車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

草津宿・草津本陣 in 滋賀県草津市

2025年03月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

江戸時代に整備された主要五街道「東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道」。その一つで日本橋と京都を結ぶ東海道に置かれた五十三宿の内「草津宿」は江戸より数えて五十二番目の宿で、ここで中山道と合流します。東海道と中山道との分岐点は「追分」と呼ばれ、その地点に立てられた道標を「追分道標」といいます。

幕府は人々の往来の激しい宿場や関所、大きな橋の袂、更には町や村の入り口や中心部などの目立つ場所に「高札場(制札場)」と呼ばれる設置場所を設け、封建倫理の教諭、火事や強訴徒党などに対する取り締まりを示しました。現在は観光設備の一環として、主だった宿場の入り口などに復元された高札を見る事が出来ます。

天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によれば、草津宿の宿内家数は586軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠72軒で宿内人口は2,351人であったと記されています。

現存する「草津宿本陣」は、当主の『田中七左衛門』が寛永12年(1635)に本陣職を拝命したとされ、明治3年(1870)に本陣が廃止となるまで、代々本陣職を勤めてきました。また、いつの頃からか材木商も営むようになり、江戸時代には田中九蔵本陣と区別して「木屋本陣」と呼ばれていました。寛永12年(1635)に創建されましたが後に焼失し、膳所藩主本多家の「瓦ヶ浜御殿」を移築。書院造で表門、御除門、敷台付き玄関に庭、部屋数39という本陣としては最大クラスの屋敷です。

今で言うところの宿帳に当たる「大福帳」には、浅野内匠頭、吉良上野介、土方歳三など歴史上重要な人物の名前も多く残されており、ここがいかに主要な本陣であったか推測されます。また、皇室から将軍家に降嫁された和宮様ご一行は、ここから中山道を経て江戸に向かわれました。

こちらは、宿泊当時の記録に見られる献立を再現した「皇女和宮の食事」で、草津宿街道交流間に展示されていたものです。都を離れる皇女様をお慰めしたい思いが、美しい彩に感じられます。

「関札」は、本陣に誰が休泊しているのか知らせるための札で、本陣の表門脇や、宿場の入口に掲示しました。草津宿本陣には木製関札約460枚、紙製関札約2900枚が残されています。

赤絨毯が敷かれた上段へ通じる畳廊下。本来は襖がたてられており、利用人数が多い時には部屋として使われる場所です。通常本陣には30~40人が宿泊しますが、畳廊下を利用すれば70人あまりを迎え入れることができたといいます。

上段の間は、座敷部の最も奥にある一番格式の高い部屋で、一行の主客が休泊する部屋。中央に「置畳」と呼ばれる二畳分の畳が置かれています。ほかの部屋と比べて豪華な設えになっており、床の間・違い棚・書院を備えているほか、格天井が設えられています。

尾篭な話で恐縮ですが😅 「上段雪隠」は床の間付きの畳敷きで、お軸が掛けられ香が焚かれていたそうで・・ついでに便器は木製漆塗りという・・贅沢極まりない作り😓

主客専用の「湯殿」は、屋外にある「湯沸かし屋形」で沸かしたものを湯船まで運び入れて使用。八畳の広さで床は板張り、排水用の溝が切られています。湯船の大きさに対して部屋が広いのは、外からの攻撃が届かないようにするためだったとも言われています。

客間の近くには、主客の目を楽しませるための庭園が造られており、季節ごとの美しさを楽しめるようにと手入れが施されています。

宿泊客のために用意される食事は、身分や位によって種類も多く、また人数もかなりのものであったと思われます。本陣の台所には多人数の調理ができるように、五連式のかまどなども備えられており、一番大きい釜とその横の釜の2つで、一度に30人分の食事を準備することができました。

また、台所から続く土蔵の裏庭には予備の竈があり、急な人数増加にも対応できるようになっています。

見所満載の草津宿本陣、しっかり堪能できました。

訪問日:2009年3月15日

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ご当地マンホール in 滋賀県草津市

2025年03月03日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

草津市(くさつし)は近畿地方北東部、滋賀県南西部に位置する市です。大津市、守山市、栗東市に隣接。江戸時代には東海道と中山道の両者にまたがる宿場町(草津宿)として発展してきました。また、近年はJR東海道線(琵琶湖線)・草津線、国道1号・名神高速道路・新名神高速道路・京滋バイパスなど日本を東西に結ぶ交通網を有しており、近世から現代にわたって交通の要衝となっています。「市の木:金木犀」「市の花:青花」を制定。

琵琶湖沿岸・下物(おろしも)町にある烏丸半島は、国内最大級のハス群生地として知られ、約13ヘクタール、30万以上もの薄桃色の花が湖面を染め上げ、その美しい風景は旅のガイドブックなどにも度々登場してきました。しかし、2016年にこの蓮の大群生が突如消滅。今に至るもあの美しい光景を見ることはできません。

