車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

賀久留(かくる)神社 in 静岡市浜松市西区

2021年04月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

浜松市西区神ヶ谷町に鎮座される「賀久留神社(かくるじんじゃ)」。御祭神は『闇御津羽神(くらみつはのかみ) 、闇淤加美神(くらおかみのかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、誉田別命、玉依比賣命』。

由緒「延喜式神名帳(九二七年)所載「遠江国敷 知郡賀久留神社である。祭神「闇御津羽神」 「闇淤加美神」の二神は、五穀豊穣、水分、生寿、 福賀、厄除の神である。のち「気長帯比賣神」 「誉田別命」「玉依比売命」を合祭し武運長久、交通 安全、護身の神である。~中略~もと、八幡宮と称していたが改称の儀、明治拾六年 一月許可され、昭和四年七月四日、県社に列格せられる。昭和五年五月、昭和天皇行幸の御時に当社所有宝物の天覧の光栄を賜う。」参道案内より

一の鳥居から若干急な石段参道を進むと前方に、随身門が見えてきました。

こちらの随身門には「唐傘」の彫刻が施されています。何故この場所に「唐傘」の彫刻があるのか・・?特に謂れとかの説明は有りません。

神社名の「賀久留」は、神が隠れ籠もる地という意味ともいわれています。また、本来は雨乞いの神を祀っていたと言う事ですので、唐傘も何かの呪いなのかもと思ってみたり・・・

玉垣の内、御本殿前より神域を守護される狛犬さん一対。離れた位置からのズームなので、あまり綺麗には撮れませんでしたが、良いお顔をされています。阿形さんの頭にあるお団子のような宝珠が個人的にはツボ。

石段の上、拝殿前左右より神域を守護されるのは、いわゆる岡崎型と呼ばれる狛犬さん一対。

岡崎の地名が冠せられていることからも分かるように、岡崎在の6代目:酒井孫兵衛という石工さんが最初に生み出した狛犬。個人的に好みは有るのですが、石工の間では評判が良かったのでしょう。瞬く間に全国の石工さんがこれを手本に狛犬を彫り上げてゆきました。結果・・・狛犬ファンからため息をつかれる存在になったことは何とも皮肉ですが・・(特に中国による岡崎型を模倣した狛犬は、価格の安さもあいまって日本中の神社を席巻し始めた為、その傾向は顕著になりました。)

境内左手には、樹齢800年といわれる御神木の「夫婦木楠」

「夫婦木楠」の前に『須山長次氏』歌碑。【罪あらば 吾を罰せよ天津神 ひとの悪きは 我が悪きなり】

ちなみにこの歌碑と非常に良く似た文言・・京都伏見稲荷で頂いたお御籤にもありました。(罪あらば我を咎めよ天つ神 民はわが身の生みし子なれば)一説には明治天皇の御製とも云われています。

参拝日:2010年4月17日

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五所神社・諏訪神社 in 静岡県浜松市

2021年04月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

2010年4月18日に参拝した「五所・諏訪神社」。2016年、御朱印を頂くために再度の参拝。

浜松市中区利町に鎮座される「五社神社」。御祭神は『太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神』。「諏訪神社」。御祭神は『建御名方命、八坂刀売命(やさかとめのみこと)、事代主命』。ともに『徳川秀忠』の産土神とされた事で、子守りの神として人々の崇敬を集めています。

五所神社由緒に「曳馬城(後の浜松城)主・久野越中守が城内に創建した事に始まると伝えられる。後、徳川家康公、浜松城主となり天正7年(西暦1579年)4月7日、秀忠公誕生に当り産土神として崇敬し、現在地に社殿を造営し天正8年(西暦1580年)遷座す。元々は祭祀を司どる神である『太玉命』を祀る神社でしたが、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となりました。
相殿に『応神天皇、徳川家康、菅原道真、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、稲倉魂命、大日女命、素戔嗚命』を合祀。」

