車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

八雲(やくも)社~他 in 兵庫県三木市久留美

2023年11月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

三木市久留美に鎮座される「八雲(やくも)神社」。『億計王(おけのみこ)(仁賢天皇)・弘計王(こけのみこ)(顕宗天皇)』『秀吉』ゆかりの宮として知られます。

御祭神は『八雲武大神(素戔嗚尊)・天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野橡樟日命(くまのくすびのみこと)・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命』

創立年は不詳「約千五百年ほど前、億計王(後の仁賢天皇)弘計王(後の顕宗天皇)がこの地にお忍びの際、久留美皇子ヶ谷の当神社に祈られたと伝えられる。古く久留美の庄の東北(うしとら)の方角の守護神(方除神)として祀られたとされる。延元二年(紀元一九九七年)に皇子ヶ谷より現在の地に遷座。天正六年、豊臣秀吉が三木城を攻むるに際し当社に祈り、落城後報賽のため五色の幣及び白旗を奉納し、御供田を寄進せられる。」公式HPより

境内入口の鳥居脇近くより神域を守護されるのは、岡崎型の狛犬さん一対。奉納年が不明なので確かなことはわかりませんが、昭和初期くらいでしょうか?

地域最長の参道

〆鳥居の先に、木の香も新しい拝殿。

本殿彫刻は立体的で非常に細かく、また脇障子の雉は、今にも鳴き出して飛び立たんばかり。場所的に足場が悪く、片側からでしか画像に納められなかったのがとても残念です。

手水舎は檜皮葺で井戸が併設された立派なもの。拝殿の新しさから考えると、本来は拝殿も檜皮葺だったのではないかと・・・・想像です。

参拝日:2010年5月4日

 

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御阪(みさか)神社 in 兵庫県三木市志染町

2023年11月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

三木市志染町御坂に鎮座される「御阪(みさか)神社」。御祭神は中殿に『八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)』、左右殿に『大物主神・葦原志許男神(あしはらしこをのかみ)』。三神はいずれも『大国主命』の別名とされます。何故一社に同じ神がそれぞれ別の名で祀られるのか・・・由緒では、それぞれが別の神のように記されており、その辺りの事も含めて詳細不明・・謎のままです。

由緒「延喜式神名帳に「播磨国美嚢(みのう)郡一座 御坂神社」と記載された式内社で、旧社格は郷社。志染の氏神。播磨国風土記に「志染の里三坂にいます神、八戸掛須御諸神(やとかけすみもろのかみ)は、大物主、葦原志男命(あしはらしこをのかみ)が国堅めたまひし後に天より三坂峯に下り給ひき。」との記載がある。第17代天皇、履中天皇が参拝になったとも伝えられ、その際に「この川の流れは大変美しい」と言った事にちなみ、この地域一体を「美嚢郡」と呼ぶようになったという。また、天皇の食膳にシジミが這いあがった事から、この地をしじみ(志染)というようになったという。慶長13年(1608)に現在地へ遷座。」

この日は5月4日で例祭が執り行われるようで、二台の屋台が奉納されるらしい・・・とはいうものの、それをじっと待っていられるほどの時間的な余裕はなく、白い幟を恨めしく見送る事となりました(^^;)

拝殿前左右より神域を守護されるのは文化四年建立の尾うちわタイプの狛犬さん一対。控えめな吽形さんの角と、上唇をにゅっと上げて笑う阿形さんの笑顔がとても好印象。

拝殿の彫刻は「竹梅の虎」虎と言うよりも「鵺(ぬえ)」のような感じですが、でもこの顔は「猿」には見えないし、胴体も「狸」っぽくない・・・尾は確かに「蛇」のように見えるけれど・・・何とも興味をそそられる彫刻。

興味をそそると言えば、能舞台の近くだったと思うのですが、かっていずれかの社殿の屋根にあったと思われる「鴟尾(しび)」や鬼が大切に保存されています。ガラス越しで画像としては今ひつつですが、どれも皆、中々に良いお顔。

境内社。社名:御祭神いずれも不明

例祭日とあって「手水舎」にも、境内社同様、藍染に白抜きの紋幕が張られています。

もう少し余裕をもって参拝していれば、本殿の後方に陰陽石が祀られていた事に気が付いたのに・・・。折角の「由緒碑」も、ただ写しただけでは意味がないですね。

参拝日:2010年5月4日

 

