『ドクター』(91)(1994.4.27.)
マッキー(ウィリアム・ハート)は成功した外科医だったが、がんを宣告され、自らが患者の立場になることで、今まで医療者の立場から見てきた医療現場に対してさまざまな疑問を感じるようになる。
この映画、公開時は、どうせまた安直な心の回復劇なのだろう、あるいは病院や病気ものはどうも気が進まないと思って見なかった。見終わった今も、そうした思いが完全に消えたわけではないのだが、先に見た日本の『病院へ行こう』(90)などと比べると、医療制度の違いはあるものの、良くも悪くも極めて真面目な病院、病気映画だった。
エリート医師が、自身が患者になって初めて病院や医師の本来あるべき姿を発見する。最初は嫌な奴が、映画が進むにつれて愛すべき者へと変わっていく(演じるハートが見事)。そして彼の横に、変化に困惑する妻(クリスティーン・ラーティ)や同僚、戦友となる死にゆく女性(エリザベス・パーキンス)を配置して、彼が生きる意味を再発見する様子を描いていく。
監督のランダ・ヘインズは、この、一見、甘く嫌らしくなりかねない再生劇を、危ういバランスを取りながらたくみにまとめ上げていた。これを今はやりの女性監督故の、という言い方はしたくない。なぜなら、こうしたバランス感覚のよさが、昔ながらのアメリカ映画の真骨頂だからだ。
そして、かつては日本にも、この映画と同種だが、それを遥かに上回る黒澤明の『生きる』(52)が存在した。こうした金の掛からない、ストーリーのうまさだけで見せる映画の時代が確かにあったのだ。
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