車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

旧赤松家記念館 in 静岡県磐田市見付

2019年03月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

明治期、横須賀造船所長、海軍造船会議議長、明治22年(1889)に開庁した佐世保鎮守府の初代長官などの要職を歴任し、日本造船の父と呼ばれた「海軍中将男爵:赤松則良(のりよし)」

磐田市見付の県道44号線沿いには、煉瓦造りの門構えが目を引く「旧赤松家住宅」が「旧赤松家記念館」として一般公開されています。

切妻屋根門の右建物は供待(ともまち)用。同じく切妻屋根門の左建物は門衛(もんえい)所として使用。

記念館には『勝海舟、榎本武楊』らに関する幕末から明治期にかけての資料や、徳川宗家十五代・慶喜公や、十六代・家達公などに関する文化財が展示、保存されており、また有料ですが磐田茶の一服も楽しめるそうです。

こちらは旧赤松家の内蔵で、一階は個人や団体等の作品展示スペースとして利用されています。

台所の洗い場として使われていた水屋。壁全部がレンガ造りの為か、まるで異国の風景を思わせる佇まい・・

ここに小テーブルと椅子を置けば、格好のBBQスペースになりそう(^-^)

こちらの建物は、明治20年代に建てられた土蔵の一つで、米蔵として使用されていたもの。現在は企画展示室として一般公開されています。

半円の窓が設けられた煉瓦と漆喰の壁・・単に間仕切りの壁なのか、後ろに何かの建物があったのか不明(^^;)

庭園の一角に設けられていた貯蔵庫と思われるもの。折角傍らに説明があったのに・・・多分、HPで検索すれば分かるだろうと思ったのが失敗のもとでした(-_-;)。

この歴史的な旧跡は、たまたま別の場所に向っている時に見かけ、急遽車を停めて貰って見学。とにかく大急ぎで目に付いたものだけを画像に収めたという、私としては非常に不本意な訪問。本当なら資料館の中も、建物の細部も見たかったのに・・・駐車場もあり、声もかけたのに・・なぜ一緒に来てくれなかったのか、思い出すたびに後ろから蹴りを入れたくなる・・歴史的建築物の見学になりました(笑)

訪問日:2010年4月18日

 

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旧見付学校 in 静岡県磐田市

2019年03月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

磐田市見付にある白亜の5階建ての洋館風建築・・・「黎明期の時代に建築された日本最古の小学校。」このフレーズだけでもう心を鷲づかみにされた私。時間にせかされないようにと、朝一で訪問を果たしました。

「磐田市のシンボルともいわれる建造物、「旧見付学校」は明治5年(1872)の学制発布を受け、翌年8月に宣光寺、省光寺などを仮校舎として開校しました。新築工事は、名古屋の堂宮棟梁 伊藤平右衛門(後の9代目伊藤平左衛門)に委嘱し、明治7年(1874)10月に工事着手、翌年1月11日に上棟式を行い8月7日に落成、開校式が挙げられました。」磐田市観光協会HPより

【開館時間】午前9時~午後4時30分  入場料・無料(こんなに凄い文化遺産なのに!?)。開校を祝って浜松県令・林厚徳から寄贈された入口の扁額。

【木縄を受くれば則ち直く、金礪(きんれい)に就けば則ち利(するど)し(曲がった木も墨縄を当てて切ればまっすぐに切れ、金物も砥石で磨けば切れるようになる)

館内には教育資料の展示や授業風景が再現されています。

先生の話を一生懸命聞く子供たち、音読をする級友、その中に混じって違和感が無い私って・・(^^;)

昔の校長先生って威厳があったんだなって思う一場面。こういうのを見ると「形」と言うのは大事なんだと思わさせられます。

ちゃぶ台を机代わりにして勉強をする子供。傍らでは飼い猫のチャ~ちゃん(勝手に命名)が遊んでくれるのを待ってます。

当時の小学生の子供たちが学ぶ教科書の文章の、なんと綺麗な日本語。「お母さんがおっしゃいました」などという美しい言葉、今の子供たちに使えるでしょうか?否、そのような美しい日本語を、今の教師たちが知っているのでしょうか?そんな事を、ふっと思って「ああ、私も年を取ったんだ・・・」と苦笑い(笑)