キャッチフレーズは「出会いが織りなすふるさと “元気”と“うるおい”のあるまち 草津」

1889年、町村制の施行により、栗太(くりた)郡志津村、草津町、老上村(おいかみむら)、山田村、笠縫村(かさぬいむら)、常盤村が発足。

1954年、栗太郡志津村・草津町・老上村・山田村・笠縫村・常盤村が合併、市制を施行し草津市が発足。

1956年、栗太郡栗東町大字渋川を編入、現在に至ります。

マンホールには市章を中心に、高層建築が建ち並び、市が活力と魅力ある都市として 発展する姿がイメージされています。ちなみに私はこのデザインを「名産の草津メロン」だと思っていました😱

淡海環境プラザ展示マンホール「高層建築が建ち並び、市が活力と魅力ある都市として、 発展する姿をイメージしデザインしたものです。 中央の「市章」は、「く・さ・つ」を図案化したもので、 全体を横にすると、草津市が「日本の中央」に 位置することをあらわしています。」

歌川広重の「東海道五拾三次之内草津」を模写したデザイン。

「草津宿街道交流館」展示マンホール

「右:東海道 左:中仙道」と書かれた草津宿の追分道標。「草津宿と中山道・街道文化の香るまち」の文字が描かれています。

「草津宿の追分道標」

東海道、中山道、分岐点、慶長七年と書かれた道標の大型デザインマンホールです。

市の花「アオバナ」が描かれた仕切弁。

「「あおばな」は、学術名を「大帽子花(オオボウシバナ)」といい、つゆくさの変種です。主に京友禅の下絵を描く染料になる「青花紙」の原料に使用するため江戸時代から栽培されてきたこの「あおばな」は、全国的にも草津だけで育てられて来た花で、草津市の花です。」公式HPより

昭和29年10月15日制定の市章は「「く、さ、つ」を図案化したもので、線の太いものは市勢の力強さを示し、全体を横にすれば本市が日本の中央に位置するということを表しています。」公式HPより

中央に「草津市管工事協同組合章」がある小型マンホール

草津市公認マスコット『たび丸』。草津宿場400年祭のイメージキャラクターとして誕生しました。趣味は「旅をしながら草津市のことをたくさんの人に知ってもらうこと」だそうです。

滋賀セーフティカード:草津市『たび丸』

JA草津市のマスコットキャラクター『あおばなちゃん』『たび丸』。二人の間にある薄緑で丸い物体は、草津メロンがたっぷりのメロンパン『めろんなちゃん』。左下のお魚は、琵琶湖の名産『ほんもろこくん』

撮影日:2009年3月15日&2015年7月15日&2018年12月19日

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滋賀県草津市A&Bのマンホールカード

2025年03月02日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

2016年12月1日、第3弾として全国46自治体で46種類(累計109自治体120種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「草津市A」のマンホールカードは、「草津宿街道交流館」でいただけます。

2009年に設置開始されたマンホールには「東海道五拾三次之内草津」がデザインされています。

「稀代の浮世絵師・歌川広重の「東海道五拾三次之内草津」を模写したマンホール蓋です。 江戸時代後期の草津川の渡しの様子が江戸側(東側)から見た視点で描かれており、対岸には東海道と中山道の分岐点にあたる草津追分の常夜燈が 確認できます。草津宿は東海道五十三次の五十二番目の宿場町で、東海道と中山道が分岐・合流する交通の要衝として栄えました。 当時の大名や公家などが利用した宿泊施設は本陣と呼ばれ、現存する施設としては全国最大規模で市内に残されており、 有料で一般公開もされています。本マンホール蓋は東海道のわき道にありますので、探してみてください。」

座標軸マンホール

訪問日:2017年5月14日

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2018年12月14日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「草津市B」のマンホールカードは、「くさつ夢本陣」でいただけます。

2007年に設置開始されたマンホールには東海道と中山道の分岐に建てられた「追分道標」がデザインされています。

「東海道と中山道の分岐に建てられた追分道標(市指定文化財)を描いたマンホール蓋です。 「右東海道いせみち左中仙道美のぢ」と刻まれた道標は文化13年(1816年)に街道を往来する諸国定飛脚宰領中から寄進された火袋付の常夜燈です。 江戸時代の草津は、京と江戸を結ぶ2つの大きな街道、東海道と中仙道が分岐・合流する全国で唯一の宿場町でした。 2軒の本陣をはじめ、多くの旅籠や店が軒を連ね、大名行列や巡礼の旅人、飛脚や荷運びの馬など、多くの人とものが行き交う賑やかなまちだったのです。 周辺には、他にも当時の道しるべがいくつかありますので、ぜひ散策してみてください。」