広い参道の石段をあがると、1989年生まれの、青銅製の狛犬さんが出迎えてくれます。護国タイプに似ていますが、相当のガチムチ系。特に下半身の安定感が半端ない。

諏訪神社由緒に【延暦10年(西暦791年)、坂上田村麻呂が東征の砌、敷智郡上中島村に奉斎と伝えられる。弘治2年(西暦1556年)に曳馬城下、大手前に遷座される】

もとは隣接して鎮座されていましたが、昭和35年に法人格を一つとして合祀、新たに「五社神社・諏訪神社」としてこの地に鎮座されました。
諏訪上社の御神紋「諏訪梶の葉」、春日大社の「下がり藤」は、五所神社の御神紋のようです。

かって「お江戸見たくば五社諏訪ごろじ お江戸まさりの五社や諏訪」と謡われた旧社殿。 旧国宝に指定されていた権現造の社殿・透塀・唐門・楼門は、昭和28年の戦災により全て焼失。現在の社殿は、昭和57年(1982)に竣工されたもので、一社殿内に両社の御祭神を奉斎しています。

この豪華絢爛な彫刻は本殿のほんの一部分ですが、まさに王朝絵巻を思わせる艶やかさ。

本殿の横にある「神輿庫」の扉には、「諏訪・五所」両社の御神紋。

参道石段を上がって直ぐの左手に鎮座される、朱も鮮やかな「稲荷社」

その後方に「獅子頭岩」。 昔からこの神社に伝わる自然石ですが、こうして横から見るとまさに獅子の頭です。

二度目の参拝で見かけた絵馬は「家康公出世手形」。鷹を腕に、束ねた長い黒髪を風になびかせた美少年。 大きく染め抜かれた葵の紋からしても確かに家康がモデルなのでしょうが、流石にこれは無いわ😅

朱塗りの手水舎の「手水鉢」は、寛永十五年に浜松城主『高力摂津守』の寄進。

最期は、鳥居の右手後方に、明和四年に建立された「光海霊神(うなてりのみたま)碑」。 江戸時代中期の国学者で歌人でもあった『賀茂真渕』が、幼少の頃、師と仰いだ五社神社・神主『森暉昌』の功績を記した顕彰碑だそうです。

参拝日:2010年4月18日&2016年12月16日

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有玉(ありたま)神社・俊光将軍神社 in 静岡県浜松市東区

2021年04月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

浜松市東区有玉南町に鎮座される「有玉(ありたま)神社」。「延喜式神名帳」にある「朝日波多加神社(遠江国・長上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。御祭神は『天照意保比留売貴命(あまてらすいほひるめきのみこと)・御年神・伊邪那岐命・伊邪那美命、外十八柱』

「昔、天竜川河口近くに三千年を経るという赤大蛇が住んでいた。 坂上田村麿将軍が東征でこの地を訪れた時、美女に化けた赤大蛇と恋仲になり2人の間に子供が出来た。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。 この子は成人し、俊光将軍といわれる武将になり再び父子で東征の命を受けこの地を訪れる。その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。この平野にやがて人が住み村が出来た。ある年、毎夜東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を祭ったのが有玉神社だといわれる。」有玉神社の伝説より

拝殿前より神域を守護されるのは、おそらく国外からの奉納と思われるエキゾチックな狛犬さん一対。阿吽の別が無く胸元に装飾を施した狛犬さん・・大阪花博の東南アジアゾーンで何度も見かけています。

