ケンのブログ

日々の雑感や日記

響龍なくなる

2021年04月30日 | 日記
今日の新聞とネットのニュースに大相撲の三段目力士 響龍が死去したと書いてある。

新聞の見出しには首付近強打、ネットの見出しには頭を強打と書いてあった。

響龍の死去の原因になったと思われる取り組みの動画がネットに出ていたので見た。

響龍は相手力士のすくい投げに、頭から落ちていっている。

そして落ちた頭の頭頂部が丁度、俵(たわら)のところに突っ込んでしまった。

なので、俵(たわら)が響龍の頭の動きのストッパーの役割を果たしてしまう。

頭が俵(たわら)で固定されて動かなくなった状態で、すくい投げで崩れた体勢の150キロもあろうかという巨体が突っ込んでいったから、慣性の法則で、響龍の頭部と胴体の間、つまり、後頭部から首にかけての中枢神経が集中している部分に、ちょっと想像を絶するような力が瞬間的にかかってしまったという状態になっている。

土俵の真ん中で倒れていれば、俵(たわら)が頭の動きを止めることはないから、巨体が頭に突っ込んでいっても、頭もそれに応じて前方に移動するので、あのような事故は起こらなかったと言って差し支えないと思う。

まさに、不運に不運がかさなってしまったとしか言いようがない。

本当に究極の不運という気がする。

5年ほど前に、豊真将という力士が、日馬富士との相撲で、膝が俵(たわら)と腰の間にはさまるような形で倒れ、そのときもそのために豊真将の膝に過大な力がかかり、豊真将はその場でうごけなくなってしまった。

あのとき、テレビで解説をしていた北の富士さんは、「よくよく、運のない人だね、この豊真将という人は、やっと上がってきたと思ったら、怪我だもんね」とおっしゃっていた。

本当に、もう、運としか考えられないようなことが、この世界では起きるものなのだなとしみじみと思う。

豊真将の場合は、あの怪我が結局、引退につながったけれど、響龍の場合は、本人がなくなるということにつながってしまった。

本当に、息子さんを大相撲に預けた、ご家族は、もう、やり場のない気持ち、むせびあげるような気持ちでおられることと思う。

もちろん、力士を預かっている、親方や部屋の人もそうだけれど。

奇しくも何日か前に王貞治さんが

硬式ボールが体に当たった時の痛さを知らない人は野球を語ることはできない。
同様に、土俵の(稽古の)厳しさは、実際に、それを体験した親方や力士にしかわからない。

という主旨のことをおっしゃっていたことをまたしみじみと思い出した。

やはり、あの土俵の中で、鍛え上げた巨体の男同士が、ぶつかり合う時の、恐怖感とかそういうものは実際にそれを体験したものにしかわからないと思う。

素人が軽々しく口を挟める世界ではないし、もし口を挟むとしても、やはり、実際にそれをやっている人にしかわからないものがあるのだという畏敬の念をもって発言するべきだということを思った。

相撲の世界だけでなく、どんな世界でも、本当に、道によって賢し という言葉もあるように、実際にその世界を体験した人にしかわからないということはいくらでもあるとおもう。

他人の道というものを尊重することも大切だし、また、困ったことがあったら、その道の人を頼っていく、その道の人に相談してみる、そういう気持ちも忘れないようにしたいものだと思った。

響龍さんのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

どうぞ、毎日が無事でありますように。それを一番に願っていきたいと思う。






昭和の日

2021年04月30日 | 日記
昭和の日と新聞に書いてあるのを見て初めて今日が昭和の日であると知った。もちろん今日は、昭和天皇の誕生日であることは知っていたけれど、みどりの日と呼ばれてきた時期が長かったので昭和の日という意識がなくなっていたのかのしれない。

本当に、昭和も遠くなったものだなあと思う。

昨日、コールセンターに電話したら、何を聞いても、個々によりますというような答えをしてこられて、故意、または、かたくなに話の落ちがつかないようにしておられるような女性にあたってしまったということをブログに書いた。