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上の丸稲荷神社 in 兵庫県三木市

2023年11月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

三木城跡上の丸公園に鎮座される「上の丸稲荷神社」。御祭神は『稲倉魂神(稲穀の神)・保食神(五穀・食物の神)稚産靈神(わかむすびのかみ)(穀物の生育を司る神)』

由緒「三木城主別所長治が京都の伏見より勧請して城域に創建したと伝えられる。天正八年別所氏滅亡の時烏有に帰したが、後に豊臣秀吉によって再建。旧社名は府内中将稲荷大明神といい地元滑原町が管理。江戸時代中頃から起った三木金物産業の鍛冶屋の崇敬を集め、明治三十五年に荒廃していた社殿と玉垣の再建が行われた。」

100段近い石段参道の先、鳥居の内より神域を守護されるのは、巻物と鍵を咥える神狐さん一対。すらりとしたお姿は、城址に祀られる稲荷神の眷属らしい気品を感じます。

ちなみにお狐様が座る猫足台座の下には、二丁の金づちが置かれています。置いているのか奉納されているのか、何とも不可思議な状況ですが・・でも多分、奉納なのだろうと思います(^^;)

参道は滑原商店街からの石段が正式な順路かなと思うのですが、流石に100段の石段を上り下りするには、根性も体力もありません(^^;) 私たちは、直接拝殿に続く石段からの参拝。

本殿前左右より神域を守護されるのは、金網の中で大切に保護されている「箱入り娘」ならぬ「箱入り神狐」。

稲荷神社の本殿後方には「お塚」と呼ばれる磐境があり、石碑や鳥居が驚くほど沢山建立されています。

本殿裏に鎮座される「府内中将稲荷大明神」。美嚢郡誌に「本社ノ直後ニ腐香朽シテ洞窟ヲ生ゼル老木アリ、洞前ニ小詞ヲ建テテ之ヲ祀ル、御神體ハ洞中ニ納メ奉ルト、人之レヲ朝日明神ト稱ヘテ崇敬ス」

祠の前左右より神域を守護されるのは、巻物と珠を口に食む神狐さん一対。確かにお狐様なのですが、珠を口中に含むお狐様の顔は、狼を想像させる険しさ。

三木城跡上の丸に建立されていた「別所長治公:騎馬像」。じっと見上げていて、ふと・・・何となく違和感を感じさせられる奇妙な居心地の悪さに思わず二度見、三度見・・

そうしてやっと、長治公の鎧の下から見える着物の衿合わせが左前である事に気が付きました。古墳時代じゃあるまいし、まさか自刃したから「死に装束」に??それはあまりにも不自然と言うか、あり得ない。もしかして石像の制作者が日本の着付けを知らなかった??。更に受注し受け取った側も、その事に気が付かなかった??もしもそうなら何ともお粗末すぎる・・・

天正6年(1578)から天正8年(1580)にかけて繰り広げられた織田方と別所氏との合戦。城に篭城した別所氏に対し、織田軍配下の秀吉は、兵糧の輸送を断つ三木城攻めに出ます。二年間に及ぶ「三木の干(ほし)殺し」は、日を追うごとに凄惨さを極め、遂に別所氏は兵士や領民の命と引き換えに一族と共に自刃して果てます。

【 今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかはる 我身と思へば 】

参拝日:2010年5月4日

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『稚産靈神(わかむすびのかみ)』、火の神「火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)」と、土の神「埴山姫(はにやまひめ)」の間に生まれた子。頭に蚕と桑、,臍(へそ)の中に五穀が生じたという。

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金物(かなもの)神社 in 兵庫県三木市

2023年11月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

三木市上の丸町、金物資料館横に鎮座される「金物(かなもの)神社」。御祭神は『天目一箇命(あめのまひとつのみこと)(鍛冶の祖神)・金山毘古命(かなやまひこのみこと)(製鋼の祖神)・伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)(鋳物の租神)』