朱塗りの鳥居は、御祭神の中に『稲倉魂命』がおいでになるからだろうと思います。

「有玉神社」に隣接する「俊光将軍神社」。御祭神は『俊光将軍』

俊光将軍の死後、東区有玉西町の「大菩薩山・俊光将軍社」に鎮座されていましたが、現在は有玉神社に合祀。

こちらには狛犬さんは居ませんが、屋根の上に素敵な細工瓦を見つけました。まるでサーフィンでもしているような・・亀に乗った『黄安(亀仙人)』

大きな鯉に跨る『琴高仙人』

参拝日:2010年4月17日

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御神名一口メモ

『天照意保比留売貴命(あまてらすいほひるめきのみこと)』、有玉神社にのみ祀られる神。この社がもと神明宮だったことから、天照大神の事と考えられる。

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エアーパーク(航空自衛隊浜松基地 浜松広報館) in 静岡県浜松市

2021年04月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

浜松市西区西山町にある「エアーパーク」、正式名称は「航空自衛隊浜松基地 浜松広報館」。浜松への車泊旅で楽しみにしていた訪問先の一つ。入館料は無料、国民に航空自衛隊をより理解してもらう事を目的として1999年4月にオープンしました。

戦闘機、練習機、ヘリコプターや装備品等の展示をはじめ、操縦シミュレーターや、全天周シアター等、見て・触れて・楽しめる、空自初の博物館形式の施設。たとえばこれは、ナイキミサイルと発射台。ミサイルですよっ!ミ・サ・イ・ル!!

屋外展示はすべて一部を除いて実機という事で迫力も桁違い!。先頭部分の赤が際立つ機体は、航空自衛隊で創設期に導入された「C-46輸送機」。物資輸送、空挺隊訓練、人員輸送などで幅広く活躍しました。

くの字になった形から“空飛ぶバナナ”と呼ばれた「H-21B救難ヘリコプター」。昭和35年〜昭和42年まで人員輸送や救難用として使用。

そして目の前に現れた「F-86F(ブルーインパルス仕様)」。昭和35年、第1航空団の「空中機動研究班」として発足したブルーインパルスが目の前に!!もう三人揃って大興奮😍

資料館から展示格納庫に行く途中に見かけた「無人標的機 UF-104j」。画像では捉えられませんでしたが、尾翼の部分にカッコいい「さそり」のマークがあります。

屋内最初の展示は、実物大模型の戦闘機「XF-2支援戦闘機」。アメリカ製F-16戦闘機をベースに、日米で開発を進めたもので、洋上の敵艦隊や領空内に侵入した敵機を攻撃する役割があります。実物大模型・・要するに巨大なプラモデル!、ご亭主殿、なぜか大喜び😍

レーダー探知機や無線、実際に使われるものと同じ機器を使ってのシュミレーション。これは・・オタクでなくとも間違いなく嵌ります😄

メカニックな胴体は「F-1戦闘機」の機体の一部を外したもの。ターボファンエンジンを実際に見られるという貴重な体験ですが・・実は何がどうでどうなっているのか全く無知な私😅。説明によれば航空自衛隊が誕生して後に製作された日本初の国産機で、実際に使用していたものです。

尾翼に描かれた兜の侍の横顔・・・カッコいいんだけど何となくアメコミっぽい感じで、もっと「武将」らしい雰囲気が欲しかったかな😊

展示格納庫にはブルーインパルスをはじめ、実際に使われた歴代の戦闘機やヘリコプターなど、19機が展示されています。手前に見える機体は「零式艦上戦闘機『五十二型』43-188号機」。昭和38年にアメリカのグアム島で発見され、修理された後に展示されました。

どれを見ても「カッコいい!」「凄い!」としか形容が出来ない私たち。機種を見て○○○だと、言い当てられる知識など皆無に等しく、殆どが広報用資料の受け売り。でもずらりと並ぶ戦闘機や輸送機の迫力はしっかりと伝わってきます。