一日経過してみても、本当にあれはいやなことだったなあという思いがこみ上げてくる。

さらに時がたてば、そのいやな思いは薄れていくのだろうと思うけれど。

こういうときは、諸行無常という言葉を思い浮かべようと思う。

いつまでも同じ気持ちが続くことはないと、諸行無常なのだからと。

だんだんと、気持ちや物事が良き方に流れて浄化していきますようにと願う。

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連日、わいせつ教員を、教育現場から排除する法整備の話題が新聞に載っている。

僕、大学生の頃、ちょっと好きな女の子がいて、その子の気を引こうとして、その子がポニーテールにしていた日に、歩きながらその子のポニーテールを引っ張ったことがある。

すると、その子は烈火のように怒った。

烈火のように怒ったというのは、その子が僕に向かって、なにか抗議してきたということではなく、僕がポニーテールを引っ張った瞬間のその子のムッとした表情を見て、あっ これは、尋常ではない怒り方だと自分で悟った。

無言の怒りだったから、余計と身にこたえたということがある。

それ以来、なんと言うか、そういう雰囲気にならない限りは、女性の身体には安易に触れないということにそれなりに注意して人生を送っているつもりではある。

つもりなので、どこまで実行できているかはわからないけれど。

予備校に勤めているときも、京大を受けた女の子と一緒に、合格発表の掲示板を見ていて、その子の受験番号を本人よりも僕のほうが先に見つけたときにちょっとどさくさで、「受かってるやん」と言って、その子の肩に軽く手を回したことがあるけれど、まあ、そのくらいしか、女の子の体に触れたことって思い出せない。

お別れのときとかに握手をしたことは結構あるけれど、それも、あまり無理やりという感じで握手をしたことも自分ではないつもりではいる。

あとは、肩こりでしんどいと言っている女性に、腕を体の後ろに回すようにするといいよというような話を僕がして、その方が、体の後ろに腕を回しても、なんだか不器用そうしていたので、ちょっと手助けのつもりで、その方の腕を補助的に後ろに軽く引っ張ったこととか。

でも、そうやって思い出すと、僕も、女性の身体には安易に触れないことをこころがけていても、それでも女性の身体に触れたことはけっこうあるなと思う。

今日、新聞に載っている「わいせつ教員対策新法」の自民、公明両党のワーキングチームによる条文案を見ると

わいせつ行為について「児童生徒性暴力」と定義し「衣服の上から身体に触れる」などの行為も性暴力に該当するとした、と書いてある。

本当に、わいせつ教員を許さないということは確かにそのとおりだと思うけれど、いざ、それを立法と言う形で規定しようとすると、そんなに楽なことではないのだなとしみじみと思う。

衣服の上から女の子の身体に触れても、性暴力と認定される可能性があれば、男も、女も性暴力ということに神経質になりすぎて、また、別の問題が生まれることも考えられる。

さわらぬ神にたたりなし、と女の子の指導に手抜きをする教員が出てきたりとか、、、。

過剰に、男と見たら性暴力を疑え、という女性が増えたりとか、、、。

言葉が生み出す人間の意識の変化って結構馬鹿にできない、

松田聖子は、「タバコの匂いのシャツにそっと寄り添う」と歌っていたけれど、
タバコの害がしばしば言われるようになったら、タバコの匂いのシャツに寄り添うなんてありえないことで、逆に、タバコの匂いのシャツは洗濯機に入れるな と言われる夫も出てきたりして、、、。

わいせつ という言葉が過剰に独り歩きしないことを願っている。

まあ、僕があれこれ考え過ぎであって、法律が整備され、みんなが幸せになれることを祈ってはいる。

ある女性に、写真撮影をお願いしたら、その方はいろいろと僕の衣服の乱れとかを直してこられて、「男が女に触ったらあかんけど、女が男に触ることは別に、気にする人そんなにいないから、こういうときは女は便利です」とおっしゃったけれど、そのときはなるほどそのとおりだなと思った。



それはともかく、毎日が無事でありますように、それを第一に考え、願っていきたいと思う。