車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

柳田國男ゆかりの町を歩く~Ⅱ~ in 兵庫県福崎町

2023年12月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

民俗学 柳田國男もちむぎ麺のまち 福崎町」

「もちむぎ麺」とはあまり聞きなれない言葉ですが、曰く「うどんにあらず、そばにあらず、独特の食感と風味はまさに麺の中の逸品。」ざる麺から季節の和膳まで、いろいろお楽しみいただけるのがここ「もちむぎの館」。柳田國男とはあまり(全然)関係ありませんが、福崎町の代表を二分する食材です。

福崎町西田原に残る「三木家住宅」。三木家は姫路藩英賀城主の後裔で、明暦元年(1655)に姫路藩主の榊原家に新田開発を命じられ、辻川の地に移ったと伝えられる名家。以来明治4年(1871)の廃藩置県まで、代々姫路藩の大庄屋として地域に貢献してきました。 柳田國男が10歳から12歳頃まで三木家で生活し、著書『故郷七十年』に「三木家の四千冊余の蔵書を乱読したことが民俗学の基礎となった」と書き記しています。

建物九棟・表座敷が兵庫県指定重要有形文化財に指定されています。が・・・老朽化による全面修理が2010年11月から行われているそうで、修理から4年を経てもまだこの状態でした。

東隣に屋敷を構えるもと庄屋の三木家が、大正11年(1922)に辻川郵便局長就任。それを機に建設を始め、大正12年に竣工した「旧辻川郵便局」。

外壁は下見板張。上下階とも上げ下げ窓を配し、軒先に瓔珞(ようらく)をまわし、1階玄関ポーチの庇に「〒」をモチーフとした意匠で天井を飾るなど、洋風の郵便局舎の好例であるとして、2008年に国の登録有形文化財に指定。

「旧辻川郵便局 現地案内」

向かって右に掲載された写真部分の実写。

三木家住宅がある通りの歩道にあった観光プレートは「辻川界隈 銀の馬車道」。兵庫県中央部の播但地域に姫路・飾磨港から生野鉱山へと南北一直線に貫く道があります。“銀の馬車道”と呼ばれる歴史の道・・いつかはこの道をたどって生野銀山まで・・

柳田國男生家近くにある「福崎町立神崎郡歴史民俗資料館」。明治19年(1886)に神東・神西郡役所として、神東郡西田原村辻川(現 西田原の辻川区)に建設され、明治29年に神崎郡役所と改称。大正15年に廃止されるまで郡役所として使用されてきました。

昭和57年(1982)に現在地に移築・復元し、同年10月に資料館として開館。西洋の新古典主義建築の様式を取り入れた建物は本当に美しく、ただ見ているだけで幸せな気分になれます。

受付の窓口上に飾られていた「柳田國男」氏のサイン入り写真・・塑像やイラスト、銅像とは全く別の人物がそこにいました。

資料館の展示で印象に残ったのが、「八葉寺旧本堂の蟇股」。それがいかにも私らしいと御亭主殿😅。流水に水仙の透かし彫り彫刻で、寛文五年頃に建てられた本堂にあったらしいですが、詳細は不明😓 

資料館の前に展示されていた「伝山崎群集墳内出土:組合せ式家形石棺」

訪問日:2014年12月6日

 

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柳田國男ゆかりの町を歩く~Ⅰ~ in 兵庫県福崎町

2023年12月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明治8年(1875)、田原村辻川(現福崎町西田原)の松岡家の6男として生まれた『柳田國男』。上京し東京帝国大学卒業後、農商務省などに勤めるかたわら各地を旅して、地方に残る習俗や伝承に注目し、【後狩詞記(のちのかりことばのき)】【遠野物語】などの民俗学への道となる書を著しました。

氏の故郷である福崎町には、國男氏自ら「私の家は日本一小さい家だ」と述べたという「県指定文化財:柳田國男生家」が残されています。

間口5間、奥行き4間、土間、3畳間と4畳半の座敷、4畳半の納戸、3畳の台所・・当時ここには両親と長兄鼎(かなえ)夫婦、國男、弟の静雄と輝夫(映丘)の7人が住んでいました。国男少年は、10歳くらいまでこの家で暮らしていたと言います。後に國男の母の実家がある加西市北条町へ移り、次に千葉県布佐へ移住することになります。