建物の五階は太鼓楼として使われており「伝:酒井の太鼓」が展示されています。三方原の合戦の際、浜松城で『酒井忠次』が打ち鳴らしたと伝えられている太鼓だそうです。

教育関連の資料以外にも、郷土の歴史・民俗に関するもの等、興味深いものが目白押し。

学校の北側には「磐田文庫」と呼ばれる二階建ての蔵があります。淡海国玉神社の神官で国学者であった『大久保忠尚』が自宅で私塾を開き、図書館として、境内に磐田文庫を創設。その後の明治12年、建物と蔵書のすべてが見付学校に寄贈されました。

一通り見学したところで名残惜しくも「旧見付学校」とはお別れ。最後にもう一度建物の全体像を目に納めるべく周囲を一周。

改めて見上げる正面玄関の美しさに感動しつつ・・

係りの方の優しいお申し出に甘えて、三人一緒の記念写真

訪問日:2010年4月18日

 

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周智(しゅうち)郡役所と遠江一宮駅 in 静岡県森町

2019年03月18日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

森町森の「蓮華寺(れんげじ)」境内にある、「森町歴史民俗資料館 旧・周智郡役所(しゅうちぐんやくしょ)」。 現存する明治前期の郡役所の建物としては県内唯一で、森町指定文化財となっています。

【もとは現・森小学校の校庭にあり、明治18年(1885)、地元森町・上山梨の大工『本間藤四郎』ほか6名によって建てられました。その後、地方事務所として使用され、また商工会が使用し、昭和49年(1974)には「森町立歴史民俗資料館」として現在地に移築されました。】現地案内より

じつはここに来るまで、「旧・周智郡役所」がお寺の境内にある事を全く知りませんでした。 さらに、内部の見学が何時でも可能では無いことも、現地に来て玄関の張り紙で初めて知りました(-_-;)。
だから、建物の片隅に整然と並べられた沢山の「五輪塔」を見た時は、ちょっと吃驚。

【戦国時代、武田軍と徳川軍の合戦により三十六坊の堂宇を焼失、多くの戦死者の慰霊の五輪塔なり】

敷地内の一画に建立されていた風吹梢作聲(村松 梢風)」碑

生憎と「正伝清水次郎長」の作者である事、また新派の演目として有名な「残菊物語」の原作者である事くらいしか存じ上げなかった方。森町の飯田地区には彼の生家跡が残されているそうです。

時間的なものもあって、本家(?)である「蓮華寺」には足を踏み入れなかったのですが・・ 資料を調べるために確認したら「遠州三十三観音霊場・一番札所」との事、特別にお寺好きという訳では有りませんが、ここまで足を運びながら、勿体無かったかな・・。

訪問日:2011年11月16日

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二度目の訪問となった森町ラストは、「遠州の小京都」と書かれた大看板が出迎えてくれる、天竜浜名湖鉄道・天竜浜名湖線「遠江一宮駅」

昭和15年6月1日に鐵道省二俣線所属駅として開業した「遠江一宮駅」。現在の駅舎はその時に建てられたもので、かっては「小國神社」への参拝客で賑わっていたと言いますが、今は無人駅になって随分と静か。

決して鉄道駅が身近ではなかった筈の私なのに、何故か古い木造の駅舎は郷愁を呼び起こします。 こんな風に古い、不思議に懐かしい木の匂いのする待合室に座って、オレンジと緑の電車を待っていたのは幾つの時だっただろう・・・。

遠くに見える電車に目を輝かせて、待合室の父や母を呼んでいたのは・・あれは幾つの私だろう。 そんな懐かしさを呼び覚ます「駅舎・上りプラットホーム」は、2011年に国の有形文化財として登録。

