理解するという事(2020.11,15日作)
やたらに外国語を使いたがる人間は
それが識者か知識人だか知らないが
その言葉の根源 源への理解が及んでいないからに違いない
その物の本質を理解している人間なら 日本に居て 日本人である以上
日本語で思考しているはずだ
その物に対する基本的思考をないがしろにして
何処かの国の横文字書物などから取れ入れた
にわか知識を物知り顔に披露するからこそ
日本人としての思考の根源 日本語で表現する事が出来なくて
借り物言葉の横文字言葉に頼るしか出来ないのに違いない
真にその物に対する理解を得た人なら 日本語で思考している以上
日本語で表現するはずだ
職人は自分が造るものへの知識 理論は知らなくても
その物が持つ本質はしっかりと理解 把握している
実業者は借り物ではない自分の言葉でその物の本質を語る事が出来る
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晩秋(2)
話しは順調に進んだ。その年の秋も早い九月には式を挙げていた。
当然の事ながら、秋子は弘志には知らせなかった。
二
秋子の結婚生活は幸福なものだった。
二階建ての新居は夫の実家からの贈り物だった。
明るい松林の中にあって、いかにも新婚家庭にふさわしい清潔感に溢れていた。
終日、豊かな陽射しが満ちていて、気の遠くなるような静寂が辺りを領していた。
新婚家庭に伴う当初の煩わしさから解放されると、後には訪れる人もなくて、夫婦二人だけの静かな生活が残された。
だが、そんな生活も実際には、長くは続かなかった。無論、不幸のためではなかった。夫がすぐにサッカー病をぶり返していて、生徒達の練習や試合などと、監督として、連日、飛び廻って歩くようになっていたためだった。休日と言えども、ほとんど、家庭に落ち着いている暇はなかった。
「うーん、もう。いつも、わたし一人ばかり置いてゆくんだから」
秋子は度重なる不満から夫を咎めた。
それでも何処か暢気な夫は、
「まあ、仕方がないよ。これも仕事の内なんだから」
と、存外平気な様子で笑って言って、取り合おうとはしなかった。
秋子はしかし、そんな状況に置かれながらも自分が不幸だとは思わなかった。口で言う程に夫を責めていた訳でもなかった。むしろ、生徒を指導する学校の教師として、当然の事のように思っていた。そんな夫が、誠実な人間であるようにさえ思えた。お互いがお互い、それぞれの時間を過ごした後の、ひっそりと心を寄せ合う夜のひと時の時間さえあれば、それで充分に思えた。
秋子にしても、一人の時間は充分、充実した時間を持つ事が出来た。毎日、まだ新婚家庭の匂いも新しい開かれたばかりの庭に出て、せっせと花の種を蒔いたり、植木の手入れをしたりして過ごしては、時間が来ると、駅のある町まで買い物に出た。時には、ミシンや編み物に向かう事もあって、無聊に陥る事もなかった。
二人の間には、半年が過ぎても子供が恵まれなかった。夫が秋子に尋ねた時、秋子は頼り無げに答えるよりほか出来なかった。一年が過ぎる頃には、夫や秋子の実家でも心待ちにするようになっていた。
「これも授かりものだから、仕方がないさ」
夫が生来の暢気さでいてくれる事が秋子には救いに思えた。
秋子は何時しか馴れていた新婚生活の中で、自分に子供のない淋しさを紛らすかのように、夫の実家の義兄の子供達を可愛がる事を覚えていた。八歳と五歳、三歳と、三人の子供達はそれぞれに秋子に懐いていて、三歳の女の子などはしばしば泊まっていったりもした。秋子もまた、そんな子供達が自分の淋しさを慰めてくれる存在に思えて、子供達のためにせっせとミシンを踏んだり、編み物をしたりして、時の経つのも忘れていた。
地方都市の小さな田舎町はそうして総てが静かだった。秋子はそんな時間の中で自分が生きている事に穏やかな心の平穏を見い出していた。
三
思いも掛けない文字に秋子は眼を見張った。
" 高木弘志 "
それはいかにも唐突な感じだった。
秋子にとっては、その文字が眼底を突き抜け、意識の奥底にまで突き刺さって来るかのような感覚を覚えていた。
咄嗟には、何事も判断出来なかった。混乱の中で眼を見張ったまま、暫くはその文字に見入っていた。
" 今月の新人小説 高木弘志 「失われしもの」"
文芸雑誌の広告の中に、大きな文字で書かれていた。
秋子は激しい胸の鼓動の中で、なおもその文字を見詰めたままでいた。それからようやく、この高木弘志は、自分の知っている、あの高木弘志に違いない、と確信に近い気持ちを抱いていた。あの、自分の内面の鬱屈したものを表現したいんだ、と言っていた高木弘志。