画像下に見える、胴体からのびた双動機が特徴の「DHII5バンパイヤ」。空自の開発用に投入されたものです。

群青とスカイブルーの機体に日の丸が鮮やかなブルーインパルス仕様の「T-2超音速高等練習機」

こちらでは、コックピットへの着座も出来るという事で、空自の制服を着用して乗り込んでみました!!二人ともすっかりその気になって、ポーズを決めて悦に入ってます😃😃

こちらは「F-1支援戦闘機」、T-2を単座化し、全天候攻撃・航法システムを追加した戦闘機だそうです。

コックピットにずらりと並んだ計器、何が何だかさっぱりわかっていませんが、とにかくカッコいい!!😍

アースグリーンのフライトスーツに身を包んだ二人、何だか背筋まで伸びた気分で、動作も何時になくキビキビ!。着替えがめんどくさいと私服のままだったJ🐣さん、「やっぱり着替えればよかった😔」

二人が着用したパイロットスーツ・ヘルメット・ブーツにキャップは15分間ですが、無料で貸して頂けます。思い出として残すには最高の経験でした。

施設内にあった角蓋は何かの点検用でしょうか?自衛隊の施設らしく、桜の紋章が描かれています。

数々の実戦機を見、ほんのままごと程度の体験ですがシュミレーションもし、思うことは・・これらが使われずにすむ世界は、本当に理想であり、誰しもが望んでいる事だろうと言う事。けれど世界の中の日本と言う国を見たとき、この国は本当に平和でしょうか?何者にも脅かされず、一ミリたりとも侵略を受けていないと、本当に言い切れますか?日本の竹島において、日本漁船328隻が拿捕され、日本人44人が殺傷、3929人が抑留されたのは昭和31年(1956)のことです。なぜ自分の国で漁をしていた彼らがこのような目に遭わねばならなかったのか、誰か答えて下さい。この国際法違反の行為をした国は、竹島を自国の領土だと公言して憚りません。ある日突然、愛する家族が行方不明になる・・手引きしたのは日本にいる某国の人間たちです。何故こんな事が許されるのか、何故そんな犯罪者がこの国で大手を振って住めるのか、誰か教えてください。

訪問日:2010年4月17日

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掛塚貴船(かけつかきぶね)神社 in 静岡県磐田市竜洋町

2019年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市掛塚に鎮座される「貴船(きぶね)神社」

御祭神は『高龗神(たかおかみのかみ)』 上に雨、真ん中に□□□、下に龍と書く「龗(おかみ)」は、龍の古語と云われます。
「古事記」には『淤加美』と表され、水や雨を司る『水神・竜神』として信仰されてきました。

由緒【本社の鎮座の年代は詳らかではありませんが、室町時代以前の創立と伝えられます。往古は多く「貴布祢明神」、または「貴布祢神社」と記し、又「木船、黄船」等の文字が諸書に見えます。天正4年(1576)に社殿の再建を行いましたが、この社殿は明治16年(1883)9月6日の火災に罹り境内樹木と共にすべて焼失してしまいました。 其の後、本殿は明治20年(1887)、拝殿及び幣殿は明治30年(1897)に再建されました。更に昭和10年(1935)には幣殿の増築を行い、昭和62年(1987)に御本殿鞘堂を創建され現在に至って居ります。】

拝殿の両脇より神域を守護されるのは、花崗岩制で大正6年9月生まれの狛犬さん一対。 折からの西日を受けて、阿形さんの全身は炎のように赤く染まり、さらに迫力が増しました。

お目当ての狛犬さんと対面出来て満足のご亭主殿(〃∇〃)

拝殿内に奉納された能面額。特に何らかの謂れは無さそうですが、もう少し正面から見たかったけれど、それが出来なかった理由が思い出せない。

貴船神社の境内には十一社の末社が祀られており、こちらはその一つで「末社:厳島神社」。 御祭神は『市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと))・湍津姫命(たぎつひめのみこと))』