由緒「金物業者共同の守護神として奉斎しています。1935年(昭和10年)に三木金物販売同業組合の呼び掛けで、この地に金物神社が創建されました。技量、人格ともに優れた匠が御番鍛冶となり、年番制で11月第1土曜日にふいごの火入式(鍛造)が行われています。鍛冶の祖神、製鋼の祖神、鋳物の祖神を祀っています。」現地案内より

近代的な白いコンクリート製の本殿左右より神域を守護されるのは、浪花タイプの狛犬さん一対。阿形さんの口元がどことなく不自然に見えるのは、部分的な剝落の所為と思われます。

境内の一画に設置された「古式鍛錬場」。鍛冶の伝統技術を伝えていくため、ふいごを使い、古式ゆかしく金物を鍛える古式鍛錬の実演を五品目の製造業者が交替で公開しています。

「三木金物」の名称は、特許庁の地域団体商標として登録を受けており、そのうち「(のこべぇ)、(のみきち)、(かんなどん)、(こてっち)、小刀(こがたなちゃん)」の5品目が国の伝統的工芸品に指定されています。

 

世界が称賛する日本の打ち刃物。絶えることなく受け継がれてゆきますように。

参拝日:2010年5月4日

 

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三木市立金物資料館 in 兵庫県三木市

2023年11月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

三木市上の丸町、三木城本丸跡の一画に三木市の伝統産業である金物に関する資料が収集展示された校倉様式の「三木市立金物資料館」があります。入り口は、この後紹介する予定の「金物神社」の鳥居の奥にあり、受付で申し出れば、誰でも無料で見学する事ができます。

「三木金物の発展は、三木市の歴史において重要な位置を占めており、市民の金物によせる関心と愛着心はきわめて強いものがあります。しかし、金物産業も時代の要請につれて伝統的手工業から、機械による生産方法に進み、古来から伝わる製法や金物製品等は散逸のおそれがあるため、これら貴重な資料を収集・保存する設備がかねてから切望されていました。そして、昭和49年8月、小林恒美氏から金物資料館建設資金として篤志が寄せられたのを契機に実現を見たのです。昭和51年に開館した金物資料館は、金物に関する貴重な資料、金物製品を保存、展示しています。古来から伝わる鍛冶製法や、職人さんが「かじやさん」と呼ばれていた時のことが、よく分かります。」公式HPより

館内は、一つ一つが非常に丁寧に見やすく展示されており、思わず見入ってしまうものも沢山あります。こちらの額の中に並べられているのは、三木市志染町にある本山修験宗の寺院「伽耶院(がやいん)」の和釘から作られた道具。砂鉄を原料に、たたら製法で作られた和釘は純度99%。500年前の釘であろうとも、表面の錆を落とせば再び純度の高い鉄として再利用が可能なのです。

見慣れない形に思わず足を止めた「木の葉型鋸」、横に丁寧な説明が添えられています。「木の葉型鋸」とは、中世の絵巻物「石山寺縁起絵巻」など寺社普請の場に盛んに描かれていながら現物を欠いているため幻ののこぎりと言われた横曳き鋸で、その形状が栗の葉を半分に切った形に似ていることから「木の葉型鋸」と言われている~中略~展示品は三重県上野市・下都遺蹟室町中期層から出土した鉄製鋸をもとに復元した。」

広い館内には実に様々な金物=大工道具が展示されており、しかもそのどれもが私たちの世代には見覚えのあるものという事もあり、非常に興味深く楽しむ事ができます。例えば、鋸(のこ)一つ見ても、その種類の多さは驚くばかり。

「鑿」を並べて作った、さしずめ「のみ文字」(笑)

小刀というと、いかにも危険で危ないというイメージですが「肥後守」と言われると、ご亭主殿の世代では普通に誰もが所持していたし、実際、私の兄などもそれで普通に鉛筆を削り、竹とんぼを作ったりしていました。何時の頃からか、肥後守は凶器として忌避されましたが、どんなものであれ、使う人間次第でそれらは道具にも凶器にもなります。危険だからと排除してしまった結果、刃物全般の危険性を知らない子供たちが増えたのも事実です。

