車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 福井県若狭町&旧上中町

2016年07月13日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福井県

三方上中郡若狭町(わかさちょう)は福井県の西部、若狭国西南部に位置し若狭湾のリアス式海岸の一部を成す町です。美浜町との境界にはラムサール条約登録湿地の「三方五湖」があり、また、近江に抜ける鯖街道の一つとしても知られます。2005年3月31日、遠敷郡上中町と三方郡三方町が合併、両方の地名を取った「三方上中郡」を新設して誕生しました。小浜市、美浜町、鯖街道を経て滋賀県高島市に隣接。

キャッチフレーズは「輝きと優しさに出会えるまち 若狭町」

2005年3月31日制定の町章は「若狭町の「W」をモチーフに若さとフレッシュ感のあるデザインで新しい町の生命力と未来に開こうとする姿を表現しています。」公式HPより

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旧遠敷郡上中町(かみなかちょう)は福井県の西部、若狭国西南部に位置した町です。古くより、若狭と京都を結ぶ旧鯖街道の宿場町として栄えてきました。美浜町・上中町・小浜市、鯖街道を経て高島市に隣接。「町の木:赤松」「町の花:紫陽花」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、遠敷郡野木村・三宅村・鳥羽村・瓜生村・熊川村が発足。

1954年、野木村・三宅村・鳥羽村・瓜生村・熊川村が合併、遠敷郡上中町が発足。

2005年、三方郡三方町との合併により、三方上中郡若狭町となりました。

マンホールには、「町の花:アジサイ」と右隅に町章がデザインされています。(大鳥羽駅前の舗道に敷設)

昭和29年4月29日制定の町章は「「上中」の文字を図案化。丸く手をつなぎ、協調することを意味する。」合併協議会資料より

撮影日:2008年6月1日&2012年7月10日

 

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”銀河鉄道999・宇宙戦艦ヤマト”シンボルロード in 福井県敦賀市

2016年07月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀市鉄輪町、日本海側の港町として栄えた敦賀市の中心駅「敦賀駅」。駅前の緑地帯の一画で、かって夢中になって見ていたテレビ画面の懐かしい一コマに出迎えられます。

銀河鉄道999~vol.1「星野鉄郎とメーテル」【銀河系のかなた、宇宙列車・銀河鉄道999に乗って、鉄郎とメーテルの壮大な宇宙の旅が今、ここから始まろうとしている。】

銀河鉄道999~vol.2~vol.5は見つけ損ねました(^^;)

駅前商店街はvol.6「旅立ち」、ここでの主役は意外と人気者だった『車掌さん』【人はみな、星の海を見ながら思い描いた希望を追い求めて、果てしなく長い旅に出る。終わることない永遠の流れの中で、果てしなく続くレールの上を、夢と希望と野心、そして若さを乗せて列車は走る。いま、汽笛が新しい若者の旅立ちの訪れを告げる。】

vol.7は「永遠の星の海へ」【メーテルはドリームセンサーを使って気を失っている鉄郎の過去を調べる。彼は母を殺した機械伯爵への復讐のために、機械の体になる必要があったのである。】

vol.8は「迷いの星」【冥王星には、大氷河が広がり氷の下には無数の死体が並ぶ。氷の墓の管理人で機械の体を持つシャドウは鉄郎をずっとそばにおきたくて、凍らせるが、あわやというところでメーテルに助けられる。】

vol.9は「ガラスのクレア」【ある日,食堂車に乗った二人は、クリスタルガラスの体のクレアというウエイトレスと知り合う。彼女は元の体に戻りたくて働いてお金を貯めているのだ。彼女の元の体は冥王星にあり、ときどき立ち寄り会いに行くという。】

vol.10からは本町2丁目商店街で「エメラルダス」【999号の針路をクイーンエメラルダス号が横切り鉄郎は時間城のある星が知りたい一心で、それに発砲した。乗り込んできたエメラルダスは鉄郎の銃を見て驚く。彼女はその銃の持ち主を捜していたのだ。そして時間城の場所をおしえる。】