もとは辻川の街道沿いにあった生家は、昭和49年(1974)に国男少年にゆかりの「鈴の森神社」のそばに移築され一般公開されています。家だけを考えれば、日本一小さくは無いのですが、ここに7人の人間が暮らすとなると・・・日常のこまごま、あれこれを考えれば考えるほど、それは想像の域を超えます😔 

この肖像画は「鈴の森神社」に奉納された絵馬。上段中央左から「松岡鼎先生」「柳田国男先生」「松岡静雄先生」下段左から「松岡映丘先生」「井上通泰先生」。いずれも写真から描き起こされたもののようです。

柳田國男が子どもの頃によく遊んだと云う「鈴の森神社」。御祭神は『彦瓊々杵命(ヒコホノニニギノミコト)』配祀神『天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・太玉命(フトタマノミコト)』

「創建年代は不詳。社名に含まれる「すず」とは聖地の意味であるとされており、播磨鑑には大己貴命が峯相山より宍粟郡へ遷座したときに播磨の神々がここに集まったという記述がある。また、元々は現在の社地より北西にある古宮跡に神社があったという伝承がある。」現地案内より

松岡家ゆかりの神社として知られており、その関連から学業成就・合格祈願のご利益があるとされ、また、安産の神様としても信仰されているそうです。

開放的な拝殿の奥。本殿に続く神域の左右より守護される随身様。これほど全身がくまなく拝見できる配置は、かなり珍しいですね。

拝殿前より神域を守護されるのは耳垂れ浪花タイプの狛犬さん一対。国男少年はこの狛犬さんの背中に乗って遊んだそうですが・・・それはもうずっと昔の話なので、現代に生きる良い子は真似をしちゃいけません😅

【 うぶすなの 森のやまもも 高麗犬は 懐かしきかな もの言わねども 】

「町指定天然記念物:拝殿前のヤマモモの木」樹高約13m、幹回約3.3m。「国男は子供の頃、ヤマモモの木に登って実を食べようとしましたが、他の子どもたちが先にとってしまって一度も見た事が無かったと著書「孤猿随筆」に書き記しています。」現地案内より

「常盤 御前 都落の図」天保の作(約百五十年以前)で柳田国男が絵馬入りのハガキを使用し、使用ハガキは記念館に展示されている」現地案内より

神社の石段前より神域を守護されるのは仔取り・玉取りの狛犬さん一対。拝殿前の狛犬さんと比べると、もう少し後の奉納に思われます。

生家の側に建立された銅像と文学碑。

【 をさな名を 人に呼ばるる ふるさとは 昔にかへる ここちこそすれ 】

明治42年7月・國夫33歳の時。出石よりの帰り、辻川へ帰省した折 、幼馴染の友人たちに「くにおはん」と呼ばれて、その響きに少年時代を懐かしみ、故郷に残した一句だといわれています。

生家の東隣にある「柳田國男・松岡家顕彰会記念館」。日本民俗学の父とも呼ばれる民俗学者で福崎町名誉町民第1号の『柳田國男』をはじめとする、文学・民俗学・医学・美術などの世界で活躍した松岡家五兄弟の顕彰を目的として、昭和50年(1975)11月に設立されました。

館内には著作物、編集物(雑誌・刊行物)、原稿、書簡、葉書、机、卒業証書、御大典に着用した衣冠束帯などが収蔵されています。

柳田國男ゆかりの福崎町歩き、もう少し続きます。

訪問日:2014年12月6日

 

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旧二見村役場&旧明石郡公会堂 in 兵庫県明石市

2023年12月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

明石市二見町東二見にある白いモダンな建物は昭和13年に建てられた「旧二見村役場」。現在は「明石市二見市民センター」として利用されています。

主産業が漁業の町であった二見村にこの洋館ができた時、村の人たちはどんな思いでこの建物を眺めたのでしょう。特に大きなガラス面を持つ半円形の階段室は、今の時代に置いても斬新です。

