車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

本洗馬歴史の里資料館・釜井庵 in 長野県塩尻市洗馬

2022年09月13日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

本洗馬歴史の里で存在感を示す「釜井庵(かまいあん)」「戦国時代、妙義山城主としてこの地方を支配していた三村氏が、山麓に設けた居館跡に建つ庵で、建築年代は十八世紀の中頃と推定されています。江戸時代の文人・紀行家の菅江真澄が天明三年(1783)この地を訪れ、一年余を釜井庵を拠点として過ごしたことでも知られています。また、寺子屋として、丹波花逕・大脇正蔵・小林源吾等の手習い師匠がこの庵で村童を教え、この地方を指導した多くの人材を育てました。」公式ホームページより

寺子屋時代のこの場所には、きっと沢山の子供たちの賑やかな声で溢れていたのでしょう。目を閉じれば墨のにおい、そろばんの珠をはじく音・・・

市の史跡に指定された「釜井庵」の庭には「洗馬一族主従が信玄に謀殺された頃から夜更にすすり泣く」という「夜泣石」があります。

天文二十四年(1555)、塩尻峠の戦いによって功を上げた『三村駿河守長親』は、『武田信玄』に戦功を与えると云われ甲府の一蓮寺に出向きます。しかし信玄は、主を裏切る者はまた裏切るという理由を付けて兵をさし向け、寺を焼き、三村氏の一族郎党を皆殺しに・・・戦国の世の習いとは言え・・無念であったと思います。

夜泣き石の近くに「九月一三夜の碑」 天明三年(1783) 菅江真澄は本洗馬の文人と名月を眺めて歌を詠み合いました。【 待ちわびし 木々の紅葉の梢より もりてさやけき 長月のかげ 直堅】【 雲晴れて 後の月こそさし出れ しなとの風の 神のめぐみに 永通】【 しらぎくの しらぬくまさへあらはるゝ  世に長月の けふのこよひは 秀雄(真澄)】

「熊谷祐碩の狂歌」【 いざゝ良ば筆をの故して 古の石にものいは寿るも月下の事 末廣】熊谷祐碩は末廣、または夕夕と号し狂歌を詠みました。本洗馬で代々医者を営み、先代は菅江真澄を世話した可児永通であり、5代後が長野県初の文化勲章受章者である熊谷岱蔵博士です。

「丹羽花径先生の碑」江戸で山形藩に士官していた丹羽花径は長興寺洞月上人の元に身を寄せたのち、釜井庵寺子屋師匠を40年近く勤め、文政三年、この地で没しました。碑文は同じ文政期に2度に渡り洗馬郷小曽部に逗留した江戸の漢学者・兵学者、加藤環斎によるものです

「釜井庵」の庭には、県特別指定希少野生植物の「クマガイソウ」が慎ましやかな蕾を付けて私たちを出迎えてくれました。

ラン科アツモリソウ属に分類される「クマガイソウ」。こんなにひっそりと優しい姿ですが、花言葉は「みかけだおし」「気まぐれな美人」「闘志」

下の画像は資料館の表にあった写真をお借りしましたが、どうやら花が開いたときの状態が、大きな葉を開かせて周囲の植物を威嚇しているように見える・・という事らしいです(^^;) 

本洗馬歴史の里資料館には、菅江真澄や、医学者で当時蔓延していた結核の治療・予防に貢献した文化勲章受章者熊谷岱蔵博士、釜井庵・洗馬の歴史文化の資料、また「洗馬焼」をはじめとした塩尻の焼き物等が展示されています。

訪問日:2016年4月23日

 

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朝日村内あちこちウォッチ in 長野県朝日村

2022年09月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

「むかし、朝日村と山形村の村境にある横手ヶ崎には「お夏」という美しい女狐がいて、鉢盛山一帯を自由自在に駆け回っていた。お夏は、塩尻の桔梗ヶ原一帯を支配していた玄蕃之丞(げんばのじょう)狐と嫁入り行列に化け、婚礼が行われる名主(なぬし)の屋敷に先回りすると用意されていたご馳走をすっかり平らげてしまったそうだ。見事な化かしで村人たちを驚かせたお夏に親しみをこめ、横手ヶ崎にはお夏の碑が建てられている。」公式HPより