ああ、電車が入って来たよ!見知らぬ色合いの電車だけど、それでも何故か懐かしい。初めての町、初めての駅で見る初めての電車なのに・・変だね。

大国様と白兎が、お出迎えもお見送りもしてくれる「遠江一宮駅」。ほんのつかの間の旅人気分を味わったなら、さて、そろそろ森町ともお別れ。

ここでも記念写真はJさんと

また是非おいで!!と・・誰かに声をかけられたような気がして辺りを見回せば、なんだ「森の石松さんじゃないですか(^-^)。あれぇ~山頭火さんまで! ステキな時間をたくさん、有難うね~」

訪問日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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小國(おくに)神社~其の三 in 静岡県森町

2019年03月17日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

小国神社~其の三のスタートは、参道左手に見えて来た「神幸所」。しっとりと苔に覆われ、大木に囲まれた神域は、一年に一度、4月の御例祭の時だけ、御祭神が神輿にのって渡御される聖地。

遠江國一宮の境内には、全国一宮の御祭神73柱が祀られる「全國一宮等合殿社」が鎮座されます。かつては73柱の神々を祀るお社が境内各所にありましたが、明治初年の火災により焼失。 その後は「八王子社」に合祀されていましたが、1989年に独立の境内社として再建されました。

二の鳥居近くには、樹齢1000年とも伝えられる御神木の、「大杉」の根元が大切に保存されています。 約400年前の慶長の古図にも記された御神木でしたが、昭和47年の台風で折損してしまったとか。

大きな袋を肩にかけた大国様が、因幡の白兎と出会い、傷を癒す有名な場面が描かれた御祭神の案内。出雲の国造りの神様は、少年のように涼やかなお姿。太鼓腹でも無いし、頭巾も被ってなければ、米俵を踏みつけたりしない。ついでに打ち出の小槌も持っていません(笑)

それでも、奉納の絵馬はやっぱり「打ち出の小槌」。まぁ・・本家の出雲でさえそうなんですけどね。

御祭神「大己貴命(だいこくさま)」の御神宝で、招福・縁結びの「大宝槌(おおたからづち)」
この文章は、公式HPに記載されていたもので、決して私の本意ではありません (ーー゛);  と、しつこく!『大国主命』と『大黒天』は別の存在なのだと、個人的に拘り続けてます。だってね!!大黒天はヒンドゥー教の主神の一柱で、青黒い身体をもつ破壊神「大自在天」の別名なんですよ!!絶対に同一神じゃない!! (>_< )

さて、静岡と言えば行く先々で何度も『徳川家康』の名前を目にしました。実はここ「小國神社」の境内にも「家康の立上がり石」なるものが大切に保存されています。
天正2年の犬居城攻略の折「小國神社」に参拝した家康が、この石に腰かけて休息したんだとか。 日本各地に残る「○○の腰掛石(岩)」、誰がそれを見て、言い伝えてきたんでしょうね(笑)

こちらは「2011年森町民俗芸能・民俗行事公開大会」で、勅使役を勤めた県知事が詠んだ歌碑。

【しきしまの やまと想ほゆ 森町の 小國神社に 勅使出で立つ】

大宝元年(701)の勅使参向の際はここで下馬されたとか。歌碑の後ろには「駒止めの杉」が見えます。

「宮川」にかかる朱塗りの橋、それを更に赤く染めあげてゆく、約千本のもみじの紅葉・・ この画像は2011年の参拝の折に写したものですが、惜しいことに駆け足で眺めただけで、いわゆる紅葉狩りには無縁。