本殿の裏手にはいくつもの摂社・末社が祀られていますが、迫る宵の気配に急かされました。 銅板葺の手水舎(水屋)の画像があるのは、側に防火用の井戸があったから。

「水」の文字に、自治体名も自治体章も無い「防火井戸」。明治年間、数度の火災に遭った歴史を思うと、神域にある井戸の存在はとても重要だったのではないでしょうか。

その昔、江戸~大坂の中間の湊として栄え「遠州の小江戸」とまで呼ばれた「掛塚湊」。当時の繁栄を今に伝える「掛塚貴船神社の祭礼」では、古くから伝わる山車が繰り出されます。
諏訪の立川一門、遠州の宮大工、尾張・三河地方の堂宮彫刻の技が施された豪華絢爛な屋台。 人ごみも、人並みの頭越しに爪先立ちするお祭見物も苦手ですが、豪華絢爛な屋台はこの目で直に拝見したい。

参拝日:2011年11月16日

 

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風祭山 福王寺(ふくおうじ) in 静岡県磐田市

2019年03月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市城之崎に境内を構える曹洞宗寺院「 風祭山:福王寺(ふくおうじ)」。遠州三十三観音霊場18番札所。御本尊は行基菩薩作と伝えられる重要文化財『聖観世音菩薩』

朱塗りの総門は3間1戸の薬医門で、寛文年間(1661~1673)に建立されたと伝えられます。 総門の両側には別に柵が立てられており、阿吽のお姿で仁王像が建立されています。

こちらの総門、大正3年に修理が行われたそうですが、もしかしてこの瓦はその時の物? 最初は単純に「鳥」程度の認識だったのですが、よく見ると阿吽を現す「松に鷹」の構図。 阿に相当する鷹は大きく羽を広げて飛翔しようとする形、吽の鷹は枝の間で羽を休めています。

総門をくぐり参道を進んだ先に、慶応4年(1868)に建立された「鐘楼門」

寺紋は「丸に竜胆(りんどう)車」。竜胆を用いた紋は、源氏にゆかりの深い紋としてよく知られています。

縁起に【福王寺は今から1000有余年前に真言宗高野山の末寺として建立。その後、500有余年前の文安元年(1444)に『天翁義一禅師』を迎え曹洞宗に改宗。爾来法灯連綿として現在に至っている古刹である。】

寺はまた、「遠江四十九薬師霊場客番」の霊場であり、「遠州七福神・福禄寿」の札所としても有名。

本堂の右手には「安倍晴明堂」。扁額には「清明大権現」。堂内には、陰陽師『安倍晴明』像が風神として祀られています。

古文書によると【寺の寺号「風祭山」と称する云われは、開創当時の永観2年(984)に遠州一帯に暴風が来襲した時、たまたま京都から諸国行脚の途次に来遠していた陰陽師『安倍清明』のご祈祷によって、暴風を鎮められ多くの人々の災難を救われたとある。このことによって福王寺の山号を「風祭山」と称し、それ以来、毎年3月8日に風祭りの行事が行われている】

ちょうど逆光でお堂の映りはいま一つですが、桟に施された「晴明桔梗印」はクッキリ! 一般的には「五芒星」の名で知られる「晴明桔梗印」、陰陽道の祈祷呪符としても有名です。

【 来る人も また来る人も 福の神 】睦まじい同祖神の姿に心惹かれて写した一枚。右の地蔵様もその得も言えぬ優しさに思わず手を合わせた一枚。

御詠歌 【かすみはれ みどりのそらも のどけくて はなやきのさき じひのはるかぜ】

参拝日:2016年12月15日

 

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淡海国玉(おうみくにたま)神社 in 静岡県磐田市

2019年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

2010年4月・2016年12月の二度に渡る「淡海国玉(おうみくにたま)神社」参拝。

磐田市見付に鎮座される「淡海国玉神社」。先日紹介した「見付天神」とは縁の深い神社で、主祭神は『大國主命』

由緒に【創立年代不詳なれども 延喜式神名帳所載式内社で あり、国史現在社で古来 当国鎮座国府総社と称す。朝廷並に武門武将の崇敬 厚く一條天皇正暦二年 依勅舞車の神事執行す】