vol.11は、酒場で歌う機械伯爵の愛人レリューズと「時間城」【機械伯爵がやって来るというトレーダー分岐点。鉄郎は同じ志を持つ男、トチローに出会う。宇宙病で亡くなる彼の遺志を胸に、鉄郎はついに時間城に乗り込み機械伯爵をたおした。】

vol.12は、アルカディア号とトチローの墓、それを見下ろすハ-ロックの像で「友の眠る星」【トチローは息を引取ったが、彼の心はアルカディア号の心となった。その船とは鉄郎の憧れのキャプテンハーロックのものだった。トチローの墓のお礼にハーロックは鉄郎の危機を救う。】

vol.13は「プロメシューム」【終着駅:メーテルは機械帝国であり、あらゆるものが生きた人間から作られていて、鉄郎もネジにされそうになる。そこで初めてメーテルがプロメシュームの娘であると知る。】

vol.15は本町1丁目商店街で、999のドアの向こうのメーテルと、ホームの哲郎の像で「別離」【地球へと戻った鉄郎。そしてメーテルとも別れる時が来た。メーテルは昔の体に戻るために冥王星に旅立ち、少年とメーテルとの旅は終わった。】

本町1丁目商店街から始まるのは「宇宙戦艦ヤマト」

vol.18は、英雄の丘に立つ二人の乗組員の像で、タイトルは「英雄の丘」【西暦2202年、暗黒星団帝国による地球侵略に対し、旧ヤマトの乗組員は英雄の丘に集結した。】

vol.21からは本町2丁目商店街で「サーシャ」【一行は小惑星イカルスで新旧乗組員達と合流。古代はその中の一人の女性の名がサーシャだと知る。】

vol.22は「サーシャの最期」【雪は爆弾の起爆装置解体に成功する。だが、弱点究明に浸入したサーシャが居るため、母星に波動砲を撃てない古代。しかし彼女は聖総統に撃たれてしまう。古代は波動砲の引き金を引いた。】

vol.24からは駅前商店街で「惑星デザリアム」【スカルダードの罠に気づき、反撃に出るヤマト。波動砲によって敵母星は炎に包まれ、その中から、超金属の惑星デザリアムが姿を現した。】

vol.25は「雪とアルフォン」【パルチザンに加わった雪は、戦場でアルフォンと再会する。しかし彼は銃弾に倒れてしまう。彼は爆弾の起爆装置解体法と、地球侵略の目的を告げ息を引取った。】

vol.26は母に抱かれるサーシャの像で、タイトルは「帰還」【波動エネルギーは敵母星のエネルギーと融合反応し、大爆発をおこした。敵母星を粉砕したヤマトは地球へ帰還していく。そしてサーシャは、母スターシャのもとへ・・・】

この後に続く、古代・雪カップルの像、それに佐渡先生の像も見つけ損ねました。これらの像は敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせたものとして『松本零士』監修の元で設置されたそうです。

訪問日:2009年6月5日

 

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敦賀市内あちこちウォッチ in 敦賀市

2016年07月11日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

2009年に初めて金ケ崎緑地を訪問したとき見かけた2棟の赤レンガ倉庫、何となく古そうに見えるけれど、今も現役なのだろうか?  帰宅後に、2009年1月に北棟・南棟・煉瓦塀が国有形文化財に登録されていた事を知って、ああ、それならもっとちゃんと見ておけば良かったと思いつつ・・・日が流れ

そうして三年後の2012年に再訪、「敦賀赤レンガ倉庫」は、こんなに開放的になっていました (⌒∇⌒)

