ケンのブログ

日々の雑感や日記

毎日無事に

2021年04月21日 | 日記
僕の自宅の最寄駅の近くにコンビニがある。本当に駅の近くにあるので、頻繁にそのコンビニに行っている。

今日、そのコンビニに行ったら、店内の明かりはついているのにドアはしまっていて、コロナの感染者が出たのでしばらくお休みというような張り紙がしてある。

僕の他にも年配の方が2人ほどその張り紙を読んでいた。

そして、僕も含め、みんな多かれ少なかれ呆然とした顔つきだった。

本当に僕も呆然となってしまった。

何日か前に、自分の身内とか親しい人でコロナに感染したという話はおかげさまで聞いたことがないと自分のブログに書いたけれど、このコンビニは本当にかなり頻繁に行っているので、僕にとっては自分の行動テリトリーで初めて接した感染例だった。

やはり、何名コロナに感染したとかいう抽象的な数字を見ているのと、自分の行動テリトリーで感染が出たという具体例に接するのでは心のショックが全然違う。

うーん、困ったことになったなあと思ってしまった。

夕方になってそのコンビニに来て、また張り紙を見た。おかげさまで消毒も住んで、保健所から営業再開の許可も出て、明日から営業再開と張り紙が出ていた。

高校生くらいの若い子は、コンビニに明かりはついているので、当然コンビニは営業していると決めてかかっていて、コンビニに入っていこうとして、ドアにロックがしてあるので、そこで初めてコンビニが休みと気づいた。

しかし、明日から、営業再開と張り紙がしてある。高校生の子は友達とその張り紙を読んで、「明日から営業か。よかった」と言っていた。

年寄りは、コンビニが休みの張り紙を見ると呆然としていたけれど、若い人は、年寄よりもコンビニが休みというショックは少ないのだろうか。

なんだか、そんな気がした。

もちろん、若い人は若い人で、学校がオンライン授業になるとか、年寄りにはわからない苦労はしているはずだけれど。

昨日の僕のブログで引用した王貞治さんの言葉の中で
「策略や楽な勝ち方はない。勇気をふるう、恐怖心に打ち勝つ、根気よく自分の体を鍛えて粘り強く戦うしかない」という下りが、妙に心に残っている。

僕は、今、コロナの中一人で生活しているので、勇気をふるう、恐怖心に打ち勝つ、根気よく自分の体を鍛えて粘り強く戦うしかない という言葉が、よりいっそう心に残るのだと思う。

王さんの言葉は、相撲の関係者に向けられた言葉として新聞には出ているけれど、本当に、コロナの中で一人で生活している者にとってもぐっと心にくるものがあるなと思う。

僕の場合、野球や、相撲に取り組んでいるわけではないので「体を鍛えて粘り強く戦うしかない」というところは当てはまらないかも知れないけれど、体を鍛えるを、心を修養するにおきかえたら本当に今の僕にもはげみになる言葉だなと思う。

金光さんは、おかげをうけようと思ったら、ままよ という気持ちをもたなければならない。
ままよ とは死んでもままよのことである という意味のことを言っておられる。

本当に、天に、おすがりして、おまかせして、死んでもままよという気持ちで生きられたらそれは心強いことだなと思う。

それに少しでも近づけるような気持ちを持っていきたいと願う。

引き続き、一日いちにちを無事に過ごせることを第一に祈りつつ生活していきたいと思う。



一つのことができればそれで十分

2021年04月21日 | 日記
大阪が緊急事態宣言の要請を国に対してするという新聞記事の中に大阪府知事のこんな言葉が載っている。

「(まん延防止)重点措置では感染拡大を抑える力は不十分だと判断した。街全体を止めるくらいのことをやらなければならない」と。

街全体を止めるって、その表現を字義通りに受け止めれば、街に人が出ていくことを止める、街における人の流れを止めるということだと思う。

要するに人の行動を制限するということで、そういうお願いを人に対してするということだと思う。

それを、街全体を止める、という言葉で表現するのは、一種の詭弁のようにも思えるし、人に対する配慮が足りないように思えてくる。

感染拡大を抑える力、というけれど、抑えるべき相手は、モノではなくウイルスという生き物。

モノを力で抑えるようにはなかなか行かないのだと思う。

知事の発言を新聞で読む限りは、そういう意味では、とても無生物的、つまり無機質で、今問題になっているのは人のこと、そしてウイルスのこと、つまり生き物が相手だという根本意識が欠けているように思えなくもない。