三木金物製品のうち「鋸(のこぎり)、鑿(のみ)、鉋(かんな)、鏝(こて)、小刀(こがたな)」の5品目は、国の伝統的工芸品に指定されています。額に収められた「豆道楽」は上記五品目の精巧なミニチュア。ミニチュアですが、その性能は一般的な製品と全く変わりありません。購買欲をそそられます(ーー゛);

三木市立金物資料館の入り口前に建立されているのは「村の鍛冶屋」の碑。1978年4月以降の教科書に載らなくなった為、それを惜しんで、同年に館の玄関前に建立されました。ちなみにこの唱歌が文部省唱歌から消えた理由が、鍛冶屋の存在が一般的でなくなった事、ふいごや鎚(つち)を目にする事がないからだそうで、似たような理由で消えた唱歌は「村祭り(村の鎮守の神様が理由)「われは海の子(煙りたなびく苫屋が理由)等々、驚くほど沢山あります。知らなければ教えれば良い事、日本の歴史につながる諸々を捨て去るなど実に愚かしい事だと・・私は思います。

【 しばしも休まず鎚打つ響き 飛び散る火玉よ 走る湯玉

ふいごの風さえ 息をも継がず  仕事に精出す 村の鍛冶屋 】

訪問日:2010年5月4日

 

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別府(べふ)住吉神社 in 兵庫県加古川市別府町

2023年11月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

加古川市別府町東町に鎮座される「別府(べふ)住吉神社」。御祭神は『底筒男命、中筒男命、表筒男命、息長足姫命』。海の神、航海の神とされます。

社務所内由来に「四柱の神を住吉大神と称し摂津国住吉神社からその分霊を勧進したものである。神功皇后の三韓征伐の降り、三筒男命御魂はその先鋒となって御船を導き給うたことのより古来海路守護の神として尊仰されている。創立年代は不詳であるが明治七年には村社に列せられた。境内には「春日神社・八幡神社・神明神社・大歳神社が分祀されている。」

「境内社:恵比寿神社」。御祭神は漁業神であり、古くから漁業関係の人たちの信仰の対象とされてきました。

社殿の玉垣には「多木化学株式会社」と「神戸製鋼:加古川製鉄所」の文字があり、別府港関連での両社の関りがそれとなく誇示されています。

「境内社:琴平宮」。鳥居の先には社殿は無く、高く積まれた台座の上に「琴平宮遥拝地」と刻まれた碑が建立されています。

遥拝地の神域を守護されるのは、いたずら盛りのお子様を思い出させる阿形さんと、西洋の怖い寓話に出てくる危険な小人さんを連想させる吽形さん。いや、決して嫌いなタイプではないので、悪しからず(笑)

「播州松巡り」の一つ「手枕(たまくら)の松」。松が横に傾き、腕枕のように見えることから別府出身の俳人『滝瓢水(たきひょうすい)』が名付けたとか。初代の松は大正末期に枯れ、現在の松は3代目です。

境内なのか、境外になるのか・・「肥料王」と刻まれた高さ4・6メートルの石製の台座。肥料メーカー多木化学の創業者で、日本初の人造肥料を造った『多木久米次郎』の功績をたたえる為、1936年に全国の有志によって建立されました。当初は、久米次郎氏の巨大な銅像がありましたが、第2次世界大戦で武器製造のために供出され、台座だけが残されています。 

石灯篭の台座に刻まれた「多木製肥所」の文字と社標。おそらく、生産された肥料は近くの別府港から船を使って全国各地に運ばれたのでしょう。そうと考えれば、こうした寄進:奉納の数々も頷ける気がします。

参拝日:2010年5月8日

 

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加古川町公会堂&多木浜洋館 in 兵庫県加古川市

2023年11月01日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

加古川市加古川町木村に所在する「加古川市立加古川図書館」。これが図書館??と思わず看板を見直してしまう白亜の建物は、昭和10年(1935)、「加古川町公会堂」として竣工。完成当時は演劇や各種の講演会が開催されるなど、地域の文化において中心的存在であったと言います。

豪華に飾られた正面ファサードやスクラッチタイル張りの1階正面部分、シンメトリーの中央に聳える塔屋等々、いづれもゴシック様式の重厚なデザインで、こんな素晴らしい建物の存在を今まで知らなかった事が悔やまれます。