せっかくの紅葉の季節、しかも名だたる紅葉の名所に来たというのに、今思えば間が抜けてますが・・・まぁ、目的は神社参拝だったのだから・・。

二度目の小国神社、女同士の連れがいると、参拝を終えた後の境内や付近の散策はまるっきりの観光気分。御朱印も頂いたしという気持ちがあるからか、多分これで終わりという名残惜しさゆえか・・・
参道の入り口付近にある「小國ことまち横丁」の店舗内には、らしいものからそうでないものまで色とりどり。 旅の楽しみは素敵な景色、楽しい時間、珍しい物・・そして待つ人を思いながらのお土産選び。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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小國(おくに)神社~其の二 in 静岡県森町

2019年03月16日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日に続いての小国神社境内の案内、~其の二では鳥居を潜った先から順を追っての紹介です。

神橋を渡り、深い緑の参道をすすんだ先に鎮座される、末社「飯王子社(いいおうじしゃ)」。 御祭神は『保食神(うけもちのかみ)』、旱魃(かんばつ)への祈願を行う為に祠を建てたのが創建とされます。

樹齢数百年の杉並木の中に続く自然道は「勅旨参道」。勅使とは朝廷や君主が出す使者のこと。勅使参拝の際に使用した専用の参道跡で、一般の人は通行できません。

神前に進む前に穢れを清める手水舎。手水の「16菊花紋章」が朝廷との縁の深さを物語っています。

参道途中、緑の腕(かいな)に抱かれるように鎮座されるのは、「鉾執社(ほことりしゃ)」。 「鉾執」とは「仲立ち」を意味し、神社に奉仕された代々の杜家・神人の御霊が祀られています。

木立の隙間から漏れる光を反射してキラキラとゆらめくのは、鏡池とも称される「事待池」。 朱塗りの太鼓橋が池の面に映り込むさまは、俗界から遠く離れた神の領域にも思えて・・。

神社に願い事を祈願して事のままにじっと待ち、願いが叶ったらお礼に池に鯉を放つ・・ 事のままに待つ池・・「ことまち池」と呼ぶそうで、分かったような、分からないような(^^;)
更に池の水を汲み、「いぼ」に付けると、「いぼ」が取れるので「いぼとり池」とも・・・なんかいきなり現実的になりました(笑)

朱塗りの太鼓橋を渡った正面に鎮座されるのは「八王子社」。御祭神は、天照大神と素戔嗚尊の誓約時に出現したとされる『五男神・三女神』。 さらに、天地開闢の最初にあらわれた造化三神の一柱で、神稲を植える土の神『国狭槌命(くにさづちのみこと)』

「八王子社」の隣に鎮座されるのは「宗像社」。御祭神は『田心姫命・田霧姫命・市杵嶋姫命』。女性守護の神で水神とも称され、御祭神は『宗像三女神』と称されることもあります。

朱塗りの橋と対を成す陶器製のきらびやかな橋は、2011年6月に設置された「事街(ことまち)橋」。 同行の友人と二人、「なんかイメージが・・・」「だよね~」などと言いつつ、しっかりツーショット(笑)

こんな調子では、拝殿に辿り着くのはいつの事になるのやら(笑)。崇敬篤い方々にはお叱りを受けそうですが・・・。
という事で続きはまた明日・・・大きな神社はどうしてもこのパターンが多いねぇ~(^^;)(^^;)(^^;)

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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小國(おくに)神社~其の一 in 静岡県森町

2019年03月15日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

森町一宮に鎮座される「小国(おくに)神社」。式内社で、遠江国一宮。

願い事が意のままに叶う神社「事任神社(ことのままのかみやしろ)」として広く知られます。

社名の「小国」は、出雲の「大国」に対する遠江の美称とされ、紅葉の名所としても有名。 御祭神は『大己貴(おおなむち)命』で、国津神の最高神とされる『大国主命』と同一神です。

【創祀は神代と伝へられ上代のことは詳でないが、社記によれば人皇第二十九代欽明天皇の御代十六年(557)2月18日、本宮山に御神霊が出現せられ奇瑞あり天聴に達し、勅使を差遣せられ社殿を造営し正一位の神階を授けらる。第六十代醍醐天皇の延喜七年(907)に勅して、社殿を改造せられ延喜式内社に列す。】由緒より