「横手ヶ崎お夏之遺蹟」 「狐火や お夏はかなむ 夢の跡」

訪問日:2010年10月17日

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朝日村針尾に鎮座される「熱田神社」。鳥居額は「熱田皇大神宮」。道祖神目当ての為、鳥居前よりの参拝です。

境内の一画に聳える村天然記念物「熱田神社のケヤキ 樹高:23.5m 幹の周囲:5.36m 枝下幹長:6.5m 枝張り:東西18.0m 南北:17.9m 昭和50年7月10日指定」境内案内より

「陸軍歩兵軍曹 勲七等功七級 清澤 左京之碑」

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朝日村古見にある「朝日村歴史民俗資料館」。外観は「熊久保(くまくぼ)遺跡:竪穴式住居」をイメージしたもので、古くから村民の生活と経済を支えてきた養蚕業、林業、農業に使用された道具や什器・衣類などが展示されています。

園内右手「縄文むら公園」内には復元された「竪穴式住居」がどっしりと、その存在感を示しています。

竪穴式住居と向かい合うように建立されていた、有明山開山の祖とされる『天明行者・像』。台座以外は松本市駅で拝見したものと同じですね。

一枚の絵のような風景・・・と、使い古された言葉を改めて感じさせる写真。私たちは実際にこんな風景を見て来たのだと、いま改めて思う。

訪問日:2016年4月23日

 

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光輪寺:薬師堂~Ⅱ~ in 長野県朝日村

2022年09月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

光輪寺の薬師堂~Ⅱ~では、美しい彫刻の数々を紹介します。と言っても写しているのが(超)ド素人の私たちなので、繊細な美しさが伝えられるのかというと、全く自信は有りません(^^;)

龍神に護られた寺号額「瑠璃殿」。本尊である『薬師如来』は東方の浄瑠璃世界の仏とされ、正式には『薬師瑠璃光如来』といいます。 衆生の病と苦しみを癒し、救うことができる仏とされています。 

寺号額の下にもありますが、薬師堂の欄間彫刻は五点。厚いケヤキ板を掘りぬいたもので、いずれも植物で統一されています。額の下は「烏瓜」、下はおそらく「牡丹」

葉の感じから「水仙」

これは「菊」・・かな?

最期のこれは、間違いなく「梅」。

目に玉が入っているようにも見える霊獣たち、まずは「獅子」

仲良くじゃれ合っています

竹林に潜む「虎」

天翔ける「麒麟」

中備えを支える「力神」ですが、ここでは「天邪鬼」として紹介されています。

木鼻彫刻は定番中の定番で阿吽の「獏」

同じく阿吽の「獅子」

持ち送りには羽衣をまとった「飛天」が、それぞれに花を散らし楽を奏しています。

最期は、寺社彫刻には欠かせない定番中の定番「波頭を翔る龍」

「夫婦杉」

光輪寺・参道の桜

参拝日:2016年4月23日



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光輪寺:薬師堂~Ⅰ~ in 長野県朝日村

2022年09月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

朝日村西洗馬にある高野山真言宗寺院「青壺山(せいこざん):光輪寺」『不動明王』を本尊とします。

伝承によると「起源は奈良時代に行基が開いた古薬師まで遡り、中興は木曽義仲とされる。古薬師は現在の光輪寺薬師堂裏手にある入村集落の上にあったといわれるが、明治期の寺社明細帳には当寺の由緒は不詳とある。鎌倉時代以降は、洗馬荘地頭の三村氏の祈願寺となった。」Wikipediaより