建物の随所に見られる丸枠に半円の開き窓は、まるで二見を象徴するかのようにも見えて、実のところは旧明石市の市章に似ている所為だと気が付きました。

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続いて訪ねたのは、明石市相生町にある「明石市立中崎公会堂」。明治44年(1911)4月に、当時の明石郡の1町・11村が共同で「明石郡公会堂」として建設したもので、建設費は地元の寄付などで賄われました。市内最古の公共施設で、2000年に明石市の都市景観形成重要建築物に、2012年に国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けました。

設計を行ったのは、東大寺大仏殿の修繕にも携わった経験のある『加護谷祐太郎』。当時は西洋風の建築様式が流行しており、それらは今も各地に残されていますが、ここではあえて奈良時代や鎌倉時代の建築スタイルが採用されました。

下屋を回した入母屋造や唐破風の車寄せなど、仏教寺院を思わせる外観に、エンタシス風の加工が施された角柱や、鎌倉風の虹梁・蟇股、大仏殿風の繰形など、細部の意匠にも伝統的な和風様式が採り入れられています。

こうした設計については、廃城令で失われた城に代わるシンボルを求める地域住民の意向や、西洋文化ばかりが有難がられる時勢に逆らって日本古来の文化を貴ぼうという意識があったのだろうと推測されています。

落成記念では『夏目漱石』の講演が行われましたが、彼はこの建物について「成程あれ程の建物を造れば其中で講演をする人を何処からか呼ばなければ所謂宝の持腐れになる許でありませう」と評したといいます。

その後も『菊池寛』『佐藤春夫』の講演が開催されるなど、明石郡の人たちの自尊心を大いに満足させる結果となったようです。

この中崎公会堂の西に、『東郷平八郎』の筆による「日露戦争忠君碑」が建立されています。青々と茂った松に隠れてしまって、その美しい書体をきちんと見られなかったのが残念。

訪問日:2010年5月8日

 

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明石(あかし)城 in 兵庫県明石市

2023年12月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

国の史跡:明石城跡を整備した「兵庫県立明石公園」。かってこの地には旧明石藩の政庁と藩主の居所であった「明石(あかし)城」、別名「錦江(きんこう)城」と呼ばれる美しい城がありました。

元和3年(1617)信濃松本藩主より明石藩主となった『小笠原忠真』は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城。その年、譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう2代将軍『徳川秀忠』より築城を命ぜられます。

築城と並行して城下町の町割りも実施されますが、これを指導したのは当時小笠原忠真の客分だった『宮本武蔵』であった事が、『播磨鑑』や『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』などの各史書に記録されています。

築城は人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上(ふなげ)城の木材を使用して着工。本丸の南東端に築かれた「巽(たつみ)櫓」には「船上城の遺材が使用されました。

復元された城壁によって「坤櫓」と繋がる「巽櫓」。その先には、日本標準時子午線上に建つ「明石の天文台」がはっきりと見えます。

伏見城の遺材が使用されたと伝えられる「坤(ひつじさる)櫓」。天守閣を持たない城においては、本丸の南西端に築かれた「坤櫓」がその代用を果たしたといいます。昭和32年(1957)6月18日、巽櫓・坤櫓は共に、国の重要文化財に指定されました。

二つの櫓はそれぞれ偶数月、奇数月の土日祝限定で櫓の一階部分のみが一般公開されます。私たちが訪問したのは9月:敬老の日。滅多に出くわさない幸運は逃してはいけません(笑)

天井の梁・・圧倒される緻密さと頑丈さ!

大小の鯱は櫓に設置されているものと同じだそうです。

展示コーナーでは他にも当時の古い瓦が沢山展示されており、瓦大好きなご亭主殿は一心不乱に瓦と睨めっこ。丸瓦の家紋が一つでないところに特に興味を惹かれたようです。

そう言えば明石城の城主は、寛永9年(1632)小笠原家が転封になってから越前家の松平直明が入城した天和2年(1682)までの50年の間に4人も城主が入れ替わっているのです。

城と言えば石垣、実は私、こう見えてお城の石垣を見るのがとっても好きなのです。なぜと聞かれても困るのですが、とにかく好きです(笑)

石垣の刻印も、その時々の時代背景がわかると、実に興味深い話が飛び出してきます。こうした刻印石は他にも幾つか見つけられました。

この日は三連休とあって何かの催しが盛大に行われていました。地元の名産品の屋台や出店もたくさん並び、本来なら滅多にない幸運に喜びたいのですが・・

あそこもここも、もっとゆっくりと見て回りたいけれど、私たちはタンデムで自宅まで帰らなければなりません。遠近乱(笑)の御亭主殿にとって、日暮れ時のバイクの運転はとても負担なのです。と言いつつ、碑らしきものが目に入るとふらふら~~と(^^;)