中でも圧巻は、車寄せの上に造られたアールデコ風の幾何学模様にデザインされた、ステンドグラスの大アーチ窓。

内から見るとこんな感じ、画像には残し損ねましたが、日差しが差し込んだ一瞬は、思わず頭の中で柄にもなく「ハ~レルヤ!」(笑)

元兵庫県営繕課長の『置塩章(おしお あきら)』によって設計された西洋建築の「旧加古川町公会堂」は、2008年、兵庫県の景観形成重要建造物に指定されました。・・あ、そう言えば、画像の右にちらっと見える松の木。あそこで『三島由紀夫』が昭和19年に徴兵検査を受けたそうで、案内によれば当時と変わらない枝ぶりだそうです。

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加古川市別府町別府、別府住吉神社のすぐ近くに、「多木製肥所」の迎賓館として昭和8年に建てられた「多木浜洋館」、通称「あかがね御殿」があります。

屋根や外壁全面が銅板葺で出来ており、まさしく「あかがね(銅)」色に輝く御殿。一見したとき黒っぽく見えたのは、建物全体に葺かれた銅が錆び、緑青に覆われてしまったからとの事。

確かに可能な限り近づいて目を凝らせば、緑青に覆われた部分が、まるで芸術家の筆跡のようにくっきりと見えます。

内部は大理石敷、壁面赤漆塗、彩色彫刻やステンドグラスなどの華麗な装飾がなされ、木造の階段は国会議事堂を模しているとか。また、1階大広間の天井は桃山風の格天井に極彩色の彫刻をはめこみ、柱はマホガニーやチーク材が使われているとの事。この時は見学不可だった為、遠目からの外観のみだった事が今も心残り。

加古川市に本社を構える多木化学の創業者である『多木久米次郎』が、迎賓館として別府川河口に面する現在地に15年の歳月をかけて建築した4階建ての洋風邸宅建築。2002年8月21日に、主屋、石造門、煉瓦塀、記念碑が国の登録有形文化財(建造物)に、2020年1月21日には、兵庫県景観形成重要建造物に指定されました。

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加古川市別府町緑町、たまたまタンデムで通りかかった場所なのですが、黒壁二階建ての、洋館でも和風建築でもない素敵な建物を見つけました。フェンスの看板に「多木化学株式会社」と書かれている所を見ると、どこかの社屋のようです。

そのまま通り過ぎるには惜しく、バイクから降りてじっくりと鑑賞させて頂いたのですが、ふと・・・、建物に並んだ紋章に気がつきました。

どこかで見た事があるあのマーク・・あれは園芸店の・・そう、肥料コーナーでよく見かける「神代鍬(じんだいくわ)」!!(笑)

実はこの建物「多木製肥所:本社」として、創業者の生家傍に大正4年に建てられたものだったのです。

先の建物からさほど遠くない場所で見かけた、やはり「神代鍬」の社標がある家屋。おそらく多木製肥所と何か関連がある建物だと思うのですが、こちらに関しては特に情報は得られませんでした

訪問日:2010年5月8日

 

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高砂市内~あちこちウォッチ in 兵庫県高砂市

2023年10月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

高砂市高砂町北本町に建つ「高砂商工会館会議所」「旧高砂銀行本店」として昭和7年に建てられ、神戸銀行、太陽神戸銀行と変遷、昭和55年から高砂商工会館として使用。2005年に、兵庫県景観形成重要建造物に指定され、地域のランドマーク的存在となりました。

訪問日:2010年5月8日

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高砂市阿弥陀町魚橋、旧山陽道に面して建つ「土田家住宅:旧魚橋郵便局舎」。門には、花崗岩製門柱2本が2m間隔で立てられており、桟瓦葺の屋根が架けられた真壁造の塀が独特の景観を見せています。