薬師堂前山門

山門内より境内全域を守護される仁王像、何気にお茶目な顔立ちですが守備範囲は広大です。

「この薬師堂の建物は桁行五間、梁間四間、向拝一間、茅葺入母屋造の大規模な堂で、前方二間通りを周囲を吹き放の外陣とし、その奥に三間、五間の内陣と左右の脇の間が有る。装飾はかなり多く、出組の組み物の支輪に波の彫刻をつけ、中備えは天邪鬼の彫刻とし、内外陣境の欄間は五面あり、梅、牡丹、菊等の植物彫刻を入れている。棟札によれば宝暦十年(1760)の建立で、大工棟梁は、木曽宮越住人中村伝衛門藤原季利である。」山門前案内より

山門横の碑は「中興開基七百五十年記念碑 旭将軍〇信之霊地」

薬師堂の北側にある十王堂の横には、中興・木曽義仲が植えたとされる桜が花の重さに耐えかねるがごとく枝をしならせ、参拝者を迎えてくれます。

朝日将軍  木曽義仲公手植えの桜 「治承四年、以仁王より平家追討の命を受けた義仲は平家追討の旗挙げをし鳥居峠を越え西洗馬に達した。この時弘法大師が草案に祀った古薬師を移し、新たに堂宇を建立して平家追討の祈願を凝らしたのがここ薬師堂であり、その際、桜の若木をこの場にお手植えされたと伝えられている。桜は明治三十四年(1901)に枯死し、その時に植え替えられた二代目の桜であり、隣に建立された歌碑は往時を偲んだものである。」現地案内より

【 佐くらはな  くちはてにける後の世も  その名は高く  匂ひぬるかな  】

どの位置から見ても美しく、胸に染みいるこの景色・・・立ち去る事が惜しくてたまらない・・いつの日か再びと願うも、もう一度この場所に立ちたいという願いが叶わないことを、今は悲しいくらいわかっている。

光輪寺薬師堂におわす石仏群は、西国・坂東・秩父の百体観音や、四国八十八カ所、七観音、十三仏、弘法大師像など200体を超え、どの像も大半は元禄時代の作と云われています。私たちが目にしたのは、手軽に歩ける場所に置かれたほんの数基の石仏のみ。

明日は薬師堂内の彫刻の数々を紹介します。

参拝日:2016年4月23日

 

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朝日村の道祖神:石仏~Ⅲ~ in 長野県朝日村

2022年09月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

朝日村西洗馬中組天王に「祝言跪坐像」と呼ばれる「酒器祝言双体道祖神」「中組の握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」各一基。「青面金剛」一基。他「文字碑」数基。二つの道祖神は元 旧用札場脇にあったものを昭和47年に移転。

「祝言跪坐像」「明治二十二年(1889)四月十三日 建之中組講中」の刻

恥ずかしそうにうつむいたまま、遠慮がちに差し出す女神の手を優しく握り返す男神。その表情はこの上なく優しく愛おしげ。画像ソフトでほんの少し時間を巻き戻してみました。

「中組の握手像」残念ながらどのような表所であったのか窺うよしもありません。苔むした石の白さが僅かに男女神の姿を想像させるだけです。

「青面金剛像と三猿」。線刻に色を入れてあるのか、思わずハッと振り向かせる不思議な力強さを感じます。

朝日村西洗馬中組の三叉路に「念仏碑」「青面金剛仏と三猿」「馬頭観音」「二十三夜塔」各一基。

「青面金剛仏」「夜明けを告げる鶏」

鶏の横に「言わざる・聞かざる・見ざる」の三猿

朝日村西洗馬中組に「中組の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」。男女神とも目鼻の彫が深い所為で非常に分かりやすい表情。そしてお二人とも笑っておられます(⌒∇⌒)

「仏塔」二基。「念仏碑」「不動尊」「庚申」「二拾三夜」他:石碑三基

「文政十三寅午:大日村」「念佛講中:大日村」

「大門先の庚申碑(中村中)万延元年(1860)八月」

「南無阿弥陀仏碑(中村組中) 徳本(江戸時代の念佛行者)文化十四年(1818)」

朝日村西洗馬荒井中に「三ヶ組荒井の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」一基。不動明王像」一基。