これは「県農発祥の地」碑。県農とは「兵庫県簡易農学校」の略で1897年4月1日、明石城址御料地(現在の明石公園)内に於いて、農学校が創立された記念の碑です。

帰る間際に見つけてしまった明石空襲之碑」

「昭和20年1月19日. 明石への最初の空襲は兵庫県下への最初の本格的空襲でもあり、川崎航空機明石工場が標的とされた。 B29爆撃機63機が川崎航空機明石工場に610発154トンの爆弾を投下、この空襲で263人が犠牲となり、その後も6月9日、6月26日と続き、7月7日には1,045トンの500ポンド油脂焼夷弾が投下。それによって市街地は火の海となり焦土と化した。死者・不明者の総数は1,560人、負傷者1,560人、家屋の全焼11,108棟、半壊2,614棟 

日本が先の大戦で敗者となった時、多くの方々が「人道に対する罪」を犯したとして、いわゆるA級戦犯と区分されて絞首刑にされました。勝者が敗者を裁く、それは見せしめ以外の何物でありません。二度と過ちを繰り返さないと言う自称知識人たちに問いたい!。「人道に対する罪」とは、二度の原爆に代表される、こうした一般市民を巻き込む無差別殺戮の事を言うのではないのですか? A級という言葉の本来の意味も知らず、アルファベットの一番最初のAだから、一番重い罪を犯した人と定義する自称知識人たちに本気で聞きたい!

訪問日:2009年9月22日

 

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山崎の町歩き in 兵庫県宍粟市山崎町

2023年11月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

古来から山崎藩の城下町(のち陣屋町)、因幡街道を介した山陽と山陰の結節点、揖保川水運の中心として栄えてきた山崎町。町を歩けばそこかしこに、往時の繁栄を伺わせるモノに出会えます。

佇まいの美しさに惹かれて訊ねたのは、創業天保八年創業の「山陽盃酒造」。養父市大屋町の明延鉱山坑道内に、関西で唯一の鉱山貯蔵庫「明壽蔵(めいじゅぐら)」を持つ酒蔵だそうで、日本酒大好きのご亭主殿は興味津々。

代表の銘柄は太鼓暖簾にも染め抜かれた「播州一献」。超辛口のお酒という事で、ご亭主殿はもう買う気満々。「荷物になるから帰りにね」と言い聞かせて(笑)、やっとその場を離れる事が出来ました。

兵庫県指定文化財(天然記念物)「大歳(ださい)神社」の「千年藤」のタイルプレート。花の季節は圧巻だそうです。

山崎藩の城下町として栄えた市街ですが、往時の面影を伝えるものはごく僅かしか残されていません。いかにもな趣のこの場所も、復元された虎口石垣。

こちらの建物は宍粟市指定有形文化財の「山崎藩陣屋門」。別名「紙屋門」とも呼ばれ、東二の丸から本丸に通じる正面玄関前に位置する唯一の現存遺構。

門を入って真っ直ぐ、本多公園内に建立されていた「史跡 鹿澤城本丸跡」の碑。

碑の後方に見える建物は「山崎歴史民俗資料館」

建物は、明治22年(1889)に建てられた龍野治安裁判所山崎出張所で、その後一時期法務局の庁舎として利用されていたものを移築復元。

「山崎歴史郷土館」には、山崎町内から発掘された土器や石器などの考古資料や、江戸時代の山崎藩に関連した資料などが展示されています。

展示内容は多岐にわたっており、非常に珍しい者や興味深いものも多く、こちらに関しては予定外だったのですが、かなりの時間を費やしました。

大好きな(笑)留め蓋瓦の獅子もいます。

こちらの御仁は江戸前期の儒学者・神道家・思想家『 山崎闇斎先生』「崎門学(きもんがく)」の創始者として、また、神道の一派である「垂加神道(すいかしんとう)」の創始者として知られる人物です。