二の鳥居から真っ直ぐ、参道正面に建つ木造大社造桧皮葺の拝殿は、明治19年(1886)の造営。 清流宮川のほとり、本宮山の山麓に抱かれるように、美しい姿で参拝者たちを出迎えてくれます。

残念ながら大社造の御本殿を垣間見る場所は無く、拝殿の後方にわずかに屋根が見えるのみ。

拝殿右手前には、2003年に『秋篠宮両殿下・妃殿下』が御参拝された事を記念した碑が建立されています。 「お遊びのみ皆勤」できる便利な体調の波を持つ誰かと違い、心から御尊敬申し上げます。

拝殿右には、明治19年(1886)に造営された、桧皮葺・木造入母屋向拝付の「幣殿」

桧皮葺・木造入母屋造の「舞殿(ぶでん)」では、「田遊神事」「十二段舞楽」が舞われます。 二つの神事は昭和35年に県無形文化財に、2007年には国重要無形民俗文化財に指定されました。

杉の巨木に見守られるように続く参道は、ただよう空気までもが深い静寂の色。「小国神社」の境内には、まだ多くの素晴らしい建物や見どころが有りますが、それはまた明日。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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可睡斎(かすいさい)~其の三 in 静岡県袋井市

2019年03月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

境内から護国塔へと向かう一画に、「勅題・海上風静」と刻まれた歌碑。帰宅後に調べたところ、昭和2年(1927)の歌会始の儀で出されたお題だとわかったのですが・・実はこの年の歌会始の儀は『大正天皇』大喪儀の為に中止されており、お歌は公表されていません。この歌碑がその時に詠まれた誰かの歌なのか?・・文字の判読も出来ない今はただ謎のまま。

境内の外れに建つ「まとい殿」は、第51世可睡齋斎主によって昭和12年に建築。設計者は、『伊東忠太』の弟子で、内匠省技手(宮内省内匠寮)などを務めた『金子清吉』

「まとい殿」の中には、遠州一帯の地域に受け継がれてきた「まとい」がズラリと奉納されています。 火伏鎮護の威徳を持つ秋葉総本山において、これほどふさわしい奉納の品は無いかもしれません。

山門まで戻って改めて境内にご挨拶ですが、そうそう、「おさすり大黒様」を忘れてました。 一さすりで福を招き 、二さすりで徳を授かり 、三さすりで満足を戴く・・どれほどの数の手が行き来したのか・・お腹のあたりはピカピカのスベスベ(*^^*)

2011年9月21日、台風15号は強い勢力を持ち浜松付近に上陸し、袋井市内でも猛威を振るいました。 可睡齋では、白山権現堂の堂宇が倒木で全壊したのをはじめ、全山での倒木は78本にも及びました。11月の参拝の際に見かけた、伐採された木々の真新しい切り口・・今も痛々しく思い出されます。

そんな事情があって立ち入る事ができなかった「白山堂」、2016年に改めて参拝。【永平寺開祖道元禅師が宋の天童如浄禅師につて開悟され帰朝される前夜、碧巌録を筆写していると、白山妙理大権現が現れ助勢された(一夜碧巌)禅師はその奇瑞を歓び帰朝後終生白山妙理大権現を祀られた。】案内版より

「白山堂」の奥、水行池から放生池を経て水が流れる水路のほとりにある「弁天堂」。 祀られる『弁財天』は招福の神として、また水の女神として信仰され、七福神の女神としても有名です。

『秀甫(しゅうほ)』・皇紀二千六百年立春・八十翁。【日の本は 神代ながらの 山さくら】、静岡県森町文化財の句碑が何故ここにあるのかは謎。

門前町に向かう一画には「東陽軒」と呼ばれる地蔵堂があり、二体の観音様が奉納されています。
『恕仲天誾禅師』が座禅中に、毘沙門天のお告げに従い、久野城外の松樹下の大通庵のそばにお堂を建てたのが、可睡斎始まりの地「東陽軒で」す。 今の東陽軒は1985年に観音堂を移築した堂宇になります。