「三間社流造」の本殿脇内陣には、遠江国磐田郡の式内社「御子神社(瓊々杵命・木花開耶姫命)」「御祖神社(鴨御祖神)」「須波若御子神社(須波若神)」の三社を合祀。
その他にも「熊野神社(速玉之男命・事解之男命・伊邪那岐命)」「浅間神社(木花開耶姫命)」「御霊神社(御間城入彦五十瓊殖天皇)」「山神社(大山咋神)」「智満稲荷神社(宇迦之御魂命)」「神明神社(天照大神・豊受大神)」「赤髭神社(赤鬚神)」「三神社(須佐之男命・豊受大神・迦具土命)」「本宮神社(大己貴命)」の九社を合祀。
また、明治期に存在していた境内社「春日神社」「八幡神社」「稲荷神社」も、現在は本殿に合祀されているそうです。

石段参道の途中、手水舎の隣にあるのはかっての「神の井」と思われますが、重石代わりにしているのは、どう見ても灯篭の台座・・・

反対側の柵の中には大切に保存されていると思われる石灯籠。丁寧に作られた囲いから想像できるのは、よほど古い年代の奉納か、もしくは名のある人物の奉納か。

御神門の向こうには気持ちよい空間が広がり、市文化財に指定された社殿が見えています。

拝殿前左右より神域を守護されるのは、「因幡の白兎」と『大國主命』の神話にちなんだ狛兎一対。それぞれに仔兎と鞠をもっています。ちょっと可愛いと思ったのは、仔兎にも紅白の紙垂(しで)が掛けられていた事(^-^)

文久3年(1863年)の造営になる拝殿は立川流の棟梁「昌敬」の遺作として有名で、特に向拝の「子持ち龍」・貫の「獅子」などの彫刻が有名なのですが・・、文化財保護のためにネットが掛けられており、画像では今一つ。

そんなため息が聞こえたのか(笑)、貫の獅子だけネットからはみ出しており、精悍な表情までも読み取る事ができました。

本殿(附 棟札5枚)は、明暦3年(1656年)頃の造営で、2015年12月8日に静岡県指定有形文化財。幣殿・拝殿は文久3年(1863年)の造営で、2016年3月28日に磐田市指定有形文化財に指定。広い境内の中にゆったりと座す神の社、見える景色の全てに神の息吹が感じられる美しい場所です。

参拝日:2010年4月18日&2016年12月15日

 

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矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)~其の二 in 静岡県磐田市

2019年03月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「霊犬神社」への参拝も済ませる事が出来ました。それでは再び「矢奈比賣神社」の境内へと戻ります。 別名「見付天神」の天神様と言えば学問の神様、学問の必需品「筆記具」が収められた「筆塚」は天神社の必須アイテム。

「印塚」というのはあまり見かけませんが、使わなくなった「印鑑」が収められているのでしょうか?。

「遠江国風土記伝」に【天神山の中に雷塚あり】の記述がありますが、この地がそうでしょうか? 天神様は自在に雷を操ったとされています。草に覆われた「雷塚跡地」は、もしかしたらその伝説の地かもしれません。

「大神宮遥拝所」と書かれた建物。「大神宮」とは「伊勢神宮の宮号(きゅうごう)」の一つ。一般的には碑を建立して玉垣などで囲む形式が多く、こうした建物があるのはちょっと珍しいです。

毎年8月13日に行われる「梅之湯祭」は、一年間おなかの病気にかからないようにと祈るお祭。 「梅之湯御霊水之井戸」の水を釜で沸かし、鉄分豊富な「梅の湯」を頂いてお参りします。

拝殿近く、天空に向かって両手を広げるように聳える御神木は、樹齢およそ400年の「桧」の巨木。 思わず見上げてしまうのは、桧の持つ清清しい力がそうさせるのか・・青い空に良く似合います。

