僕の自宅の最寄駅の近くにコンビニがある。本当に駅の近くにあるので、頻繁にそのコンビニに行っている。
今日、そのコンビニに行ったら、店内の明かりはついているのにドアはしまっていて、コロナの感染者が出たのでしばらくお休みというような張り紙がしてある。
僕の他にも年配の方が2人ほどその張り紙を読んでいた。
そして、僕も含め、みんな多かれ少なかれ呆然とした顔つきだった。
本当に僕も呆然となってしまった。
何日か前に、自分の身内とか親しい人でコロナに感染したという話はおかげさまで聞いたことがないと自分のブログに書いたけれど、このコンビニは本当にかなり頻繁に行っているので、僕にとっては自分の行動テリトリーで初めて接した感染例だった。
やはり、何名コロナに感染したとかいう抽象的な数字を見ているのと、自分の行動テリトリーで感染が出たという具体例に接するのでは心のショックが全然違う。
うーん、困ったことになったなあと思ってしまった。
夕方になってそのコンビニに来て、また張り紙を見た。おかげさまで消毒も住んで、保健所から営業再開の許可も出て、明日から営業再開と張り紙が出ていた。
高校生くらいの若い子は、コンビニに明かりはついているので、当然コンビニは営業していると決めてかかっていて、コンビニに入っていこうとして、ドアにロックがしてあるので、そこで初めてコンビニが休みと気づいた。
しかし、明日から、営業再開と張り紙がしてある。高校生の子は友達とその張り紙を読んで、「明日から営業か。よかった」と言っていた。
年寄りは、コンビニが休みの張り紙を見ると呆然としていたけれど、若い人は、年寄よりもコンビニが休みというショックは少ないのだろうか。
なんだか、そんな気がした。
もちろん、若い人は若い人で、学校がオンライン授業になるとか、年寄りにはわからない苦労はしているはずだけれど。
昨日の僕のブログで引用した王貞治さんの言葉の中で
「策略や楽な勝ち方はない。勇気をふるう、恐怖心に打ち勝つ、根気よく自分の体を鍛えて粘り強く戦うしかない」という下りが、妙に心に残っている。
僕は、今、コロナの中一人で生活しているので、勇気をふるう、恐怖心に打ち勝つ、根気よく自分の体を鍛えて粘り強く戦うしかない という言葉が、よりいっそう心に残るのだと思う。
王さんの言葉は、相撲の関係者に向けられた言葉として新聞には出ているけれど、本当に、コロナの中で一人で生活している者にとってもぐっと心にくるものがあるなと思う。
僕の場合、野球や、相撲に取り組んでいるわけではないので「体を鍛えて粘り強く戦うしかない」というところは当てはまらないかも知れないけれど、体を鍛えるを、心を修養するにおきかえたら本当に今の僕にもはげみになる言葉だなと思う。
金光さんは、おかげをうけようと思ったら、ままよ という気持ちをもたなければならない。
ままよ とは死んでもままよのことである という意味のことを言っておられる。
本当に、天に、おすがりして、おまかせして、死んでもままよという気持ちで生きられたらそれは心強いことだなと思う。
それに少しでも近づけるような気持ちを持っていきたいと願う。
引き続き、一日いちにちを無事に過ごせることを第一に祈りつつ生活していきたいと思う。