「東陽軒」の屋根の上から私たちを見下ろしているのは『恕仲天誾(じょちゅう てんぎん)禅師』でしょうか? 一般的な仙人や神仏とはちょっと一線を画した風体、改めて見ると、確かなモデルの存在を感じさせます。

2011年、2016年と清清しい姿で私たちを出迎えてくれた可睡斎総門・・ところがそれから二年後・・・
2018年10月1日、台風24号により可睡斎の総門が全壊・・そのニュース画像に唖然としました。 この時の台風では、突発的な竜巻の通り道となった我が家も、かなり大きな被害を受けました。それでもまさかあの総門が・・
平成以降の、飽く事を知らぬ災害の多さ・・只々、国の安らかなる事を祈るばかりです。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

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無残な総門のニュース画像で締めくくった可睡斎のブログですが、2019年11月、曹洞宗の名刹、総持寺の総門を参考に2019年11月末に再建されたと聞きました。小さな縁ですが、それでも見知った場所の朗報は嬉しいニュースです。

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可睡斎(かすいさい)と護国塔 in 静岡県袋井市

2019年03月11日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

「三尺坊」のあれこれにに未練を残しながら(笑)、「可睡斎」の境内を巡りたいと思います。 「秋葉総本殿」の裏の階段を登り詰めた先に、『不動明王』を本尊とする「奥の院」

かってこの場所には、朱塗りの荘厳な奥の院がありましたが、2006年12月の火事にて全焼。 当時付近一帯には不審な火災が相次ぎ、奥の院の出火も放火の疑いが濃いといわれています。神仏のおわす地に放火・・・日本人の感性とは思い難い所業に、思わず絶句・・
失われた奥の院の面影は片鱗もありませんが、不動明王は姿を変えて今もこの地に座しています。

2016年12月の参拝では、「秋葉総本殿」の下に「火渡り」の場が作られているのを見ました。 この地は秋葉の火祭りの一つで、行者による護摩炊きの後に「火渡りの行」が行われる場所。 火の中を渡る事で、一切の災火災難が除かれるとされ、参加者も素足になり火の中を渡ります。

本堂前にある「勝軍(しょうぐん)地蔵」は、甲冑を身につけ、武器を持った姿で表わされます。 念ずれば、戦いに勝ち、宿業などを免れるといわれ、特に鎌倉時代以降、武家たちに多く信仰されました。
明治6年の廃仏毀釈の際に秋葉寺から遷座。願い事がかなったら、石を持ち来て奉納するそうです。

本堂近くに建立された愛らしいお地蔵様には、まるで幼子のような赤い頭巾の奉納。 地蔵様に刻まれた【念ずれば花ひらく】は仏教詩人『坂村真民(しんみん)』の詩句。

【 苦しいとき 母がいつも口にしていた このことばを  わたしもいつのころからか となえるようになった  そうしてそのたび わたしの花がふしぎと ひとつひとつ ひらいていった 】

鎌倉時代初期の禅僧『道元禅師』の言葉に【 花開けば必ず真実を結ぶ 】があります。 期せずして対を成すように感じたのは、詩人の言葉が胸深くに染み込んでいった所為でしょう。

同行者の「危ないからダメ!」の制止に聞こえないふりで向かったのは、急傾斜の石段の先。 ここは12歳で近江佐和山藩主となり、後に上野安中藩初代藩主となった『井伊直勝』の墓所。『井伊直勝』といっても誰??ですが、彦根城を築城した大名と聞かされると何故か親近感UP! (^^;)

墓所の近くには、明治33年に『日置黙仙』によって建てられた「活人剣(かつにんけん)」の碑。 私たちが訪問した時は、碑と活人剣の台座、それにまつわる写真つきの案内板があっただけ。曰く活人剣とは、柳生宗矩が提唱した思想「本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い『活かす』ための手段となる」、太平の世における剣術の存在意義を新たに定義したものと言われています。