御神木の側には沢山の絵馬が奉納されており、ヤマハ・ジュビロの選手たちの大絵馬も。必勝祈願の文字を中心に書き込まれた選手たちの名前を見ていると、変なイデオロギーは無いようで何となく笑顔になる自分がいます。

板塀と注連縄の結界で守られた「御池」は、例祭の折に神事に使用される重要な場所。 池の中央に「神籬(ひもろぎ)」を立て、「天神地祇(てんしんちぎ)」を御招きするのです。
「高天原の天つ神」「豊葦原の国つ神」すべての神々を指し示す「天神地祇」。 理由は不明ですが、このような「御池」を用いた神事があるのは、他に「伊勢神宮」のみだそうです。

『少彦名命』『言代主命』『闘鶏稲置大山主命(つげいなきおおやまぬしのみこと)』を御祭神とする「氷室神社」
「闘鶏稲置大山主命」は古墳時代の豪族とされ、奈良の「氷室神社」の御祭神にも名があります。 「日本書紀・巻第十一」に「応神天皇」の皇子である『額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのおうじ)』に氷室とその用途を教えた人物として登場します。

境内の御神木ほど目立ってはいませんが、いわゆる「夫婦杉」と呼ばれる二股の杉。 このように根元部分から二つに分かれた杉というのは、全国各地の寺社でかなり頻繁に目にし、ほぼ98%の確率で「夫婦杉」と呼ばれます(^^;)

朱塗りの鳥居が見えてきたところで、最期は「住吉神社」の参拝でおしまい。 御祭神は住吉三神:水の神である『表筒男神(うわつつのおのかみ)・中筒男神(なかつつのおのかみ)・底筒男神(そこつつのおのかみ)』

参拝日:2016年12月15日

 

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霊犬(れいけん)神社 in 静岡県磐田市

2019年03月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

矢奈比賣神社の社務所から裏手に回り、裏参道の鳥居から境内を出た先に広がる「つつじ公園」。

その突き当たりに近い、磐田市見付に鎮座される「霊犬神社」。御祭神は『霊犬・悉平太郎』

社殿はこじんまりとしていますが清掃が行き届き、地元の方々に大切に守られている事が伺えます。

【昔、見付村では田畑を荒らされないように毎年祭の日に白羽の矢が立てられた家の娘を生贄(人身御供)として怪物に捧げていた。旅の僧が怪物の正体を暴こうと、祭の夜に様子を窺うと、「信州の悉平太郎(早太郎)はおるまいな?」と悉平太郎という人物を恐れている様子。さっそく、信州の悉平太郎を探したところ、光前寺に飼われている犬であった。
次の祭の日、悉平太郎を借り受けて娘の身代わりとすると悉平太郎は怪物:大狒狒(ひひ)と一晩中戦い続け、ついにこれを退治。悉平太郎は傷つきながらも光前寺までたどり着き、一声吠えて息絶えたとも、当社境内で死んだとも言われている。】
霊験伝説より

霊犬伝説に関してはいくつかの伝説を読みましたが、実はどれを読んでも非常に気持ちに棘が残る箇所があります。
【魔物を退治した悉平太郎、その傷ついた体で信州の光前寺までたどり着き、一声吠えて息絶えた・・】
死闘を繰り広げたんですよ、この見付の村人のために!。信州までどれだけの距離が有るか分かっているんですか!!何故手厚く手当てしなかったんでしょう。 魔物が退治されて喜ぶ前に、傷の手当をしてから丁重に送り届けるのが、恩人(犬)への最低限の礼儀じゃないですか(>_< )!!

