ケンのブログ

日々の雑感や日記

これ、生きてない

2021年04月03日 | 日記
僕が読んでいる全国紙の今日の編集手帳というコラムにこんなことが書いてある。

“”
昼に出る月はほの白くどこか控えめだ。小林一茶はふいに空に見つけたらしく、あらっという感じで一句ひねっている。
〈春の風 いつか出てある昼の月〉
何日か前の暮らし面で東京の保育施設からの投稿を読んだ。子供が月は夜に出ると信じ込んでいたから、あらっと思う以上のときめきがあったかもしれない。2歳の男の子が青空に浮かぶ月に気づき、つぶやいたという。「お月さんも気持ちいいって出てきたね」“”と。

本当に、子供の思い込みや感性から、大人が意外性を感じたり、またそこから学ぶことって多いと思う。

あるお母さんが、一年生になった子供に、「今日から、あんたは一年生になったんやから、うちに帰ってきたら、元気に『ただいま』と言わなあかんよ」と言ったら、子供は「はい」と返事をして学校へ行って、帰ってきたとき、玄関の扉をガラッとあけて「元気にただいま」と元気に言ったという。

母の友人からその話を聞いたときには、本当に笑った。なつかしいなと思う。

まだ、僕が30歳になるかならないかの頃に、ある水族館に行ったことがある。

そこの水族館に魚がいっぱい泳いでいる水槽があって、水底にはキレイな色をした、ヒトデがいた。

3、4歳くらいの男の子がそのヒトデを指さしてお母さんに、「お母さん、これ生きてない。お母さん、これ生きてない。お母さん、これ生きてないよ」と何度も執拗に、そのヒトデは生きてないと繰り返していた。

本当に何度も何度もその子供はヒトデは生きてないと繰り返していた。

しかし、子供は、それだけ何度も生きてないと繰り返していたのに「これ、死んでる」とは一度も言わなかった。

そのことが、僕の心にとても印象深く残っている。

3、4歳くらいの子なら、例えば道で猫がトラックに引かれて死んでいるのを見かけたら、それは死んでいると認識できるだろうしきっと「死んでる」と言うと思う。

鳥が、道で死んでいるのを見かけても3、4歳くらいの子だったらきっと「死んでる」と言うと思う。

しかし、ヒトデを指差して子供は「生きてない」という言葉は執拗に繰り返しても、「死んでいる」とは一度も言わなかった。

それは、そうだと思う、あのヒトデの鮮やかな色を見たら、そこから死というものはとても思い浮かばないだろう。

それは子供のボキャブラリー不足や認識不足で思い浮かばないのではなく、あの鮮やかなヒトデの色が子供に死を思わせることはきっとなかったのだと思う。

他の魚は泳いでいて動いているのに、ヒトデは水槽の底にじっとしているだけで動かない。

子供はヒトデが動かないさまを見て「生きてない」と言ったのだと、その時、僕はかなりの確信を持ってそう思った。

動いてないから 生きていない けれどそのヒトデの鮮やかな色からは 死 というものは連想できない。

だから子供は執拗に「これ、生きてない」と繰り返していたのだ。

子供は言葉で表現できないだけで、ヒトデは動いてないけれど、死んでいるわけではない、それを本能で感じ取ることができたからこそ、その驚きと感動のあまり「これ、生きてない」と何度も繰り返していた。

きっと、その子にとっては 生きているという言葉と動いているという言葉はほぼ同じ意味であったはずだから。

その何度も 生きてない と繰り返していたことこそが、子供はヒトデを死んでいるとは思わなかったことの何よりの証拠だと思う。

もし、子供が死んているとおもったら、そんなに何度も繰り返して 生きてない とはいわなかったはずだから、、、。

子供だからこそ 死んでいる という言葉は、そんなに繰り返して言いたくないはずだから。
子供って天才だな。とおもう。

他人に対して、死ね と平気で言える子供が増えたのは、あるいは生命というものに幼い頃から本当に興味を持って触れる機会が減ってしまって、生命に対する想像力が欠如してしまったせいかも知れない。

そういう意味では、子供と動物園や植物園 水族館にいくことはいいことのように思える。

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今日の新聞の社会面に亡くなられた田中邦衛さんの記事が載っている。

その記事の書き出しは次のようになっている。

「不器用で口数少なく、しかし、周囲にあふれる愛情を注ぎ続けた。存在感のある名優、田中邦衛さんが先月24日、88歳で亡くなった」と。

古い考え方かも知れないけれど、不器用で口数少なく 周囲にあふれる愛情を注ぎ続けた と新聞に書き出してもらえれば、男としては幸せなことなのではないかと思う。

多くの場合、男は口数では女性に勝てないことが多いし、、、、。