座標軸マンホール

マンホール設置場所の地図

訪問日:2018年12月19日

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ご当地マンホール in 滋賀県旧志賀町(大津市)

2025年03月01日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・滋賀県

旧滋賀郡志賀町(しがちょう)は滋賀県の西部、湖西地域に位置した町です。大津市、高島市に隣接。町域の東側は琵琶湖に面し、西側には1,000mを越える比良山系が南北に連なります。その比良の山々を背景に、東方の琵琶湖中に張り出した弦月状の砂州「近江舞子」は約3kmにわたって白砂青松が続き、「涼風・雄松崎の白汀(はくてい)」として琵琶湖八景の一つに数えられます。「町の木:松」「町の花:シャクナゲ」「町の鳥:セグロセキレイ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、滋賀郡和邇村・木戸村・小松村が発足。

1955年、和邇村・木戸村・小松村が合併、滋賀郡志賀町が発足。

1956年、志賀町大字鵜川を高島郡高島町に編入。

2006年、大津市に編入。

マンホールには、比良山系を背景に、琵琶湖に浮かぶヨット、「町の花:シャクナゲ」がデザインされています。

淡海環境プラザ展示マンホール「湖と山に囲まれた志賀町の豊かな自然を題材にし、町の花「じゃくなげ」と、琵琶湖に遊ぶヨット、颯爽とそびえ立つ比良連峰を表現しています。」

琵琶湖をゆくヨット

「町の花:シャクナゲ」を中心に、琵琶湖の波が抽象的にデザインされています。

中心に「町の花:シャクナゲ」、周囲に「町の花:シャクナゲ」「琵琶湖の波」がデザインされています。

昭和37年3月制定の町章は「中央のSはShigaの頭文字S、全体は力を示し、円形は円満、▲は山(比良)、円内の空間は湖を表し、山紫水明、雄大にして大きく伸び行く志賀を象徴しています」公式HPより

撮影日:2008年7月5日

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大津市内~あちこちウォッチ in 滋賀県大津市

2025年02月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・滋賀県

大津市大谷町の国道1号線沿いにある「逢坂山関址」碑。その昔、逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。有名な百人一首の【これやこの行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(蝉丸)】。この「逢坂山関址」を超えると、滋賀県大津市に入ったと実感します。

大津市観音寺、琵琶湖疎水が県道558号と交わる地点に「琵琶湖第一疏水揚水機場」。昭和28年に、琵琶湖疏水の取水量の不足分を揚水する為、三保ケ崎の取水場横に設置されました。

疎水脇の柵には、市の木「山桜」をあしらった第一隧道入口がデザインされています。

 

旧国道161号線で見かけた朱塗りの山王鳥居と桟橋。ここは琵琶湖舟運の拠点として、比叡山及び京都への荷揚げの中心港でもあり、また日吉大社の御祭神「三輪明神」が、大和から唐崎を経て坂本に向ったという伝承の地でもあります。毎年4月14日に行われる「日吉山王祭:船渡御」では、七基の神輿がここから湖上にでるそうです。

長等神社の楼門前にある「大津絵の店」。初代『高橋松山』が衰退する大津絵を憂いて店を構えたのが始まり。明治初年に三井寺参道から始まった大津絵。私たちが訪ねた当時は、四代目と五代目のお二人が制作をしておられました。

平野神社近く、一般家庭の屋根で見かけた「鍾馗様」

同じく平野神社近くで見かけた飾り瓦の「恵比須・大黒」

平野神社近くのお寺の山門で見かけた飾り瓦の阿吽の海亀。ひょうきんな顔が何とも面白可愛い(笑)

屋根の上には逆立ちの鯉。瓦止が鯉の口を塞ぐように掛けられているのが妙にツボ😅

大津市瀬田~唐橋町の瀬田川に架かる「瀬田の唐橋」。全長223.7メートルのこの橋は、京都の宇治橋、山崎橋(今は無い)とならんで「日本三大橋(日本三名橋・日本三古橋)」の1つとされています。

俵藤太が瀬田唐橋に現れた大蛇に頼まれ、三上山に住む百足を成敗したという「俵藤太のムカデ退治」。大蛇は瀬田川に住む龍王の化身とされ、橋の東詰には、この秀郷と龍王をまつる橋守神社があります。

「鳥居川水位観測所」は、明治7年(1874)2月4日にオランダ人技師:エッセルの指導によって瀬田の唐橋の近くに開設。 これによって基準水位(水位ゼロ)が定められ、琵琶湖の水位観測がスタートしました。

明治33年(1900)の設置から2003年までデータを記録しつづけた「自記水位計」

訪問日:2008年7月5日~2010年6月12日

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