明治から昭和初期、ロシアを経由し大陸ヨーロッパへと繋がる国際都市として繁栄した敦賀市。敦賀赤レンガ倉庫は、外国人技師の設計によって明治38年(1905)に紐育スタンダード石油会社の石油貯蔵用倉庫として建設。途中、軍の備品倉庫や昆布貯蔵庫としても使用され、福井県内でも有数のレンガ建築物。

煉瓦建築と言えば敦賀港駅には明治15年(1882)頃に建てられた「旧敦賀港駅ランプ小屋」があります。ランプ小屋は、列車の灯火に使用されるカンテラの燃料を保管する油庫として、かつては主要な駅に一般的に存在したものです。

かって「金ヶ崎駅」と呼ばれていた時代、明治末期から昭和初期にかけて欧亜国際列車が運行され、ここからウラジオストク航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す人や荷物で賑わっていた時代・・想像は羽を持って膨らみ、気持ちを浮き立たせます。

昭和初期のモダンを感じさせる建物は、国重要文化財(建造物)の「旧大和田銀行本店」

敦賀の実業家、二代目『大和田荘七』が、大和田銀行を設立したのは明治25年(1892)のこと。

建物は大正14(1925)に起工し、昭和2年(1927)に竣工。鉄骨レンガ造一部鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階建で、当時の北陸地方では非常に珍しかったエレベーターを備えており、かつて敦賀の政治経済の中心地であった場所に位置しています。

その後吸収合併により三和銀行敦賀支店、福井銀行敦賀港支店として利用、昭和52年(1977)に敦賀市に寄贈され、翌年には敦賀市立歴史民俗資料館としてオープンしました。

私たちが訪問した2009年当時は福井県有形文化財でしたが、2012年から修復工事が開始され、2015年にリニューアルオープン。その後2017年に国の重要文化財(建造物)に指定されました。建物前の道路巾が少ないため、建物全体を正面から写せないのが残念です。

博物館の斜め前の路地を入ると、こじんまりとした「清明神社」が鎮座されています。案内に『安倍晴明』は10世紀末の頃にこの地で過ごし、陰陽道の研究を重ねたとか。バイクの駐車スペースが確保できず、参拝は鳥居の前から。

「敦賀市民文化センター」の建物横に建てられた碑は、明治19年(1886)から昭和20年(1945)まで、迎賓館兼会議場として使われた「萬象閣跡」。昭和20年(1945)、本土空襲の激化に対応するために断行された「建物疎開政策」で、市庁舎を守るために萬象閣が取り壊された経緯が傍らの説明に記されています。

「市民文化センター」が建っている場所には、旧敦賀市庁舎が建てられていましたが、その庁舎を寄贈した人物が先ほど登場した『大和田荘七翁』

もう一つ、『大和田荘七』にゆかりのある建物が、「金ヶ崎緑地」に復元されています。それが、旧大和田別荘洋館を復元した「人道の港敦賀ムゼウム・ 杉原千畝の資料館」。昭和15年(1940)に『杉原千畝』がユダヤ人難民に発給した日本通過ビザの話、何故か日本の歴史教育であまり語られないのが不思議です。

訪問日:2009年6月5日&2012年7月10日

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金ヶ崎緑地・敦賀鉄道資料館 in 敦賀市金ケ崎町

2016年07月10日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀港開港100周年を記念し「憩いと賑わいの空間」をテーマとして整備された海浜公園「金ヶ崎緑地」。出迎えてくれるのは旧笙ノ川の河口の左岸にある「洲崎の高灯籠」を模した時計台。

敦賀湾を望む港には海上保安庁の巡視船が係留されており、結構間近に見ることが出来ます。海上自衛隊の護衛艦を見たときも思ったのですが、保安庁の巡視船も「カッコいい~~~!」(〃∇〃)

日本の海上を脅かす不届きな某国や某国(笑)の不審船、片っ端から撃沈しちゃってください!!って言っても、理不尽な法に縛られてちゃ、何にもできないのですが・・

ついつい横道にそれてしまいましたが(^^;)、1999年7月、敦賀港開港100周年記念事業として開催された「つるが・きらめきみなと博21」。敦賀港ウォーターフロントとして整備された一帯には、北前船の帆をモチーフにした「南シンボルモニュメント」を始めとして、当時の名残の建物が幾つか残されています。

