異国情緒豊かな街長崎には悲しい歴史があります。昭和20年8月9日に広島に次世界で2番目に原爆が投下されました。爆心の浦上地区には原爆の爪痕を伝える『長崎平和公園』があり、厳かな気持ちで訪れました。
『長崎平和公園』は原爆落下中心地公園北側、小高い丘にあり、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。



公園内にある『長崎の鐘』は、原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、遺族、被爆者、およそ21,000世帯の拠出金により建立されました。

そして公園の中心にある『平和祈念像』は、長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像です。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めてます。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。

隣にある『折鶴の塔』は原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げています。

爆心地から500m圏内にあった『浦上天主堂』の建設計画は、1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれました。ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た1895年、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始し、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。


正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられたが、1945年、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年、レンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。



『原爆投下中心地』にはメモリアルパークがあり、この浦上上空約500mで炸裂しました。



黒御影石の標柱があり、この上空で原爆が炸裂したことを示しています。



浦上地区の平和公園界隈へは路面電車の『浜口町』が近くで行けます。


沖縄 ブログランキングへ
にほんブログ村

『長崎平和公園』は原爆落下中心地公園北側、小高い丘にあり、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。




公園内にある『長崎の鐘』は、原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、遺族、被爆者、およそ21,000世帯の拠出金により建立されました。


そして公園の中心にある『平和祈念像』は、長崎市民の平和への願いを象徴する高さ9.7メートル、重さ30トン、青銅製の平和祈念像です。制作者の長崎出身の彫刻家北村西望氏はこの像を神の愛と仏の慈悲を象徴とし、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めてます。毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされます。


隣にある『折鶴の塔』は原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げています。


爆心地から500m圏内にあった『浦上天主堂』の建設計画は、1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれました。ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た1895年、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始し、1914年に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。



正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられたが、1945年、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもので、1980年、レンガタイルで改装し、当時の姿に似せて復元されました。




『原爆投下中心地』にはメモリアルパークがあり、この浦上上空約500mで炸裂しました。




黒御影石の標柱があり、この上空で原爆が炸裂したことを示しています。




浦上地区の平和公園界隈へは路面電車の『浜口町』が近くで行けます。