宍粟市山崎町西鹿沢に鎮座される「闇斎(あんさい )神社」。御祭神は『 山崎闇斎』

昭和15年に京都下御霊神社の「垂加霊社」から分霊。

そう、先ほど歴史郷土館で遭遇した「山崎闇斎先生」を奉る神社なのです。ここ山崎の地は、彼の祖父の出身地だそうですが、そのご縁での創建でしょうかね。。

「山崎闇斎先生祖孝之碑」

この後、山陽盃酒造に立ち寄って「播州一献」お買い上げ。ついでに量り売りの酒粕も購入で、御亭主殿、物凄く上機嫌(笑)

訪問日:2014年12月6日

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一口メモ

「垂加神道(すいかしんとうorしでますしんとう)」。江戸時代前期に山崎闇斎が提唱した儒家神道のひとつ。天照大御神に対する信仰をその子孫である天皇が統治する道を神道であると定義づけ、人間の「敬(正直)」を最も大切な徳分とし、敬を全うすれば天地と合一できる「天人唯一の理」を唱えた。

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山崎八幡神社 in 兵庫県宍粟市山崎町

2023年11月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

宍粟市山崎町門前に鎮座される「山崎八幡神社」。御祭神は『応神天皇皇』。配祀神『仲哀天皇・神功皇后』

由緒「創立年代不詳。元柏野庄篠丸山麓に鎮座せり。 大同2年(807)、柏尾村(加生)村民殿宇字狭小なるを恐み同村に遷祀せり棟札を蔵す。 応仁元年(1467)柏尾村全村民同夜同様の霊夢により現在地に遷祀せり。」兵庫神社庁HPより

参道を進んだ先に、比較的規模の大きい隋神門が見えてきました。

随身門の内より神域を守護される左右の随神様。「門守神(かどもりのかみ)・看督長(かどのおさ)」。また「矢大神・左大神」とも称されます。

なだらかな参道を進んだ先に、明るい日差しを一杯に浴びた拝殿。拝殿前には神域を守護される狛犬一対。

社殿向かって右手には、玉垣に守られてに高くそびえる樹齢700年のご神木「モッコク(兵庫県指定文化財:天然記念物)」。社伝に「本樹は応仁元年当社鎮座以来約500年間神木として保存された」と記されています。 

境内社「本多神社」。本多忠勝公を『映世霊神』とし、次男の忠朝公、叔父の忠真公を御祭神とします。元は山崎陣屋内にありましたが、山崎八幡宮の敷地内に還坐。同じ社内に祀られる「白鳩宮」。鳩は八幡神の神使いとされています。

社の前より神域を守護されるのは石の角を中心に顔立ちが造形された狛犬さん一対。見た目からするとそんなに古い年代ではないようですが、顔の感じがハリウッドの某大作に登場する宇宙人っぽくて可愛い(笑)。

「境内社:天照皇大神宮

社の前にて神域を守護されるのは阿吽でかなり印象の異なる狛犬さん一対。阿形さんは狛犬というよりも狛虎と言った方がしっくりくる顔立ち。基本的にこの一対、大いに気に入りました(笑)

拝殿内は大好きな絵馬の宝庫(⌒∇⌒)。 題材は八幡神社の御祭神に因んだ有名な一場面生まれたばかりの応神天皇を抱く武内宿禰と、それを見守る武者姿の神功皇后。

愛馬と共に海中に乗り入れる若武者、腰の箙(えびら)には十数本の矢・・と来ると「那須与一」くらいしか思いつきません(^^;)

月毛の馬に乗った武者が、床几の信玄に三太刀切りつけ、信玄は床几から立ち上がるとこれを軍配で受け止め・・、川中島の戦いでもっとも有名な場面。

黒馬を駆る红衣の武人。古代中国の逸話から採られた題材だと思いますが詳細は不明。かすかに奉納年代に「天保」の文字が見えます。

「不佛・・・」の文字が読み取れますが、題材は不明。

拝殿の前に建立されていた「教育勅語」の碑。明治23年(1890)に発表された明治天皇の御言葉(勅語)で、日本の道徳教育の根幹となった言葉が述べられています。で・・・頭のねじが左に曲がりすぎた人たちには、この内容が戦争賛美に読めるとか、何とも不思議な事です(笑)