「帯代五両 弘化二巳(1845)三月日 荒井中」の刻。帯代が刻字されているのは、朝日村ではこの道祖神のみです。

目鼻立ちのしっかりした男女神。男神は女神の手をがっちりと握り、女神は男神の肩をしっかりと抱く。若い二人には怖いものなど何もない。羨ましい程に強い絆が二人を結びつけています。

ちょっと頼りないお顔の不動明王像。「明治二十三年(1890)荒井組中」の刻。

撮影日:2016年4月23日

 

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朝日村の道祖神:石仏~Ⅱ~ in 長野県朝日村

2022年09月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

朝日村針尾北村に「北村横道の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」 「弘化二巳(1845)九月日 幸神原村中」の刻。

固く口を閉ざして前を見つめる男女神。女神の手の親指をしっかり握る男神。二人の行く手に有るものはどんな未来でしょうか?

先の道祖神の近くに「文字碑」一基。「仏塔」三基

朝日村針尾中村の防火水槽横に「双体道祖神」三基。

「中村の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」。「天保四巳(1833)三月 針尾中村 」の刻。

「中村の合掌像」と呼ばれる「合掌双体道祖神」

「中村の祝言座像」と呼ばれる「酒器祝言跪坐双体道祖神」。「嘉永二酉(1849)六月 清沢儀右ヱ門 」の刻。

酒器を手に立ち上がろうとする女神に手を差し出す男神。が・・・何の偶然か男神の頬にまるで平手打ちのような跡が・・・(笑)時の流れが見せる悪戯です(^^;)

熱田神社前に「双体道祖神」二基。「二十三夜塔」「庚申塔」「文字碑」等数基。

「熱田神社前の抱肩握手像」と呼ばれる「握手双体道祖神」。「天保十四癸卯年(1843)三月吉日 針尾村中 」の刻。女神は右手に何かを持ち、男神は左手に盃のようなものを持っており、私には「酒器祝言」に感じられたのですが・・二人の頭上には飾り組紐で巻き上げた幔幕も見えます。

「熱田神社前の未完成像」と呼ばれる「酒器祝言跪坐双体道祖神」

これほど摩耗が進み、なおかつ未完成となると、もはや想像だけの世界になります。言われてみればそうなのかな・・と。でも仲良く並ぶ二人の輪郭は、やはり優しさに満ちて見えるのは、ひとえに道祖神への愛ゆえ (〃∇〃)

「文字碑」

近くの道路わきに建立されていた「念仏碑」「仏塔」等四基。

「念仏碑」「青面金剛仏」

朝日村の道祖神~Ⅲ~に続きます。

撮影日:2016年4月23日

 

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朝日村の道祖神:石仏~Ⅰ~ in 長野県朝日村

2022年09月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

「昔から道祖神は、村を守ってくれる神様、そして村人、一人一人の願いを聞いてくれる神様、特に子供を大事にしてくれる神様、そして作神様として建てられたようである。呼び名は、昔は「どうろくじん」と言われることが一般的であった。三ヶ組の小和田には道録神と刻まれた宝暦13年(1763)建立の碑がある。他にも道陸神、道六神などと刻まれたものもあるようである。子供はまた「どうそんじん」とも言った。また「さえの神」「さい(塞)の神」ともいい、村へ悪霊や疫病を入れないようにしてくれる神様とされた。」朝日村の道祖神より

朝日村芦之久保の神明山麓に「芦之久保の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」一基、「仏塔」「文字碑」等六基。

「正徳五乙未年十月卯日建之  寛政七卯年八月六日夜  小坂村山口御縁想同歳十一 月十三日再建立  天保十三壬寅年二月七日夜 本洗馬村上村御縁想  天保十四癸卯年(1843)四月十五日 古見村蘆野窪講中 (右裏)」の刻。

現代的な顔立ちの男女神。男神はしっかりと女神の手を握り肩を抱き寄せていますが、女神は照れ臭いのか少し取り澄ました顔で前を見ています。

「庚申仏塔」

朝日村上吉見の古川寺道入口に「上古見の抱肩握手像」と呼ばれる「彩色:握手肩抱き双体道祖神」二基。彩色道祖神はあまりにも個性が強すぎて、それが逆に没個性になってしまう気がして少々残念に感じます(^^;)