秋子はその時、改めて過ぎ去った歳月を指折り数えていた。
既に七年と少しの歳月が流れていた。この静かな田舎町で過ごした時間が今更のように秋子の意識の中に蘇って来た。何事もなく、穏やかに過ぎて逝く時間。秋子はその中で依然として、この、明るい松林に囲まれた静かな家で、庭の花々や植木と共に、夫と二人だけの生活を生きていた。総ては十年一日の如く変わらない穏やかな日々だった。そして秋子は、その生活に別段の不満を抱く事もなく、日々、静かな時間を生きる事にささやかな満足を見い出していた。
だが、時の経過の容赦はなかった。その間に、幼かった義兄の子供達はそれぞれに大きくなり、中学生、小学生となっていた。
「あれ、俺、もう白髪が出るのかなあ」
と夫は言うようになっていた。
今更ながらに秋子は時の経過の残酷さとその速さに驚くばかりだった。
極めて親しかった人の名前を公の眼にさらされる新聞紙上で見た驚きと喜び。一方でまた、秋子の心の中には、奇妙な淋しさのようなものもあった。
不意に意識の底から現れた高木弘志、秋子の親しかった人。それでいて、新聞紙上に見る高木弘志の名前とその存在は、秋子には奇妙に遠い感覚でしか掴めなかった。ただ、離れて逝くだけの存在。その遠さだけが実感出来た。常に心の内で何かを求めていたあの人。秋子は既にあの当時から高木との間に、この距離を感じ取っていたのだ、と今更ながらに思わずにはいられなかった。そして、秋子は今、此処に居る。
二日後、秋子は買い物で町に出た折り、駅前の本屋で弘志の名前の出ている雑誌を求めると、家に帰り、早速、眼を通した。だが、秋子はその小説を最後まで読み通す事が出来なかった。弘志がそこで何を書いているのか、次第に明瞭になって来た。
秋子は信じたくないと思った。しかし、信じない訳にはかなかった。総てが秋子にとっては明瞭な事実だった。弘志はその小説の中で、過ぎ去った日々に於ける秋子への愛の告白をしていた。
秋子は思わず雑誌を閉じた。自分の心の中に起こる混乱が恐ろしかった。少なくとも今の秋子は、日々の生活に満足していた。夫と二人だけの穏やかな生活、それは現在の秋子にとっては掛け替えのない日々だった。これ以上、望むものはなかった。ただ、子供さえ恵まれてくれれば、と言う思いのない事はなかったが、総てに屈託のない夫との間では、それも大きな問題ではなかった。このまま総てが静かに流れて逝き、やがて、遠い岸に辿り着く小舟のように二人の間に人生の終わりが訪れる、それだけを願っていた。それで満足だった。今更に、過去でしかない愛の形は見たくはなかった。
秋子はその雑誌は夫には見せなかった。次の日、夫が学校に出た後、庭の片隅で燃やした。
再び、秋子が弘志の書くものに眼を通す事はなかった。弘志に対しては、憎しみも恨みも覚えなかった。ただ、総てが忘れられてくれればいい、と願った。
四
その日、秋子は買い物を済ませると、駅前の広場にあるバス停へ行った。
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takeziisan様
有難う御座います
数々のブログ、拝見させて戴きました。
相変わらず良いお写真の数々、楽しく
拝見させて戴きました。
晩秋の雑木林、いいですね。この間、テレビで
武蔵野の雑木林を映していましたが、何か
昔の武蔵野の面影がなく、失望しました。
このお写真の中の雑木林の方が余程、
見応えがあります。
「君の名は」「枯葉」懐かしいです。
北沢彪、阿里道子、臼井正明、七尾玲子、
ラジオ放送を彩った声優達の名前が浮かんで来ます。
「枯葉」はイブ モンタンが映画「パリの門」
の中で歌った名曲ですね。わたくしは特に
日本の歌手、高英男の歌った「枯葉」が好きです。
何度かステージで聞きました。
シャコバサボテン、我が家ではまだ咲きません。
蕾もあまり大きくありません。千葉県は全体的に
温暖なので、その影響でしょうか。
いつも有難う御座います。これからもお写真など
楽しみに致してります。
hasunohana1966様
有難う御座います
「般若心経の空」改めて読ませて戴きました。
色即是空、有るけど無い 無いけど有る の
世界ですね。何事に於いても拘りを捨てるという事が
大事な事なのでしょうけれど、それのなかなか
出来ないのが人間なのでしょうか。つまり「色」の
世界をうろうろしている。「無」の世界、空の世界には
なかなか辿り着けないようです。修行、修行という事
でしょうか。人生は修行の場、という事のようです。
「善と悪の裏表」の画、なかなかいいですね。御自身で
お描きになったのでしょうか。正に禅画です。