可睡斎の境内のさらに奥に建立された、ガンダーラ様式の白亜の「護国塔」。「可睡齋」山門の設計に関わった、東京帝国大学教授『伊東忠太』の設計で建築されました。

高さ17.1メートルの鉄筋コンクリート造りの搭に、人造石洗出し仕上げの円形ドーム。 塔に上がる階段には伊東忠太氏の手になる一対の神獣が配置されており、上部にはアーチ型の入り口。 先端には、チベット風とも言われる法輪を伴った塔が、天に向かって伸びています。

エンタシスの柱上には、牛馬に似た不思議な動物の彫像が、はるかな下界を見下ろしています。

「護国塔」は日露戦争後の明治44年(1911)、戦没者八万人余りを慰霊する為、この地に建設されました。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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秋葉総本殿三尺坊大権現~其の二 in 静岡県袋井市

2019年03月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日の続きで「秋葉総本殿」の紹介ですが、今回は「御真殿」の参道入り口から。 石段の上り口左右にあって神域を守護されるのは、明治8年(1875)8月生まれの狛犬さん一対。

2011年の参拝では、9月21日の台風15号による石灯籠などの倒壊で、付近は補修工事中。 重機のそばですが、休憩時間を利用しての撮影、きちんと了解を得ました。
2016年の参拝で、改めてその素晴らしい神獣さんと対面できて、ご亭主殿の喜びもまた格別。

まるで手招きしているように右手を上げる阿形さん、でも一体誰に手招きしているんでしょうね。

 

どうやら手招きの相手は向かいにいる吽形さんみたいですが、なぜかそっぽ(^^;)

で・・・二対を並べてアテレコ(笑)「なぁなぁ、絶対にバレないからさぁ、ちょっとこっちに来いよ~♪」「いや、誰か来たらまずいし・・・・」
さしずめ、「積極的でいたずら好きな阿形さんと、慎重派で優等生の吽形さん」、一体何を企んでいたのか(笑)。

参道の石段の途中では「鼻高天狗」「烏天狗」が参拝者を出迎えてくれます。

 

「鼻高天狗」は山伏姿で羽団扇を持ち、赤ら顔で鼻が高く翼があり、空中を飛翔するとされます。

「烏天狗」は「鼻高天狗」と同じく山伏装束で、烏のような嘴と翼をもち、剣術に秀でています。 一説には、人間が「鼻高天狗」になる途中の姿とも言われていますが、他にも諸説あり、一概には言えないようです。

ここ秋葉総本殿において『秋葉三尺坊大権現様』は「鴉天狗」の姿で現され、それ以外はすべて眷属として従うもので、公式HPにも「鴉天狗」の姿で紹介されています。

拝殿内には所狭しと「烏天狗」や「鼻高天狗」の面が奉納されており、その数に驚かされます。

とは言え圧倒的に多いのは、やはり「鼻高天狗」。天狗と言えばこの顔が定着しているようですね。

今は禁止されている拝殿内一面の千社札、きっとどれもずいぶん昔のものでしょう。お札の前には生涯で12万体あまりの仏像を作ったという『円空上人』作の、小さな円空仏も奉納されています。

壁からそのまま上を向けば、格子天井には百花の牡丹を中心に、様々な草花。 一つ一つ紹介していけば、其の二十くらいまで余裕で続きそうなので、これくらいで終了としなければ(ーー゛);

明日はまだ紹介していない史跡や堂宇などを・・・って、本当に何時まで続くんだろう?(^^;)

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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秋葉総本殿三尺坊大権現~其の一 in 静岡県袋井市

