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夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(64)

2013年05月24日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(64)

「パパ、今日、ひとりで何するの?」
 車の助手席の開いた窓から由美は顔と手を出し、ぼくにそう質問した。日曜の朝。妻の運転する車で実家に向かう家族。ぼくを除いて。
「どうしようかな。ひとりでできることを探さないと」

 曖昧な答えをきいて彼らは去った。多少の排気ガスだけが彼女たちの痕跡となった。ぼくは部屋に戻り、なす術もないひとのように新聞をひろげた。今日も相変わらず事件や事故がある。ぼくは、まだ若い頃、自分がひとりで何をしていたのか、もう思い出せなかった。また、子どもがいる環境で楽しめる場所を見つけるようになってしまっていた。必要は、発明の母。それから、映画の欄を眺める。それほど遠くない場所に名画座があった。時計と紙面を交互に見比べて、まだ最初の上映時刻に間に合うことを確認した。

「じゃあ、行ってくるね。お留守番を頼むよ」ぼくは犬にそう告げる。彼は首を傾げるだけで、「気をつけて」とか、「お大事に」などの機転の利く言葉はつかってくれなかった。その代わり、ただ小さな声で吠えただけだった。

 上映されている映画は、「ペーパー・ムーン」だった。これがひとりになったときにしたかったことなのかと疑いながらも座席にすわっている。白黒の画面。まだ、独身のころに見たはずだった。愉快な映画であるのだが、その頃と立場の違う自分には、なんだか身につまされるような味わいも残った。本物の親子かもしれない可能性のある、もちろん、可能性のない擬似の親子が詐欺を繰り返しながら旅をつづけるという内容だった。段々とその技は熟練され、合間には、気の多いお父さんが、高貴でもない女性にだまされつつあることには陰で策略を練って抵抗する。そうしないことには、自分の仮である安住の地(ラジオが楽しみな安ホテルや道中の車内)も役目も奪われてしまう。でも、この辺りで大きなヤマに賭けるべきなのだという具合に話はすすむ。だが、資金が尽きることが、この擬似の親子の別れのきっかけであり最重要な原因にもなってしまうのだ。計画に失敗すればふたりは他人に戻らざるをえない。娘はその亡くなった母の血縁の家族のもとに送られる。しかし、擬似は擬似であるだけに美しく、かつ尊いものだった。

 ぼくは、不覚にも泣いている。夏の午前中のエアコンが心地よい映画館で大笑いをしようという目論見は、まったくの反対の結果になった。ぼくは、玄関で去ってしまった由美のことを考えていた。自分が父親という役目にぴったりとはまってしまったことにも、映画の主人公と同様に驚きだった。

 エドワードも日曜の朝を迎えている。予定もなかったので日頃の疲れを払拭しようと朝寝坊をしていた。だが、正確な時刻に寝起きをしている身体は、いつまでもその甘さをも許してはくれなかった。カーテンを開け、外をぼんやりと眺める。そして、いつものようにヒゲを剃った。幼少時にいっしょに暮らした母親代わりのひとが病院に入院することになってしまった。見舞いではなく、その入院準備のために彼は育った町に向かった。列車を乗り継ぎ、小さく感じるようになってしまった町並みを歩く。やはり、どこかで懐かしく、すがすがしい気持ちを、その周囲の空気だけではなく、体の内部からも感じていた。

 荷物を詰め込んでいると、「あなたは、そろそろ、結婚してもよい年頃じゃないの? 安定した恵まれた職にもついていることだし、容貌だって、誰が見たって平均以上じゃないの」と病人であることを一時的に中断している女性に言われた。
「おばさんだから、採点が甘いんですよ」
「わたしたちの育て方が、家庭に対して猜疑心を与えるようになってしまったの?」

 彼女は、人生の最後の瞬間の許しを得るように、そう心細い口調で言った。

「まったく、そんなことはないですよ。ぼくは、ここで暮らしたことに感謝しているぐらいです。それに、間もなくプロポーズの返事をもらえることになっているんです」
「ほんとなの? きっと嬉しい結果になるわよ。それに、嘘でもこの家族の一員でいたことや、わたしたちのことを誉めてくれてありがとう」
「けっして、嘘なんかじゃないですよ」

 そう告げると、エドワードも自分の過去が楽しさと喜びで溢れていたように印象を刷新させてしまっていることにも気付かずにいた。もうその状態をずっと抱えて生きていたとしか思えなかった。
 空腹のぼくは店を探す。これまた、ひとりで食事をする際の選ぶ基準を忘れてしまっているようだった。がっついて終わりという年代でもない。かといって、高級な店でひとり優雅に時間を過ごすのにも馴染めそうになかった。だが、いつもの店に行くのも冒険心に欠けているようで不満だった。今日の自分はなにをするのにも優柔不断であることを拒めなかった。しかし、こころのどこかでゴールを設定している。ある女性と楽しく小説について語らい、冷えたビールを飲むのだ。このひと夏のお父さん役を頑張ったぼくには多少のご褒美があったとしても、世間も家族も風当たりを急に冷たくすることもないだろう。

 結局、ひとりで居心地のよさそうな店にはいった。なぜか、ナポリタンとアイス・カフェオレを注文することが決まっていたかのようにメニューも開かずに女性店員にすぐさま伝えた。食前か食後にするか聞かれる。ぼんやりとしていた自分は何についての質問か判断に困っていた。食事の順番を決めることもひとりではしなくなってしまったのか。店員はぼくを見つめる。彼女の父はどのような職業でここまで育てたのだろうか? 詐欺師。本を書くこと。普通のサラリーマン。

「食後で」と、ぼくは言ったが、それが最善の答えかどうかも分からない。窓のそとを見る。小さな子が真っ赤な風船のひもを握っている。ぼくは泣きそうになっている。ビールを飲みながら女性心を簡単に手玉にとる人間になりたかった。詐欺でもなんでも方法は問わないので、ひとと接する時間をもちたかった。それで、高揚感を静かに吐き出すように鼻歌をうたう。先ほどの店員は、注文した品をもってきて、その帰りに曲名を言う。

「そうですよね? ちょっと調子っぱずれでしたけど」
「音大出身とか?」

 正解という風に、彼女はうなずいてから厨房方面に向かった。彼女の背中に店内の静かなピアノ曲がふりかかる。由美にも塾や稽古事が必要になるのだろうか。そうでもしないと、役に立たない親子は詐欺でドサ回りでもする境遇に落ちる未来が待っているのかもしれなかった。しかし、それも楽しそうに思えてきていた。まぶしくない白黒の世界で。儲けたときには、たまに風船でも買ってあげて。

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