとした顔をしている。まさか、となりの先生の本を読んでいないのだろうか?
「それで、ネクタイを?」
「うん。タンスの奥から引っ張り出した。その戸の開け閉めがうるさいって、二日酔いの妻が注意した」
「飲み過ぎ?」
「そうみたいだね。外で働けばストレスも多いんだろうしね。たまには、羽目をはずさないと」
「優しいんですね」
「優しくないよ」天に誓っても。「どう、このネクタイ、いささか古臭いかな」
「さあ、どうでしょう。わたしぐらいの年代はネクタイについて注意を払っていないから。一家言をもつほどの感性も、分析もなく」
「むずかしい言葉をつかうんだね」ぼくは、慌てて時計を見る。そんなに悠長に無駄話をしている暇はなかった。「さあ、もう行かないと間に合わない」
「行ってらっしゃい」新妻だった女性に言われた過去を思い出している。彼女は、いまはベッドのなかで死にそうな様子だった。何がその期間に起こったのだろう? わたしは、知らない。知るためにはもっと興味をもたないといけない。
レナードは横たわった姿勢のまま時計を眺めた。この地でする事柄も段々と消化していった。思いがけなく肖像画のモデルも見つかった。もう一枚のモナリザ。世界はそれを必要としているのだろうか。自分には、いつかそれを描くチャンスと実力が訪れるのだろうか。自分の身体の儚さと芸術の一環とした連続性。歴史にきっちりと痕跡をとどめる。ローマ時代の水道橋のように目に見える形で。
「おはようございます、川島先生」
クラスの入口に児玉さんが立って待っていた。彼女は初恋のひとに会うというプランをいったいどうする気なのだろう。
「おはよう。さわやかな朝。さわやかな現実。さわやかな文章」ぼくは、ひとに会うことをただただ欲しているだけなのだろうか。部屋に閉じこもってキーボードを叩くこと自体が性に合っていなかったのか。「あれ、どうしました?」
「あれって?」
「あれって、あれですよ」こういう女性のまどろっこしさは、どこにその種子があるのだろう。「ファースト・ラブ」
「ああ、明日会いに行きます」
「決戦の日曜日」ぼくの家に初恋の女性が訪れる。妻と対面する。乱れた髪に、頭痛で苦しそうな表情。ぼくはもっと美人と結婚したのだと自慢したかった。しかし、証拠がすべての世の中だ。「どんな服装で行くか決めているんですか? 会って、良い結果になるといいですね」
「娘のセーラー服、あれ、まだ、残っているかしら・・・」
「不戦勝の日曜日」と小さな声で言い、ぼくはクラスの戸を開けた。
レナードの家の戸を叩く音がする。数ヶ月しか滞在しない家に訪れてくるひとなどいなかった。そのため家賃もきちんと前払いしてある。部屋も絵の具で汚れても問題なさそうなぐらいの古さだった。冬になれば、すきま風が忍び込むという程度では済みそうになかった。今は早朝から鳥の鳴き声が聞こえてきた。それで何度も早く起こされた。窓や戸を開け、絵の具の匂いを換気し、歯を磨きながらたまに名もなきその鳥たちに泡をふくんだ口で話しかけた。
そう思いながらも戸を叩く音は止まらなかった。
ぼくが話し出しても、クラスのみんなは一週間ぶりの再会による高揚を抑え切れないようだった。彼らは部屋にこもって文字を埋めるという運命を選ぼうとしているのではなかったのか。大道芸人になりたいようなひともいた。だが、数人は真摯な視線を向けている。ぼくは不特定のひとたちに他になにが伝授できるかを想像していた。例えば、ケーキの作り方。裁縫をすること。日曜大工。どれも無理なようだった。
レナードは重い足取りで戸を開けた。すると、となりの家の主婦が娘を連れて立っていた。
「どうか、されました?」
「水道管が破裂したのか、水が止まらなくなってしまって。生憎、夫は遠くまで出掛けて留守で」懇願する主婦。それに調子を合わせたようなつぶらな瞳をもつ娘。レナードは、部屋の奥にある持ち主のいない工具を引っ張り出した。もう一枚のモナリザは忘れ、ここは火急の問題に取り組むのだ。それがひとの喜びとなるのだ、と自分の行為に夢中になりかけた。
「誰かに書いたものを読んでもらう。頼まれてもいない。流通にのるわけでもない。歴史を揺るがすわけでもない。だが、文字や楽譜は廃れないとぼく自身は思っている。ある種の経験はそれによって共通の財産になる。君が書いたものはだから誰かの真似であってはならない。しかし、文字自体は、突飛なものではなく共通の遊具である必要もある」
ぼく自身が話していてこんがらがっていた。宿題をはやく披露してもらわないといけない。前を見る。乙女のような表情をしている児玉さんがいた。ぼくは意味もなくネクタイに触れる。結び方は忘れたくても忘れられない。この趣味の好悪を久美子は判断できなかった。いや、大人になりかけている彼女は真実を告げることを優しさにより拒否したのか。児玉さんの初恋の男性は、どんな真実の言葉を漏らすのだろう。窓のそとは青い、これ以上にないほどの快晴だった。スプリンクラーが水を撒いている。と思ったら時間が来たのかピタッと止まった。
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