旧魚橋郵便局舎は寄棟造、桟瓦葺で正面中央に切妻造の玄関を設け、外壁は下見板張、縦長窓には両開き鎧戸がつけられています。

明治37年建築の「土田家住宅魚橋郵便局舎・離れ・門及び塀」は、2005年2月9日、国登録有形文化財に指定されました。

土田家住宅の近所で見かけた飾り瓦の鷹。もっとよく探せば羽を広げた相方がいたかも・・

土田家住宅から少し歩いた先に建つのは真宗大谷派寺院「無染山:正連寺」。山門の留め蓋瓦に誘われてやってきました。

日差しの加減で一方しか写せなかったのですが、牡丹を咥えた留め蓋の獅子。劇画チックな顔のいかつさと牡丹の花との対比が結構ツボに嵌ります。

思わぬめっけものは、森繁久弥氏の筆による顕彰碑「佐々木すぐる先生 生育の地」。名前を聞いてもピンとこなかったのですが「月の砂漠」を作曲した人と知って思わずシャッターを(笑)

ほんの数分でしたが歩くことで見つけられた、ちょっとした名所・旧跡。面白いと思えるものに出会えた時の嬉しさは格別(⌒∇⌒)

訪問日:2010年8月12日

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今から数十年前、高砂に住んでいた叔母に連れられて「石の宝殿」「観濤処(かんとうしょ)」へ行った事があります。石の宝殿は「生石(おうしこ)神社」の御神体で、「浮き石」や「日本三奇」の一つとも呼ばれており、その周囲を巡った時のあの神秘的な感動は今も鮮明で、忘れ難い経験でした。
「観涛処」はそこからさらに山道を登った先、播磨灘を眺望する加茂山の中腹にあります。紙焼き写真に残る「愛娘と観涛処」。大切な思い出の一コマです。

 

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荒井(あらい)神社 in 兵庫県高砂市荒井町

2023年10月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

高砂市荒井町千鳥に鎮座される「荒井(あらい)神社」。御祭神は『大己貴神(だいこく様)』、相殿神に『事代主神(えびす神)』

由緒「第34代舒明天皇元年(629)、大己貴神を奉斎する出雲氏族が自己の偉大なる神の霊をいただきもちて、瀬戸の海づたいに進出して、荒井の浜を開拓し、ここに永住するため当社を創建したのがはじまりである。平安時代には、この荒井地区が朝廷に年魚(鮎)を献上していたことから「御厨庄」と呼ばれ、神社古記録にも「播磨国御厨庄荒井神祠」と記される。鎌倉時代以降は、武士の崇敬を受け、文明年間(1469~1487)播磨の太守赤松右京大夫政則により社殿は再建せられ、延宝9年(1681)には姫路藩主松平大和守直矩が当社に神田を献じた。明治41年(1908)、荒井村の惠美酒神社を合祀する。」公式HPより

拝殿前左右より神域を守護されるのは、昭和18年3月吉日建立の狛犬さん一対。いわゆるお獅子顔の整った顔立ちをしておられます。

神門は1990年の御大典、1991年の国恩祭の奉祝記念事業として世界の平和・御代の弥栄を願い建設。神社に多くみられる隋神門形式ではなく当社由来に基づく独特の形式から、「竜宮門」と称され親しまれています。

「境内社:美雄弥神社」。御祭神は『荒井町出身戦歿者240柱』。荒井神社旧本殿の社殿は萬治2年(1659)の棟札が残り、昭和63年に高砂市文化財に指定されています。

本殿の前左右より神域を守護されるのは、天明2年正月吉日建立の狛犬さん一対。長い年月を経た証がそこかしこに見られるのも、狛犬ファンとしては愛おしく見えます。

遥拝所

「忠烈の碑」大東亜戦争(ボルネオの戦い)にて戦死した獨歩367大隊の戦歿者、またその戦友・遺族を顕彰・鎮魂する碑。

「境内社:浜之(大和)神社」、御祭神は『大歳神』

恵比須:大国像

磐座

荒井と手水舎

参拝日:2010年8月12日

 

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工楽松右衛門旧宅 in 兵庫県高砂市高砂町

2023年10月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・兵庫県

高砂神社の境内に建立されていた銅像の主は『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』。当時は誰かな?と思いはしたものの、特に調べてみようとも思わず十年が経過。それがある場所への訪問をきっかけに、突然としてあやふやな記憶に猛アタックがかけられたのです。