境内の一画に「山崎消防組記念碑」、同じく向かって右手には『内務官僚:清野長太郎』氏揮毫による「山崎消防組記念碑」

「山崎消防組記念碑」「まといの碑」

参拝日:2014年12月6日

 

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青玉(あおたま)神社 in 兵庫県多可町加美

2023年11月20日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

多可町加美区鳥羽に鎮座される「青玉(あおたま)神社」。延喜式の「天目一神社」に比定される式内社(小社)の論社。御祭神は『天戸間見命(あまのとまみのみこと)別名:天目一箇命』。『大歳御祖命(おおとしみおやのみこと)』を合祀。

参道両脇に立ち並ぶ杉の巨木群

「創祀年代は不詳。初め、三国嶽の山頂に鎮座。後、山麓に近い現在地に遷座す。明応2年(1493)、社殿焼失。宝暦11年(1761)、社殿造営。安政3年(1856)、社殿焼失。再度再建。明治7年(1874)、村社に列せられる。」兵庫神社庁HPより

覆い屋の下に鎮まられる本殿。脇障子の彫刻をかろうじて捉える事が出来ました。

この獅子の面構え、中々の迫力でしょう(⌒∇⌒)

うっそうと茂る木々を背景に静かにそこに在る拝殿。拝殿前左右に神域を守護される狛犬さん一対。 

境内の一画、木立の深い緑と、わずかに見える空の青を映し出す神池。

その一画の岩の上に「青玉」が安置されています。「青玉」の名は、天戸間見命が神木に触れたところ、片眼を失明して青色になったことから、青玉と呼ばれるようになったとの伝承があるのですが・・・何だろう、その空間だけが一種不思議な雰囲気に包まれているような・・。

「乳の木」と呼ばれる樹齢500年の銀杏の大木。高さ25m・幹回り4m、太い枝に大きな乳房に似た変形枝があり、乳の出がよくない母親や乳房の悩みにご利益があると伝えられています。

本殿へと至る参道の両脇に群生する杉の木。

拝殿近くの7本の大杉は、推定樹齢600~1000年といわれ、兵庫県指定の天然記念物として登録されています。

樹齢千年と伝えられる最も大きな杉は、高さ45m、幹回り11m。地上8mから二又に分かれており、その寄り添うような樹形から「夫婦杉」と呼ばれています。

夫婦円満・縁結びのご利益があると言われる「夫婦杉」。傍らには夫婦円満の秘訣が・・・「20代は愛で」「30代は努力で」「40代は我慢で」「50代は諦めで」「60代は信頼で」「70代は感謝で」「80代は一心同体で」そしてそれからは「空気のようなふれ愛で・・・」。我慢と諦めは・・できれば御免こうむりたいかな(-_-;)

参拝日:2014年11月20日

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御神名一口メモ

『天戸間見命(あまのとまみのみこと)別名:天目一箇神(あめのまひとつのかみ)』、日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神。「目一箇」は「一つ目」を意味し、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていた。または片目を失明する鍛冶の職業病があった事からと伝える。

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北栄山羅漢寺の五百羅漢 in 兵庫県加西市北条町

2023年11月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

加西の「五百羅漢さん」の存在を知ったのは、中国自動車道加西上下SAにあったモニュメントの説明から。いつか機会があればと思いつつも、思うだけで実現できずに三年が経過(^^;)

2014年12月、予定していた神楽見学がダメになった為に急遽予定を変更。かねてから気になっていた加西の「五百羅漢さん」に会いに行くことにしました。

加西市北条町北条にある天台宗寺院「北栄山:羅漢寺」『薬師如来』を本尊とします。

山門の内の左右に立たれるのは仁王様でしょうか?羅漢寺では仁王様も羅漢様の一員のようです。

【もとは酒見寺塔頭の一寺であったと言われるが、戦国時代の兵火に焼かれたあと、北条御旅町にあった薬師堂を移したと伝えられる。播州薬師霊場第十一番札所。境内に四百数十体の石佛を祭祀、通称五百羅漢と呼ばれているところから、昭和十七年の宗教団体法施行時に、寺名を羅漢寺とし、天台宗に復帰した。(酒見寺は、もと天台宗であったが、中途より真言宗に改宗)なお、五百羅漢石佛は加西市の文化財に指定されている。】 公式HPより

