会津若松市花春町の一画に、会津松平氏庭園として国の名勝に指定される「御薬園」。その起こりは今からおよそ635年前に遡ります。
「葦名七代直盛が築いた東黒川館の北の方角に、大田谷地という野原があり、その一軒の農家に病気で難儀する喜助というものがおりました。朝日保方という白髪の老人が鶴の舞い降りた泉の水で喜助を介抱し、やがて喜助はもとのからだに戻りました。保方老人はそれを見届けるようにしてこの世を去りました。喜助は疫病から救ってくれた恩人・保方を霊泉の傍らに手あつく葬り、祠をたてて朝日神社とし、霊泉の泉を鶴ケ清水と名付けます。」公式HPより
永享4年(1432)の頃、十代盛久は、この地は霊地であるとして四角四面に区切り別荘を建築。十六代盛氏の頃は葦名氏の全盛期で、盛氏は別荘を復興。これが御薬園の創始とされます。その後、時代は伊達・蒲生・上杉・再蒲生・加藤と移り永い戦乱が続いたため、別荘はまったく顧みられませんでしたが、松平氏藩祖保科正之は霊地の由緒を正して庭園を整備し、保養所として用いるようになりました。
現在の庭園は三代正容(まさかた)の時代、元禄9年(1696)小堀遠州の流れを汲む園匠:目黒浄定(じょうてい)と、普請奉行辰野源左衛門の手に成るもので、規模を拡大し借景を取り入れた池泉回遊式の大名庭に大補修を加えたものです。
心字の池の中島(亀島)に建てられた数寄屋風茅葺の平屋「楽寿亭」。主として藩主や藩重役等の納涼や観光の場であり、茶席として用いられました。
御薬園は、借景庭園の池泉回遊庭園型に入るといわれます。築山を設け、山・川・海・林・野などの要素を、水流・池・植込み・芝などにかえて、ひとまとまりの区画の中に表現。更に池の周囲に一定の園路を設けて茶亭などの建物を配し、園路を進むにつれて庭の変化を楽しむという回遊式の技法がとり入れられています。
寛文10年、二代藩主正経は、貧しい領民を疫病から救い、病気の予防や治療などを施したいとの願いから、園内に薬草園を設け、各種の薬草栽培を試みます。三代藩主正容の貞享年間から次第に薬園が整備拡充され、御種人蔘(幕府から人参種子を受けた事から付けられた名)を試植。これを広く民間に奨励したことから、領民からお殿様の薬園、御薬園と呼ばれるようになりました。
朝鮮人参(御種人蔘)の実
戊辰戦争の戦火の中にあって、御薬園は長屋門が焼け落ちた他は、建物・庭園ともほとんど昔のままの姿で残りました。それは、御茶屋御殿がいち早く西軍戦傷者の為の治療所にあてられたからです。
御茶屋御殿に残る刀傷は、西軍が気晴らしに斬り付けたものと言われており、御薬園での戦闘は行われていません。(気晴らしで柱に傷をつける感性は・・如何なものか)
戊辰戦争後、『藩祖:保科正之』を祠る猪苗代の「土津神社」「御薬園」「鶴ヶ城」は、松平家所有という理由で没収され、官有地となりました。これを憂いた若松柳原の豪商『長尾和俊』は、「土津神社(土地・立木・灯篭)」と「御薬園」を買い戻そうと若松の『林与市・森田七右衛門』、猪苗代の『中原丈八・六角尚謙・五十嵐幸五』等と相い計り、会津一円に募金を呼びかけ、運動に立ち上がります。明治5年(1872)から6年かけての募金は個人767人、82カ町村の浄財。その額は当時の金額で2,122円50銭(およそ4500万円)に達しました。官軍によってあらゆるものを奪いつくされ、決して裕福ではなかった筈にも関わらず、会津を愛する多くの人の力によって支えられてきた「会津の魂」は、こうして現代に引き継がれてきたのです。
昭和3年(1928)、昭和天皇の弟宮『秩父宮雍仁親王殿下』と、松平恒雄の長女『松平節子(せつこ)姫』とのご婚約が成立し、節子姫御一家の来若を歓迎するため、東山温泉新滝旅館に三階建の別館が建てられました。ご成婚に際し、貞明皇后陛下の名「節子(さだこ)」の同字を避け、皇室ゆかりの伊勢と会津松平家ゆかりの会津から一字ずつ取り、同音異字の「勢津子(せつこ)」の名を貞明皇后陛下より賜りました。その後、昭和48年(1973)に御薬園への移築が決まり、秩父宮妃殿下により「重陽閣」と命名。
2009年9月9日には「秩父宮妃勢津子殿下ご生誕100年」を記念し、御殿場にある秩父宮記念公園より、「プリンセスチチブ」が寄贈。勢津子妃殿下ゆかりの建物である重陽閣の前に植えられました。
昭和46年(1971)にイギリスのJ.ハークネスから秩父宮妃勢津子様に捧げられた薔薇「プリンセスチチブ」。強健で耐病性に優れ寒さに強く、その照葉も美しいローズピンクの薔薇は、会津の姫君にこれ以上ない相応しい気品と美しさで、私たちを迎えてくれました。
藩主の休息のほか上席の役人や藩御用達頭取の元締などが、招かれ、お褒めの言葉や御酒を賜る時などに利用された「御茶屋御殿」。往時の傷跡が伝える会津の歴史に思いを馳せつつ眺める庭園は、ただ凛として美しい。
【 磐梯は 遥けく青し 凌霄花(のうぜんか) 篠田悌二郎】 江戸の町火消しだった祖父:岩崎鎌蔵が、容保を慕って会津に移り、戊辰の役では会津の籠城戦に加わっていた縁から、本人の強い要望で会津のこの地に建立。
明日は養蚕守護の総本社として知られる「蚕養國神社」の紹介です。
訪問日:2015年6月29日
こんばんは!
まるで日本昔ばなしにでも
出てきそうな茶屋ですねぇ!!
いいですねぇ☺️☺️
こんな茶屋でお団子でも食べてみたいですねぇ。
こんなところで美味しいお抹茶とか頂いたら
きっと一生の思い出にできそうです。