と・・伝説に噛み付いても仕方ないですが(^^;)、光前寺の境内には「悉平太郎」のお墓があります。 偶然ですが、この物語を知る二年半前に、長野の光前寺で「早太郎(悉平太郎)」の事を知りました。
そこは、息をするだけで浄化されそうな深い緑の境内・・その涼やかさを思い出すとき「きっと早太郎はこの地で逝きたかったんだ・・ 自分の命運が尽きる前に、懐かしい故郷で、大好きな和尚さんに最期の別れを告げたかったんだ・・」と思い至るのです。

完全「猫派」の私ですが、決して犬が嫌いなわけではなく、単に苦手というだけの事。 たんなる伝説かもしれない「悉平太郎」の物語に、ついつい感情移入してしまいました(^^;)
磐田市のマンホールカードにもなった『しっぺい』は、『悉平太郎』をモデルに生まれたキャラ。 境内には凛々しい「悉平太郎像」と共に、心眼成就の提灯を掲げる『しっぺい』の絵馬もあります。

さらに「裸祭」の顔出しにも登場した『しっぺい』の提灯は、「祭組」を表す大事なアイテム。 祭の正装は「晒布の腹巻と褌(ふんどし)」「腰蓑」、頭には祭組の「印手拭の鉢巻」。さっそうと繰り出す男衆の中に白い耳が見えたなら、それはきっと『しっぺい』君。

参拝日:2016年12月15日

 

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矢奈比賣(やなひめ)神社(見付天神)~其の一 in 静岡県磐田市

2019年03月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市見附に鎮座される「式内社・矢奈比賣(やなひめ)神社」

御祭神は、安産・子宝・子育て・縁結びの御神徳持つとされる『矢奈比賣大神』。相殿に『菅原大神』を祀り、通称「見付天神」とも称されます。
「あと押し坂」と名づけられた些か勾配のきつい坂道には一の鳥居、その先に朱塗りの第二鳥居。

参道脇の境内社「山神社」には、『大山祇神・高龗神(たかおかみのかみ)・軻遇突知神(かぐつちのかみ)』。 ここは裸祭りの神輿が町を練り歩いた後、祭りをお開きにする為の禊を受ける大切な場所。

濃い影を落とす緑の参道の向こうには鮮やかな朱の鳥居と、「見付天神」の鳥居額。

由緒に【矢奈比売天神社の創立年月は、詳(つまび)らかではありませんが、延喜式内社に列しており、古くは市内元天神の地に祀られておりました。いつの時代にか現在地に奉遷されましたが、その年月は詳らかではありません。~中略~相殿菅原大神は一条天皇正暦四年(993)に勧請奉祀されております。】

入母屋造の拝殿、その扁額にも、二の鳥居と同じく「見付天神」の書。

拝殿前には一対の「願掛け牛」、体に触れながら願いをするのですが・・この牛「雌」ですって。 と言うことは、もう一方は「雄」・・・阿吽はよく見聞きしますが「雄・雌」の神牛さんと言うのは初耳 (^^;)(^^;)

流造の本殿は、前からでは屋根だけですが、後ろからはその綺麗なお姿が良く見えます。

前後しますが、二の鳥居の脇には忠犬として有名な「悉平(しっぺい)太郎像」

『悉平太郎』の姿をもう少し鮮明に写したいのですが、逆光でどうしても黒くなってしまいます。 実際の色はこんな風に赤茶けたものではなく青銅色ですが、雰囲気はばっちり(笑)
伝説の内容は「悉平太郎伝説の紹介」に詳しく紹介されているので、そちらをご覧下さい。

「悉平太郎像」の前には、「国指定重要無形民俗文化財 見付天神裸祭」の碑。

祭りは毎年9月頃、当神社の御神霊が遠江国魂総社・淡海国玉神社へ渡御する際に行なわれます。 御神霊の渡御に先立ち、裸の群衆が見附地区内を練り歩き、神社拝殿で乱舞する事からこの名がつけられました。
一説には、魔物退治に喜んだ村人が裸で踊り出した事が、裸祭の始まりだとも云われています。

明日は順番を変えて、「矢奈比賣神社」の奥に祀られる「霊犬神社」の紹介です。

参拝日:2016年12月15日

 

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