2018年12月14日、この日私たちはマンホールカード9弾の配布が決まった高砂市にやって来ました。配布場所は高砂市高砂町今津町にある「工楽松右衛門旧宅」

館内の案内によれば『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』とは、江戸時代に海運業や港湾改修で活躍した人物で、「松右衛門帆」で大きく名を遺した人物云々・・・当時はカード収集が主目的だった為、初見で見聞きする知識も上滑り(^^;)

館内の案内で、2018年5月に工楽松右衛門旧宅と南堀川の遺構が「~荒波をこえた男たちの夢が紡いだ異空間~」として日本遺産に​認定されたとあり、俄かに興味が(笑)。それでもこのスタンプの『工楽松右衛門』と、10年以上前に見た銅像が結びつく事はありませんでした。

館内は無料で見学が可能との事、これだけの建物を眺めただけで回れ右ができるほどコレクター根性も無かったのでしょう。次の配布地へ向かう時間を気にしつつも、さっそく見学をさせて頂くことに。

工楽松右衛門旧宅の土地・建物が工楽家から高砂市に寄贈されたのは2016年1月の事。しかし、200年近い経年による傷みは相当なものであり、その為、当初の建築様式に復元するには1年4か月の歳月を要したといいます。

軒下は火事から家を守るために、波打ち仕上げの白漆喰​で塗り固められ、また建物の周囲には、水に長年浸かっていた古舟の舟板が使われ、商家建築としては珍しい細工。むろん、これにも防火の意味が込められています。

建物の見学で最も印象に残ったのが、通り庭の吹き抜けの小屋組・・見上げた瞬間に感じる圧倒的な存在感は、こんな稚拙な写真ではとても伝えきれるものではありません。差し込む光の美しさに思わず感動を覚えます。

変わった形の石灯籠が置かれた庭、沢山の敷石。ここには何があったのだろう? もう少し時を置いて訪ねれば、また違った景色に出会えるかもしれない。

工楽松右衛門の功績を語るうえで欠かす事のできない一つが、播州特産の太い木綿糸を用いて作り上げた、厚く巨大な平織りの帆布「松右衛門帆」

これまでの木綿布を二枚三枚と縫い合わせた帆に比べ、彼が開発した新型帆布は耐用年数も、航行の効率化も比較にならない程に優れており、瞬く間に全国に普及することになったと言います。この「松右衛門帆」によって、北前船をはじめとする大型和船の航海術は飛躍的に向上したと言います。

もう一つの日本遺産である「高砂南堀川の港遺構(雁木と護岸石垣)」も着々と復元工事が進められていました。

「江戸時代~近代 南堀川は、江戸時代に開削された人工運河で、港町高砂の物流の中心地でした。堀川沿いには蔵が建ちならび、多くの人々や物資でにぎわっていました。 平成28・29年の発掘調査で、舟から荷物を揚げ降ろしした、幅4m・奥行3.3mの雁木(石階段)や、南堀川西岸の石垣10mが確認されたため、一部を復元し展示しています。」現地看板より

思いがけなくも素晴らしい時間を過ごすことができた私たち。本当はまだまだ見足りないのですが、一応、事情が事情で(笑)、後ろ髪引かれつつ「工楽松右衛門旧宅」を後にしました。

それから数年後(^^;)、当時のパンフレットを見直していた時、ふと・・どこかで見覚えのある写真の存在に気が付いたのです。

体の向きは逆ですが、確かにこの銅像に見覚えが・・高砂のどこかで確かに見た・・この人物!それが高砂神社に建立されていた銅像と同じものだと気が付くのにそれほど時間はかかりませんでした。

『工楽松右衛門(くらくまつえもん)』寛保3年(1743)、播州高砂の漁師の長男として生まれ、幼少の頃から家業である漁業に従事。この頃から創意工夫が得意であったと伝えらています。15歳の頃に兵庫に出て回船問屋「御影屋」のもとで船乗りになり、その後、『北風荘右衛門』の斡旋で佐比絵町に店を構え、船持ち船頭として独立。 船乗りとして一人前になった松右衛門は、帆布改良の研究に着手し、やがて播州の特産である木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。寛政2年(1790)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ、翌夏に竣工。享和2年(1802)、 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられ、名字帯刀を許される身分となります。

「工楽」とは「工事を楽しむ」「工夫を楽しむ」

訪問日:2018年12月14日 (銅像のみ2010年5月8日)

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