「性祖造立天正寛文歴再建□□ 累年晒 落風雨不鮮預故 正徳五末年再建殊 不在 震氷解雖然發主欲望貰之 而縁 賀祥況以清粧? [石に盤] 再興 弘化三丙午年(1846)八月 上古見村南庄 」の刻。

「性祖造立天正寛文再建□□ 累年晒落 風雨不鮮預故 正徳五末年再建殊不有 震冰解因茲再興之 弘化三丙午 八月 上古見村澤庄正徳建之花見新 田好貫之 好貰矣高石工片四」の刻。

朝日村入三御道開渡入り口に「御道開渡の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」一基。他「庚申塔」「文字碑」「仏塔」等数基。

「寛政十二庚申(1800)八月吉日 村中 」の刻。摩耗が進み、その姿は定かではありませんが、肩にまわされた手、繋ぎ合う手に愛しさが感じられます。

朝日村針尾大石原に「大石原の祝言跪座像」と呼ばれる「祝言跪坐双体道祖神」一基。「大石原の抱肩握手像」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」一基。

「天保四巳(1833)三月 針尾中村」の刻。

摩耗が進んでいますが、酒器を持ってひざまずく女神の仕草は美しく、晴れがましく微笑む男神の表情は端正で、まさにお似合いの二人。

「嘉永二酉(1849)六月 清沢儀右ヱ門 」の刻。

ふくよかな顔立ちの男女神。しっかり手を握る男神の手に自分の手を委ねる女神の表情が、何とも素朴で微笑ましく愛らしい。

祠の内に祀られるお地蔵様には暖かそうなセーターと帽子が着せられて、かなりふくよかになっていますね(⌒∇⌒)。

朝日村の道祖神~Ⅱ~に続きます。

撮影日:2016年4月23日

 

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山形村内あちこちウォッチ in 長野県山形村

2022年09月04日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

マンホール撮影の通りがかりに見つけた「山形村指定天然記念物・地蔵様のアカマツ」。幹囲約2.1m、樹高約5.5m、樹齢推定約400年。落雷により左半分の枝を失ったと言われていますが、涼やかな木陰を作り出しています。

右横の大きな文字碑は『白衣観音』で弘化四年(1847)の建立。他に写しておいたのは、そのお姿から『如意輪観音』と思われる仏塔のみ。

訪問日:2010年10月17日

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山形村下竹田中通に鎮座される「建部神社」。御祭神は『素戔嗚神・大己貴神』。

由緒の類が無く詳細は不明。おそらく滋賀県近江「建部大社」よりの勧請と思われます。

拝殿彫刻、上部には阿吽の麒麟、下には波頭を行く龍。

照明用のカバーにも凝った彫刻が施されています。

屋根の上から参拝者を見下ろす飾り瓦の獅子一対。

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「山形村ミラ・フード館」。ミラとは、くじら座の中にある2等星から10等星まで変わる変光星のこと。明るさが変わることから、“不思議な”という意味を持ち、フードは「food(食)」と「風土」の合成語で、地域文化を表しています。天体観測室「コスモ」、多目的ホール「ホール・ミラ」やギャラリーなどの施設が整っています。 

山形村立山形小学校正門。あまりにも景色が綺麗だったので正門前から一枚(〃∇〃)。

小学校の道路向かいにあった素敵な建物は「ふるさと伝承館」

「忠魂碑」

多分・・伝承館の敷地にあったと思う「開村百年記念」碑。明治7年10月22日、大池村・小坂村。竹田村が合併し山形村が誕生。この石碑はそれを記念して昭和48年に建立されたもので「合併御布達書」を写したレリーフが嵌めこまれています。

山形村下大池、下大池公民館前にあった個人様のお屋敷。あまりにも立派だったもので遠目から一枚・・・ m(_ _"m

山形村小坂、堂村上辻の「まぼろしの双像」近くにあったお蔵。

偶然にも美しい鏝絵を拝見できて幸せ。

はるかに連なる山並み・・・日常から現実離れした景色にしばし時を忘れて見入る。

訪問日:2016年4月22日

 