お参りを済ませ、さっそく屋根から下界を見下ろす『鬼』の顔にカメラを向けていたご亭主殿。急にこっちへと手招きされて指さす方向を見上げれば・・・留蓋の上にいるのは波に乗る天女!もしかして播磨風土記に登場する「国造許麻の娘:根日女」かな・・・

Wikiさんによると「北条石仏(五百羅漢、兵庫県指定史跡) - 境内北面に459体が鎮座。制作者は不明だが、酒見寺の伽藍内であり当時の住職・隆辨と寺男・高瀬清右衛門などが関わり制作された。また制作年代も不明だが、慶長年間(1596年 - 1615年)ではないかといわれている。材質は流紋岩。技巧的には高度でないが、一体一体の表情に個性があり、その素朴さを好む人も多い。」

四五九体の羅漢さんを見守る釈迦三尊像。『釈迦如来』を中尊に、脇侍に『普賢菩薩』『文殊菩薩』を配しています。

その昔、「五百羅漢」さんに会いに行けば、自分が会いたいと思う人に必ず会える・・・と、まだ子供だった私に母が何度も話してくれた事・・。大人になって家族を持ち、父を亡くし・・京都愛宕の念仏寺、富山市の長慶寺、島根の大森・・その時々に会いたいと思う人は変わりましたが、物言わぬ石の像に僅かな面影を見つけ、わが身の不信心を棚に上げ、一心に亡くした身内の安らかなる事を願ったものです。

このブログを綴っている今・・母・姉・姪・親友と面影を探したい人の数は増えていきました。無常の定めとは言え・・キーを打つ手がなんども止まり、残された写真の中に無意識のうちに面影を重ね合わせる自分がいます。

お行儀よく並ぶ羅漢さんたち、どのお顔も優しさに満ちてみえるのは、きっとこの時の私がとても満ち足りて幸せだったという証でしょう。このブログを見て下さっている方の会いたい人が、もしもここにおいでになれば、私にとってこんなに嬉しい事はありません。

散り敷く紅の落ち葉の中でひっそりと佇む仏たち。その姿は宗教の枠を超えてみる者の心に優しさと温かさを伝えてくれます。

【北条の 羅漢さんこそ悲しけれ 満月の夜も ひた泣きたもう】阪本勝

加西の医師:児島尚善の母の手紙二百通が納められた「文塚」

「庚申堂」、御本尊は『青面(しょうめん)金剛龍王』

紅葉の中にひっそりと佇む鐘楼

たとえこの先何が有ろうとも、ずっとずっとこうして二人寄り添って生きていけるなら、これ以上の幸せはない・・この日から九年の歳月を経て、今二人の身に起こった様々な事を思うとき、それでも一緒に生きている幸せを心の底から有難いと思うのです。

参拝日:2014年12月5日

 

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小野住吉神社 in 兵庫県小野市垂井町

2023年11月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

小野市垂井町に鎮座される「住吉神社」。御祭神は『表筒之男命、中筒之男命、底筒之男命』

由緒「創建年代は不明。もと河内山田に鎮座していたが、市場村喜多島に奉遷鎮座し、後に現在の地に奉遷。一名「川内大明神」ともいわれる。延喜式神名帳に所載の神社で、元和元年(1615)小笠原忠政の社領を寄せられ、慶安以降徳川将軍代々の社領朱印地として十石を賜り、その後、小野藩主一柳家より氏神として厚く崇敬された。」公式HPより

神門の木鼻に施された獅子と獏の彫刻の見事なこと、惜しむらくは獏に気を取られすぎて獅子が途中で切れた事。しかも獅子のみの画像がない😱

神門からまっすぐに延びた参道の先に〆鳥居があり、その先に拝殿・幣殿・本殿と続きます。

現在の本殿は宝暦年間の再建。続いて神門・拝殿・その他の建物も再建され、その後、幾多の大改修を経て現在に至っています。

匠の技を凝らした見事な社殿彫刻は、どれほど見ても見飽きる事はありません。・・・が、いかんせん、お安いコンデジでは本殿の細部などどうしても上手く捉える事はできません。

その美しい拝殿の前より神域を守護されるのは、可愛い系の浪花型狛犬さん一対。羽団扇のような尾を一杯に開いて、ちょこんと座る姿には何とも言えない愛嬌が感じられます。

そういえばこの神社では「犬幸(けんこう)祈願」と称して、犬の七五三詣や犬のお守りを販売しています。「犬幸=健康」。何時の時代から始まったのか分かりませんが、神事として境内に犬を連れてくることが公認されているという意味では画期的かもしれません。え!?「おいらも祈願してくれっ」ですか?、さぁそれは私に言われても😅

御神木

力強い表情の鬼瓦、どこの屋根においでだったのでしょう?

