ケンのブログ

日々の雑感や日記

偉大なアーチストは同時に偉大な知性であってほしかった

2020年09月12日 | 日記

ネットで早稲田大学元総長の息子さんで気鋭の政治学者と言われているらしい白井聡さんのことが話題になっている。

ウィキペディアにはそのことがこんなふうにうまくまとめてある。

“2020年8月29日に、歌手の松任谷由実が、安倍晋三内閣総理大臣の辞任に伴う会見について「泣いちゃった。切なくて」などとコメントしたことに対して、(白井聡さんは)自身のFacebookに「荒井由実のまま夭折すべきだったね。本当に、醜態をさらすより、早く死んだほうがいい」と書き込み、非難を浴びた。

橋下徹がTwitter上で「京都精華大学は、さすがにこんな教授を雇い続けるのはまずいだろ。」「発言を俺たちがやれば社会的に抹殺だよ。」と非難するなど炎上状態となった。

さらに白井聡さんは「私は、ユーミン、特に荒井由実時代の音楽はかなり好きです(あるいは、でした)。それだけに、要するにがっかりしたのですよ。偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。そういうわけで、つい乱暴なことを口走ってしまいました。反省いたします」などと、松任谷由実の知性の問題とした上で投稿を削除した。

また白井聡さんも、9月3日に自らのツイッターアカウントにおいて「自身の発言の不適切さに思い至りました。深く反省をしております。」とし、松任谷由実と自身の投稿を目にした不特定多数に向けて謝罪した。”

ウィキペディアには謝罪したとまとめてあるけれど、反省してますというだけでは謝罪の言葉にはならないことは一般的な日本人なら感じることだと思う。

ごめんなさい、とか申し訳ありませんというのが謝罪の言葉だと一般的には思われているだろうから。

本当にお粗末な話だなとは思う。

偉大なアーティストは同時に偉大な知性であってほしかったとおっしゃったそうだけれど、松任谷由実さんの音楽がかなり好きであるなら、彼女の作る詩や音楽を鑑賞すれば彼女がそのへんの大学の先生よりははるかに知的な方であることくらいわかりそうな気もするのだけれど、、、。

ようするに、それがわからないからこんなトンチンカンなコメントを垂れ流すことになってしまうのだと思う。

死んだほうがいいなんて言葉、絶対に言ってはいけない言葉なのにそれをよりによって松任谷由実さんに向かって言ってしまうなんて、運の悪い方なのかなと思ってしまう。

もう、こんなことユーミンに言ってしまったことは白井さん一生ついてまわると思う。

まあ、それもスピリチュアルな観点から見れば、まあ、単なるめぐりあわせにすぎないということになるのだろうけれど。

知性という言葉が出てきたので知性=知ではないかもしれないけれど、ちょっと知ということについて考えてみた。

知とは何か。

その定義というわけではないけれど知に関して有名なことではソクラテスの無知の知というのがある。

そのことについてネットから引用してちょっとまとめてみるとこのようなことになる。

“その人と対話をしていて私にはこう思われたのです。
「この人は、他の多くの人間たちに知恵ある者だと思われ、とりわけ自分自身でそう思い込んでいるが、実際はそうではない」と。

私は帰りながら、自分を相手にこう推論しました。
「私はこの人間よりは知恵がある。この人は知らないのに知っていると思っているのに対して、私のほうは、知らないので、ちょうどそのとおり、知らないと思っているのだから。どうやら、なにかほんの小さな点で、私はこの人よりも知恵があるようだ。つまり、私は、知らないことを、知らないと思っているという点で」と。”

これはプラトンのソクラテスの弁明という書物に出てくるソクラテスの言葉だ。

その人とソクラテスが語っている部分に白井さんを、そして私という部分にソクラテスをおいて文章を読んでみると、なんか今回の問題に即しても完璧な文章が出来上がるような気がする。

このソクラテスの無知の知と似たものに論語の知るということに関する言葉がある。

それもちょっとネットから引用させてもらうとこうなる。

「由(いう)、女(なんぢ)に之を知るを誨(おし)へんか。
之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らざると為す。是れ知るなり」と。


[要旨]
自分の知っていることと、知らないことをはっきり区別するのが真の知である。


[口語訳]
子曰く、
「由よ、おまえに知るということはどういうことか教えようか。
自分の知っていることとは知っているとし、
まだ知らないことは、どこまでも知らないとはっきり区別する。
これがほんとうに知るということだ。
(そして、このような態度が、さらに新しいことを知るもとになるのである)」と。”

ソクラテスも孔子も知るということの重要な要件としてまず知らないということを認識すること、知っていることと知らないことの区別をつけられるようになること、それをあげているように思う。

つまり知性には常に謙虚さが要求されるということだと思う。

僕の母の姉の旦那さん、つまり僕の義理のおじが僕のいとこに由子という名前をつけてくれてそのとき由子の由は、この論語に出てくる由からとりました、という説明を受けたことがある。

なくなった義理のおじも知るということに関しては、本当に謙虚なおじだったなとしみじみと思い出す。