博覧会の中核施設として建設された複合文化施設「きらめきみなと館」、外観は船の煙突をイメージしているとかで、港を眺めながらコーヒーで一息できるくつろぎ空間もあるとか。

ちょっと楽しみにしていたんですが・・・私たちにはよくあるアクシデント・・「本日休館」(^^;)

良いんです、別に。コーヒーなんて緑地公園のベンチでだって飲めるし、たまたま休館でしたなんて、もう本当に!!慣れっこだし(笑) ここでの一番の目的は「旧敦賀港駅舎」だったんだし。

「みなと博21」のシンボルの一つとして、シベリア鉄道経由で欧州と繋がる「欧亜国際連絡列車」の「敦賀港駅・駅舎」を再現した瀟洒な洋風の建物。再現であろうが何であろうが、見ているだけでワクワクさせてくれます。

みなと博終了後、2009年に「敦賀鉄道資料館」として再整備され、館内には敦賀鉄道の歴史資料類が展示され、何と”無料”で見学ができます。

敦賀の鉄道の歴史を物語る様々な資料の展示は、鉄オタならずとも興味深いものばかり。

鉄道の歴史に興味のある人なら間違いなくパラダイス(笑)。他にも、汽車汽船旅行案内、欧亜連絡切符などの複製資料が展示されており、どれもこれも興味深いものばかり。

特に興味を引いたのがお弁当のラベル。いわゆる「駅弁」のパッケージラベルだと思うのですが、良く残っていたなと嬉しくなるやら関心するやら(笑) こういうの、実はすごく好きなんですよね。

振り返ってみれば、二度の敦賀行で同じ場所を訪ねたのは、狛犬さんの撮り直しのために参拝した「気比神社」と、この「敦賀鉄道資料館」だけ。気比の松原の史跡巡りは?! 銀河鉄道シンボルロードの撮り残しは??

訪問日:2009年6月5日&2012年7月10日

 

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気比(けひ)の松原 in 福井県敦賀市松島町

2016年07月09日 10時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

敦賀と言えば、真っ先に思い浮かぶのが「万葉集」や「日本書紀」にも登場する「気比(けひ)の松原」。静岡県の三保の松原・佐賀県の虹ノ松原と共に日本三大松原の一つとされ、昭和9年(1934)には国の名勝に指定されています。

「日本の白砂青松100選」「日本の名松100選」「日本の自然100選」に選定、ついでに「レクリエーションの森」にも選定。それにしても三大とか100選とか・・日本人ってこう言うの好きですよね(笑)

古来より「氣比神宮」の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していましたが、永禄13年/元亀元年(1570)の織田信長の越前攻略により氣比神宮の所領などが没収され、このときに松原も没収。江戸時代には小浜藩の御用木(藩有林)となり、近隣住民は藩への納税によって燃料となる松葉採集が許され、松原はこうした管理によって後世へと残されてきました。明治時代以降は官有林となり、明治32年(1899)の国有林野法制定とともに国有林となり現在に至っています。

綺麗に整備された遊歩道を歩いていると、打ち寄せる波の音がまるで子守歌のようにゆるく優しく聞こえてきます。

松林の切れ目から見る砂浜、置かれたベンチには人影は無く心なしか閑散とした雰囲気。それも無理からぬこと、空は次第に灰色に染められて、湿気を含んだ風が「そろそろ危ないよ」と教えてくれます。

