ドラッグストアのお勘定で並んでいたら、レジのそばに、アイライナーがいくつか置いてあった。
それらのアイライナーの中に、パッケージに涙目の女性の絵が描いてあってその上に「泣いても密着」というキャッチコピーの書いてある商品が一番上の方の目立つところに置いてあった。
ええ?女性って、アイラインをするときに、泣くことを想定することもあるの?と思ってしまった。
ということは、女性というのは作戦で泣くこともあるのか?
もし、そうだとすれば、怖いというか、かわいいというか、よくわからなくなってくる。
まあ、男の僕でも泣きそうになっときは、心の中で九九を唱えたりして泣きたいという感情から意識をそらしたり、逆にそこに感情移入するのに任せて泣いてしまったり、ある程度泣くということはコントロールできるけれど、あくまである程度という限定的な範囲内であるにすぎない。
会社に勤めているときに。女性の部下から「女の涙にだまされたら、だめですよ。とアドバイスされたわ」と自慢げに語っていた課長がそういえばいたっけ、、、。
割と口先だけの人というタイプの課長だったと記憶しているけれど、、、。
学生の頃、大学の学生オーケストラでバイオリンを弾いている女の子と話す機会が会った。
今度の演奏会で、チャイコフスキーの交響曲第5番を演奏するとその子は言っていた。
それで、僕は「ああ、あの曲の第二楽章のホルンのメロディはいいねえ。一回、生演奏であそこ聴いて泣いたことあるわ」と言った。
すると、その女の子は僕のことを、ちょっとあざ笑うような顔をした。
「何かおかしいの?」と僕は言った。
すると「だって、泣いたらおしまいやん」とその子は言った。
「おしまいって、何がおしまいなの?」と僕は言った。
「泣いたら、物事が正当に評価できなくなる」とその女の子は言った。
僕は、その言葉に適当に相槌を打ったと記憶している。
でも、その言葉を聴いて、男と女では泣くということに関する意識が、ちょっと違うのかも知れないと思った。
そのチャイコフスキーの交響曲第5番の第三楽章ワルツの中間部分にバイオリンの音がすごく早く動く箇所がある。
その箇所を口三味線で彼女に歌って聞かせて
「あそこは、音の動きがはやいから難しいでしょう」と僕は言った。
すると彼女はまた、ちょっと僕のことを少しだけ小馬鹿にしたように笑っていた。
「何かおかしいの?」と僕は言った。
すると彼女は
「あそこは、早いけど、同じパターンの音の動きを繰り返すから、知らない人が思うほど難しくない」と言った。
「そうか、知らなかった」と僕は言った。
まあ、バイオリンって僕、全然演奏したことないから、そら、わからんわな、と心の中で思った。
一度B君という子のはからいで、その女の子とデートしたことがある。
何日か経ってBくんに「彼女、僕のことなんて言ってた?」と聞いたら。
「あんなに、ゆっくり、まどろっこしく話す人初めてやわ と言ってたぞ」とBくんは僕に教えてくれた
そして、彼女との2回目のデートはなかった。
1回だけで終わってしまった。
まあ、僕も色々と切ない学生生活だったと言うことだと思う。
というか切なかった。
スーパーマーケットのレジで多分50歳すぎくらいの女性だと思うけれど、いつもブルーのアイラインを細くきれいに引いている人がいた。
アイライン、よく似合いますねと何度か言おうと思ったけれど、とうとう言う勇気がでないまま終わってしまった。
桑田佳祐さんの「oh クラウディア」という歌の歌詞の一節に
“”oh うつろうような アイラインが いいじゃない“”
というものがあるけれど、そういう歌詞がさらりと書けてしまう、桑田さんは芸術の才能もあるし、また、結構、遊んでおられるのだろうなと何となく思った記憶がある。
同じスーパーのレジに、やはり50歳すぎくらいの女性で、髪を染めずにシルバーのままにして、そのときに応じてポニーテールにしたり、しなかったり、している方がいた。
その方には、ちょっとした、その場の勢いで
「髪、シルバーで、それが逆にいいですね」と変な言い方をしてしまった。
するとその方は
「単に、染めるのが、面倒くさがりなだけです」と言ってうまくフォローしてくださった。
レジでの一瞬の出来事なので、本当にそういうタイミングでパッとフォローするようなことを言ってくださると、ハッと驚いてしまったりする。
まあ、そういう驚きの気持ちは男にしかわからないと思うけれど、、、。
泣くということに関して言えば、確かに、男の書いた歌詞よりも、女性の書いた歌詞のほうがその言葉は頻繁に出てくるように思う。
その頻繁に出ている泣くという言葉づかいの中で、僕にとって印象深いのは
岩谷時子さんがフランク永井さんに提供した「おまえに」という歌の歌詞の中にある
“”
そばにいてくれるだけでいい
泣きたいときもここで泣け“”
というフレーズだ。
このフレーズを見るたびに岩谷時子さんて、情熱的な方なんだなと思ってしまう僕がいる。
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今日の新聞に地震で壊れた熊本城の天守閣の石垣の修復が完成したというニュースが出ている。
その記事の中に、修復に関わった嘉村哲也さんという方が語られた
「後世に恥じない石垣に修復できた。気の遠くなるような途方もない作業だった」という言葉が載っていた。
また嘉村さんは明治時代に、やはり地震で壊れたこの石垣を修復した方々に言及して
「先進的な技術がない時代で修復に取り組み、歴史をつなごうと必死だった人がいた。その思いに近づけただろうか」と語ったと出ている。
そういう、歴史をつなぐという考え方、後世に恥じないという考え方って、大切なことだと僕は思った。
その記事を僕はたまたまブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」という音楽をラジカセで流しながら読んでいた。
ブラームスも交響曲第一番をベートーヴェンと比較されても後世に恥じないものをと思っているうちに、着想の段階から計算すると完成までに20年余りかかってしまったというような話を若いときに、何かの本で読んだ記憶がある。
なので、ラジカセから流れている、ブラームスの音楽と、石垣を修復した人の、歴史をつなぐ、後世に恥じないものをという言葉が、流れているブラームスの音楽となぜか重なって心にしみてきた。
どなたかが、ある、書物で、私達の人生は、結局、祖先から受け継いだものを後世につないでいく、それにつきるという主旨のことを書いておられた。
こういう、石垣の話とか、芸術の話などに接すると、本当にそのとおりだなと感じることが多い。
もちろん、後世につないでいくものはその他にもいろいろあると思うけれど、、、。