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山形村内の道祖神:石仏~Ⅳ~ in 長野県山形村

2022年09月03日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

山形村上大池・青木沢北に「袖中祝言」と呼ばれる「酒器祝言双体道祖神」他一基。

「嘉永四亥(1851)三月吉日 青木沢中 」の刻

「衣冠束帯の男神は、なみなみと注いでもたった盃を左手にもって立ち、十二単衣の女神は右手に提子を持ち跪いている祝言像です。容貌・着付け等から見て村の長老の印象を受けます。顔には余裕のある笑みを浮かべており、二人は媒酌人でしょうか。この双神に村のまとめ役を祈願したのでしょうか。白くて薄い髪の長老の右腕は女神の左の袖の中に入れ、女神の左腕は男神の袖の中にと、お互いに奥深く差し入れて情熱的な様が面白い道祖神です。」山形村道祖神巡り

隣りの碑には、某漫画に登場した「クリリン」にとってもよく似たお坊様が刻まれています。どなたでしょう??

山形村小坂・山口の辻、桜の下に「山口の丸髷」と呼ばれる、松本平で2番目に古い「双体道祖神」一基「御嶽山大権現」「馬頭尊」各一基。

「正徳五乙未年(1715)十月卯日 古見村芦野窪講中拾四人」の刻。「この地には道祖神が無く、どこかから盗もうと話し合い、隣の朝日村古見の芦之窪の住人に頼み込み、寛政七年に盗むと言う名目で嫁入りすることになり、屈強な男2~3人で道祖神を背負い乗越(古見から上大池豆沢に通じる古道)を越えてお運びしました。この時の状況を記した古文章が朝日村に残っており、また、この説を裏付けるものとして朝日村古見芦の窪のバス停の際にある道祖神の裏面に記載されています。現存する記念銘の正徳五年は山形村では最古の道祖神です。」山形村道祖神巡り

山口村上大池・豆沢に「筒井筒上大池」「豆沢のじじばば」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」各一基。「文字碑道祖神」、「甲子様」各一基。

「筒井筒上大池」には「寛政七乙卯稔 (1795)」の刻。互いに肩に手をかけ、女神が男神の手を握って体を添い寄せています。女神は恥ずかしさと嬉しさに思わず顔をそらし、そんな女神を愛おしむ様に男神は優しくその姿を見守っています。

「豆沢のじじばば」には「嘉永四亥(1851)二月日 上豆沢中」の刻。「多くの道祖神は女神が男神の手を握っているのに、この双神は男神が女神の親指を握っていることです。また男神の体が女神の方に傾き、女神は押された様に後ろに体を傾け、男神がやや積極的な道祖神です。女神は他の道祖神には見られない変わった模様の角かくし風の冠り物を頭に載せていることです。」山形村道祖神巡り

山形村上、大池コミュニティセンター三叉路脇の鳥居の奥に、木曽御嶽山の信仰に由来する「神像」「文字碑」「線刻像」「仏塔」等が建立されています。

公民館周辺の石仏群」明治時代の初めまでこの地には「桜堂」というお堂が有ったそうで、「名号碑」「庚申塔」などの石仏が多く残されています。

寶庫横の「名号碑」と、明治維新後にお堂を利用して開港された「大池学校跡碑」

山形村の道祖神、ラストは上大池・中耕地東の辻に「大池の頭領」と呼ばれる「握手肩抱き双体道祖神」「蚕玉守護神」「蚕大神」各一基。

「嘉永五子(1852)二月八日 大池上郷」の刻。

「当村南部最大の巨石半肉彫りした抱肩握手の道祖神です。重さは推定で1.5トンはあろうかと思われます。男神が狩衣、女神が小袿で、共に括り袴をきりりと着け、足袋を履いている姿は農民の頭領らしい着付けです。種々の困難を逞しく生き抜いた老夫婦を感じさせる道祖神です。ふくらみをもった曲線、整然とした曲線に加えて端正な直線と細部にわたって美しく彫られています。」山形村道祖神巡り