別に、意識が変われば、政策が変わって、問題が解決するというほど、ものごとは単純だはないけれど、人に対する意識が欠ければ人の反発を生み、怖いのはその反発心ではないかと思う。

芹沢光治良の小説の登場人物が関東大震災に関して、「震災そのものよりも怖いのは、震災に怯えた人の心」という主旨のことを登場人物が語った場面があったと記憶している。

コロナもこわいけれど、上に立つ人が、人のことにかんして、無機質な発言をしていると、人の気持ちが白けてしまって、それが、一番怖いことのように僕には思えてくる。

同じ日付の新聞の政治面には、与党の中堅議員が
「緊急事態宣言の解除後に屋外や電車内で飲酒する人の姿が目立つようになった。感染拡大の長期化による気の緩みがある」と語ったと書いてある。

屋外での飲酒って、気の緩みというよりも、もう、自粛の長期化に耐えられなくなって、そうでもしないとやってられないという気持ちなのではないだろうか。

気の緩みというのとは違うようにも思う。

本当に、政治の上に立つ人も、今は、物事の本質がよくわからなくなっている時期なのだと思う。

かといって、僕に、どうすればいいという考えがあるわけではなく、僕個人としては、マスク、手洗いだけはできると思うのでそれをやっていきたいと思う。

今は、58歳で一人で暮らしているので、街全体を止めるという言葉を真に受けて、一日中家にいるということは、ちょっと僕には無理だと思える。

抱える問題は本当に一人ひとり違うのだと思う。

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新聞に、「大相撲の継承発展を考える有識者会議」が提言書をまとめたという記事が出ている。

その中の各委員の個別意見というコラムがあって、そこに王貞治さんのこんな言葉が出ている。

「硬式ボールが当たった時の痛さを知る人でなければ、野球の世界は語ることができない。
同じく厳しい稽古の本当の限界は大相撲で鍛えてきた親方衆や力士にしかわからない。策略や楽な勝ち方はない。勇気をふるう、恐怖心に打ち勝つ、根気よく自分の体を鍛えて粘り強く戦うしかない」と。

本当に、野球や相撲の世界だけでなく、鍛錬ということが必要などんな世界にでも通用するような王さんの言葉だなと思う。

結局、一つの物事を極めると、他のことがらにも通用するような本質がわかるようになるということなのだと思う。

僕が、高校生の頃、部活や勉強を両立している友達のことをうらやましく思って、「僕は、不器用でいろんなことを両立するということが苦手で悩んでいる」と岐阜の八王源先生に話したら、先生は「人間は、一つのことができれば、それで十分。北の湖は相撲以外何ができるね」とおっしゃったことをしみじみと思い出す。
※相撲以外何ができるね というのは岐阜の方言で、相撲以外何ができますか という意味です。


しかし、硬式ボールが当たった時の痛さを知る人でなければ、野球の世界は語ることができないって、王さんらしい発想だし、また本質的な発想だなと思う。

昔、イチロー選手と、浅田真央さんがキャッチボールをしている動画を見たことがある。

その中で、イチロー選手がキャッチャーになって、浅田真央さんの投げるボールを受けるという流れになった。

その時「でも、私、イチローさんにボールぶつけるといけないから」と浅田真央さんが言った。

するとイチロー選手は無茶無茶、嬉しそうな顔をして
「真央ちゃん、僕、真央ちゃんにボールぶつけられるほど、下手じゃない。これでも多少は野球やってますから」と言った。

王さんが、「硬式ボールが当たったときの痛さを知る人でなければ野球の世界を語ることができない」と語っていることとあい通じる部分があるなと思う。