2019年03月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

火防守護の総本山として知られる「秋葉総本殿」。日本で唯一『三尺坊様御神体』が祀られます。

「可睡斎・本堂」の左手にある石段参道を上がった先が「御真殿」と呼ばれる「秋葉総本殿」

黄金色に輝く「秋葉総本殿」の扁額は、『有栖川宮幟仁(たかひと)親王』の御宸筆。 拝殿幕の社紋は「剣花菱」で、社伝によれば『武田信玄』の寄進と伝えられています。
武田の軍勢に追われた家康を匿って10万石の知行を得た「可睡斎」と、信玄寄贈の「剣花菱」。事実、奥には「三つ葉葵」の幕紋が染め抜かれているそうで、何となくむず痒いような・・微妙な感覚(^^;)

【秋葉総本殿可睡斎にお祀りしてあります秋葉三尺坊大権現様は、今から1300年の昔、越後蔵王権現堂の12坊の1つである三尺坊という僧坊で厳しい修行を重ね、秘密奥義を極めて神通力を得、観世音菩薩33化身の1つであります。樓羅身(るらしん) を現じられました。かくして、秋葉三尺坊様は、衆生済度のため、失火延焼の難を逃すことを第1に、三大誓願をおこし火防の霊場を開かれました。
秋葉三尺坊大権現様の御真躰は、明治6年に秋葉山秋葉寺より遷座奉安され、以来秋葉三尺坊大権現鎮座火防霊場として、全国より信仰を集める祈祷の道場として、日々火防と人々の幸福を祈願しています。】

案内板文中にある「樓羅身(るらしん)」は、「迦楼羅神(かるらしん)」の事だと思われます。

向拝の木鼻に施された彫刻を阿吽の唐獅子と牡丹。ここでは獅子が牡丹の花を咥えています。

貫などの獅子は阿吽で一対。ボタンを咥えていたら口を開けられないのではと心配されませんように(⌒∇⌒) 阿の獅子の牡丹は満開、吽の獅子の牡丹は蕾。花の姿で阿吽を表すのも、職人の粋な技。

拝殿彫刻の圧巻は、向拝柱から本柱にかかる左右の海老虹梁(えびこうりょう)。ここにはまるごと昇龍の彫刻が施されています。
爛々と火を放つかのごとく光る眼、逆立つ鱗、鋭く尖らせた爪は宝玉を求めて力強く弧を描きます。 これだけの緻密でダイナミックな龍が、一本の木から彫り出されている・・、まさに神業。

真下から見上げた昇竜の胴体部分ですが、逆巻く波間から覗く姿はむしろ恐ろしいほどの存在感。 これが頭上に現れたら、絶対に「人生・・終わった」と、諦めの境地になるかもしれません(;_;)

あまりの凄さに思わず参拝を忘れそうになったほどですが、写し手の腕の悪さは如何ともし難く。 あとは想像力を駆使していただくか、いえいえ、是非とも現地で実際に見ていただくのが正解です。

海老虹梁の昇竜にばかり目を奪われがちですが、その上にある「持ち送り」の彫刻も見事。 常緑樹であり、目出度さの象徴とされる「松」と、高く空を翔け、力強さの象徴とされる「鷹」。
羽毛の一筋までも細やかに再現されており、その姿は見るものの想像力を掻き立てて止みません。

向拝の扁額の横にあった(と記憶)「海亀」、これも吉祥の象徴ですが、反対側は写してません。 多分、写したいものが多すぎたのと、阿吽の違いのみで、一見同じに見えるから・・・(-_-;) そうです!言い訳です(笑)。

彫刻の紹介が続いたついでに「威徳殿」と書かれた拝殿額を取り囲む「双龍」も、さすがの迫力。

『御真躰』が奉安され祭壇はこの奥にあるようで、鴉天狗の像が屹立しているのが見えます。 ちょうどシャッターを押した瞬間受付の方が横切った為、その部分は削除して修正、故に若干の違和感はご容赦を(^^;)

見所が多すぎて、簡単に一つにまとめられないのはいつもの事(^^;)、と言うことで続きは明日。

参拝日:2011年11月16日&2016年12月14日

 

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