「蚕玉守護神」と「御柱」

撮影日:2016年4月22日

 

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山形村内の道祖神:石仏~Ⅲ~ in 長野県山形村

2022年09月02日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・長野県

山形村小坂・中原町(六部塚)に「小人のささやき」と名付けられた「双体道祖神」「供養塔」「筆塚」各一基。

向かって左側が男神であることから仏教系と思われる「抱擁双体道祖神」。男神は女神の肩を引き寄せ、女神は法衣の裾を広げて男神を迎え入れる・・睦まじい二人の時間がゆっくりとながれています。

「画家:市川月静の筆塚」

山形村中大池・上手東辻に「筒井筒中大池」と名付けられた「握手抱擁双体道祖神」「子宝地蔵」各一基。

「寛政七乙卯(1795)十一月吉日  中耕地組 」の刻。寄り添う二人の間には、何物も入り込む事のできない濃い時間が流れているようです。

近くには、正月行事や祭りの際、紙飾りや巾着で飾った竹組みの「おんべ」を取り付けて道祖神の脇に建てる「御柱」もあります。

山形村中大池・下村(中大池公民館)に「十二単衣」と名付けられた「握手抱擁双体道祖神」「二三夜塔」「庚申塔」各一基。

「男神は冠のひもをきちんと顎の下で結び、女神は十二単衣をきちんと重ねて着て、垂髪を自分の右後へ束ねて綺麗に垂らしています。手は浅く肩を抱きあっています。女神が男神の親指を握り、男神は親指以外の4本の指を握っています。いくぶんすまし顔ですが仲睦まじさが滲み出ています。双神の袖口の衣服の重ね着はとても美しく、特に衣装が整然として端正です。」山形村道祖神巡り

山形村小坂・堂村上辻に「まぼろしの双像」と名付けられた「双体道祖神」・「庚申塔」・「庚申仏塔」各一基。

「石質が軟らかい為と彫りが浅いこともあり風化が進み、双像の輪郭がすっかりぼやけてしまい、男女の区別がつかないのが残念です。いかにもまぼろしの双像です。向きあった双神は手を繋ぎ、向かって右側の神は体全体が逞しく感ぜられ、左側の神はしなやかな腰をしており、その姿は美しく、肩から腰、裾に至る線は優雅で浮世絵を思わせる様です。当時の庶民の生活を想い浮かべさせ、暖かい感じが伝わってきます。双像の立っている台の下に深く彫られた窪みがありますが、この神様が好きなあんころ餅を窪みに押し込んで供えたと言われています。山形村道祖神巡り

「庚申仏塔」

山形村小坂・日向に「素足の道祖神」と名付けられた「握手双体道祖神」「秋葉様の小祠」「念仏供養塔」「観音像」「庚申塔」等4基。

「寛政七乙年(1795)十二月八日  日向村中」の刻。長い年月によって男女神の姿は朧になっていますが、山形村道祖神巡りによれば「衣装は共に公家風ですが、頬をすり寄せ肩を組み、手に手を取り合って裸足で走ってきたような感じです。若さいっぱいで逞しく、他の道祖神にくらべ唯一自由闊達さが表現されています。裸足の指の先まで刻まれているところなどとてもユニークです。」

「観音像」

山形村小坂・大日堂辻に「つつましき女神」と名付けられた「握手肩抱き双体道祖神」一基。他「名号碑」「念仏供養塔」「庚申塔」等11基。

「嘉永五子(1852) 大日 」の刻。 村内道祖神の中で唯一、男神が女神の5本の指を握っており、男神が女神より積極的である事から「つつましき女神」と名づけられたそうです。

「山形小学校[松本市コミュニティ]」バス停横、山形小学校体育館前にあった「山形村の道祖神」。上面が道祖神のマップになっています。

地元の方でなければ理解できない地図です(^^;)

山形村の道祖神~Ⅳ~に続きます

撮影日:2016年4月22日

 

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