リマインドと想起の不一致(49)
君もここにいた。
三十年後の世界にも。
ぼくは実家で父の遺品の整理をして、あの当時の古い通帳を思いがけなく発見する。毎月の光熱費が行ごとに引き落とされている記し。電話代もある。ぼくがひじりにかけたものもその一部に含まれているのだろう。だが、金額はあまりにも安かった。一万円にも充たず、五千円にすら達していない月もある。ぼくはひじりと本当に夜を徹して話していたのだろうか。もっと、頻繁に天文学的な数字になるほど話せばよかったのだ。親の労働の過酷さを無視しても。子どもの無知な特権を振り回して。
君もこうしてこの町にいた。君が確かにこの数字の中にもいた。
感慨は甘く、現実は苦かった。ぼくは取り戻せない過去に拘泥している。同時に、あの過去はぼくだけのもので、誰も奪えなかった。奪うほどの価値がないと敗者のように認めることもできない。そして、各自に似た過去はみんなのこころに積まれ、世界中で集めれば山積みとなってしまうのだろう。
ぼくは翌日、仕事ではじめてのお客様に会うために外出していた。近くに小さなレストランがあり、そこで簡素に結婚式が挙げられていた。ぼくは色とりどりの花で飾られている門を見る。すると、奥でにぎやかな声がした。何気なく目を凝らすと、妻になるであろう女性側の名前がひじりと同じものだった。彼女が今日ここで結婚式の片方の当事者になっていることはない。彼女はぼくと同じ年だ。もう今頃は数人の子どもの母となっていることだろう。時間の経過を分析しなくても。それでいながら、彼女はもうぼくの中で成長を止めている。ホルマリンに浸けられたように年老いることもなく、また若返ることも許されない。あの日々と一体化してしまっているのだから。ハリウッドの往年の名画の位置付けと等しく。
仕事が終わる。また同じ道を歩く。レストランの入口にひとの姿はなく、ただ片付けにいそしむ音が奥から聞こえて来るだけだ。ぼくも何かを片付けなければならない。未練でも愛募でもない形ちのないもので、形ちがないからいつまでも新鮮でありつづけるものを。
ぼくはしばらくその前に意識もせずにたたずんでいた。すると、町の情景に不釣り合いな数人の小学生らしき子も前を通りかかる。係りの黒い服装の女性が目立った汚れもない店の前の道を掃き出した。
「この花、もういらないの?」ランドセル姿のひとりが勇気をだして訊いた。
「そうね、いらなくなりそうね」
「少し、もらっていい?」
問いかけられた彼女は誰かに確認するように優雅に振り返った。そこには責任あるひとは誰もいなかった。
「特別にだよ」と言って、そのフォーマルな服装がとても似合う女性は数本の花をきれいに抜き取って手渡した。
「ありがとう」と言って、少女たちは一目散に駆け出した。あとに残された女性はぼくにも目を向けて、
「どうですか?」と花とぼくを交互に見比べて訊く。
「仕事中だから」と変な言い訳をして、ぼくは片付け中の女性のテリトリーから距離を置いた。
君は、どこにいる。ぼくのこころ以外の地上の領域では。その花を手向けるにふさわしい唯一の女性は。
(終わり)
2016.7.10
君もここにいた。
三十年後の世界にも。
ぼくは実家で父の遺品の整理をして、あの当時の古い通帳を思いがけなく発見する。毎月の光熱費が行ごとに引き落とされている記し。電話代もある。ぼくがひじりにかけたものもその一部に含まれているのだろう。だが、金額はあまりにも安かった。一万円にも充たず、五千円にすら達していない月もある。ぼくはひじりと本当に夜を徹して話していたのだろうか。もっと、頻繁に天文学的な数字になるほど話せばよかったのだ。親の労働の過酷さを無視しても。子どもの無知な特権を振り回して。
君もこうしてこの町にいた。君が確かにこの数字の中にもいた。
感慨は甘く、現実は苦かった。ぼくは取り戻せない過去に拘泥している。同時に、あの過去はぼくだけのもので、誰も奪えなかった。奪うほどの価値がないと敗者のように認めることもできない。そして、各自に似た過去はみんなのこころに積まれ、世界中で集めれば山積みとなってしまうのだろう。
ぼくは翌日、仕事ではじめてのお客様に会うために外出していた。近くに小さなレストランがあり、そこで簡素に結婚式が挙げられていた。ぼくは色とりどりの花で飾られている門を見る。すると、奥でにぎやかな声がした。何気なく目を凝らすと、妻になるであろう女性側の名前がひじりと同じものだった。彼女が今日ここで結婚式の片方の当事者になっていることはない。彼女はぼくと同じ年だ。もう今頃は数人の子どもの母となっていることだろう。時間の経過を分析しなくても。それでいながら、彼女はもうぼくの中で成長を止めている。ホルマリンに浸けられたように年老いることもなく、また若返ることも許されない。あの日々と一体化してしまっているのだから。ハリウッドの往年の名画の位置付けと等しく。
仕事が終わる。また同じ道を歩く。レストランの入口にひとの姿はなく、ただ片付けにいそしむ音が奥から聞こえて来るだけだ。ぼくも何かを片付けなければならない。未練でも愛募でもない形ちのないもので、形ちがないからいつまでも新鮮でありつづけるものを。
ぼくはしばらくその前に意識もせずにたたずんでいた。すると、町の情景に不釣り合いな数人の小学生らしき子も前を通りかかる。係りの黒い服装の女性が目立った汚れもない店の前の道を掃き出した。
「この花、もういらないの?」ランドセル姿のひとりが勇気をだして訊いた。
「そうね、いらなくなりそうね」
「少し、もらっていい?」
問いかけられた彼女は誰かに確認するように優雅に振り返った。そこには責任あるひとは誰もいなかった。
「特別にだよ」と言って、そのフォーマルな服装がとても似合う女性は数本の花をきれいに抜き取って手渡した。
「ありがとう」と言って、少女たちは一目散に駆け出した。あとに残された女性はぼくにも目を向けて、
「どうですか?」と花とぼくを交互に見比べて訊く。
「仕事中だから」と変な言い訳をして、ぼくは片付け中の女性のテリトリーから距離を置いた。
君は、どこにいる。ぼくのこころ以外の地上の領域では。その花を手向けるにふさわしい唯一の女性は。
(終わり)
2016.7.10
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