柔らかな時間が流れる心地よい境内には塵一つなく、地域の方々に大切に守られていることがよくわかります。

参拝日:2010年5月4日

 

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浄土寺・八幡神社 in 兵庫県小野市浄谷町

2023年11月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

小野市浄谷町にある高野山真言宗寺院「極楽山・浄土寺」。新西国三十三箇所客番札所、『薬師如来・阿弥陀如来』を本尊とします。

浄土寺の前身は、現在地より西側約2kmの場所にあった広渡寺で、聖武天皇の頃、行基菩薩によって創建されたと伝えられています。その後、広渡寺は兵火により荒廃しましたが、建久5年(1194)、鎌倉時代の僧で、東大寺の復興に尽力した重源上人によって現在地に移転。寺名を浄土寺へ改め、建久8年(1197)に本堂の薬師堂と浄土堂が大仏様で建立されました。(ここに言う「大仏様」とは鎌倉時代に宋から伝来し東大寺に用いられた建築の様式。天竺様とも言う)

重厚な造りの山門、その屋根の上には羽衣をまとった飛天が、それぞれに横笛・ばちを手にし裳裾を風になびかせています。耳を澄ませば妙なる楽の音が聞こえてくるような‥美しい飾瓦です。

石段参道の先に見えるのは国宝指定の「浄土堂(阿弥陀堂)」。天竺様の建築様式を持つ建物は、他に東大寺の南大門だけといわれており、天竺様の建築様式を持つ堂としては、この「浄土堂」が日本で唯一のものとなります。

何故か画像が行方不明の為、「浄土堂」の画像は義姉からの差し入れですが・・私が写した筈の画像はどこに消えたのでせう(^^;)

重要文化財で浄土寺の本堂である「薬師堂」。もとは浄土堂と同じ大仏様であったとされますが、明応7年(1498)に焼失。その後、永正14年(1517)に再建されました。

宝形造、本瓦葺。和様・唐様・大仏様の折衷形式の「薬師堂」

経蔵

漆喰壁に作られた木鼻の獅子。獅子というよりも幼い子供のような表情。

伽藍の中央正面に鎮座されるのは、浄土寺鎮守の「八幡神社」。社号標の「郷社八幡神社」の文字は、関東軍司令官であった『陸軍大将:本庄繁』によるもの。

「浄土寺縁起」によれば 八幡神社は嘉禎元年(1235)に建てられており、現在の拝殿はその遺構と思われる。幾多の改変の後 桁行七間・梁間三間・寄棟造の割拝殿となっている。ゆるやかな屋根の勾配、繊細な繁垂木、木鼻、蟇股などの意匠から、室町時代に多い和・唐・天竺様の折衷形式の原型ともいえる。」現地駒札より

「本殿は室町時代中期の代表的な檜皮葺・三間社流造である。手挟みの絵様彫刻や蟇股内の花鳥や透彫りなどのその特徴をよく表している。」現地駒札より

八幡神社の「拝殿」「本殿」は、共に国の重要文化財に指定されています。

拝殿前の左右より神域を守護されるのは、何故か切なそうな表情で口元を震わせる狛犬さん一対。〆の子の注連縄と共に掛けられた短い赤の前垂れは、まるで首元の飾りのよう。

境内は池を中心にして、西に重源上人開山当時の建築である「阿弥陀堂」。東方には室町時代の「薬師堂」が並び、この配置は東方浄瑠璃世界の教主である『薬師如来』と西方極楽浄土の教主である『阿弥陀如来』のおわす場所を意味していると言われています。

御詠歌もうずれば この世ながらの 浄土寺(じょうどてら) るり安養(あんにょう)の 極楽のさと】

参拝日:2010年5月4日

 

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