上等とはお世辞にも言い難い空模様ですが・・・それでも砂浜にはそれなりの人の姿があり、打ち寄せる波を背景に記念写真などを撮っています。

古くから多くの貴人、歌人、文化人に愛で賞された「気比の松原」。ここには私の好きな(笑)記念碑や句碑などが建立されているのですが・・

何しろこの日はバイクタンデム。今にも崩れそうな空模様の中、決して近くない我が家に帰る為にはこれ以上の長居はできないと、ご亭主殿の鶴の一声。

消化不良この上ない初めての「気比の松原」。次回こそは!!と固く誓っていた筈なのに、結局、訪問はこの時の一回だけでした(^^;)

訪問日:2009年6月5日

 

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松尾芭蕉と奥の細道 in 福井県敦賀市

2016年07月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

【月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也】の序文で始まる「奥の細道」『芭蕉』が門人の『河合曾良』を伴って江戸を発ったのは、崇拝する『西行』の500回忌にあたる元禄2年(1689)3月27日の事。全行程約600里(2400k)。150日間をかけて東北・北陸を巡った『芭蕉』による紀行文は、日本の古典における紀行作品の代表的存在として、多くの人に知られています。

元禄2年8月14日~16日。芭蕉は弟子の等哉と共に「敦賀の気比」に滞在しています。「奥の細道 in 敦賀市」、スタートは「気比神宮」境内の『芭蕉』の銅像から。「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。~あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。」

台石に刻まれた句【 月清し 遊行(ゆぎょう)のもてる 砂の上 】(遊行上人が持ち運んだという砂の上に差している月光は、ことさら清らかに思えることだ。)

気比神宮の参道にこれと良く似た句

  「気比のみや【 なみたしくや 遊行のもてる 砂の露 】

気比神宮の道路向いにある「お砂持ち神事」の像。

「往昔、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、自ら草を刈り、土石を荷ひ、泥濘をかわかせて、参詣往来の煩ひなし。古例今に絶えず、神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持ちと申し侍る。」
芭蕉はこの話を聞き、気比の宮に詣でて上記の句を詠みました。

敦賀に滞在した芭蕉は、この時、月を題材に15句を詠んだと伝えられています。該当する句碑、続いては敦賀市民文化センターの一画。

【 国々の 八景更に 気比の月 】

(近江八景等のように景色を愛でる名所は山ほどもあるが、気比の月もこれに加えたいものだ)

続いて金崎宮参道下:金前寺の境内に建立された鐘塚の句碑

「金ヶ崎の海底に、足利軍に敗れた『新田義顕』が沈めた「陣鐘」のありと言う。後に国守、海士に探らせしが、「陣鐘」逆さに沈み、竜頭、海泥に埋もれ引き上げ叶わず」宿の主人からこの話を聞き

【 月いつく 鐘は沈る 海の底 】

(月の光もなく、海の底にあるという鐘の音もない。何ともわびしい十五夜であることよ)

北陸自動車道・杉津PA(上り

明日の名月を期待する芭蕉に、宿の亭主が「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかり難し」と答え「十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず、雨降る。」

【 名月や 北国日和 定なき 】

(敦賀の十五夜を期待してきたが、亭主の言ったとおり、北国の天気は変わりやすいものだ。)

「ライオンズクラブ記念大会」に建立された気比神宮境内の名月句碑。

【 ふるき名の 角鹿や恋し 秋の月 】

(このように月の綺麗な夜は、古事記にも記された「角鹿(つぬが)」の古き名が恋しいものだ)

北陸自動車道・南条SA(下り線)

元禄2年8月15日、越前福井から敦賀に向かう途中、湯尾峠の茶屋の軒下に疱瘡よけの呪いを見て

【 月に名を 包みかねてや 痘瘡(いも)の神 】 

(日ごろは人目を忍ぶ痘瘡神も、この月明かりの下では、流石に隠れられないようだ。)

北陸自動車道・南条SA(上り線)

【 明日の月 雨占なはん 比那が嶽 】

(明日も今夜のような月が見えるのだろうか。天気の変わりやすい北国の事だから、比那が嶽の晴れ具合で占うとしようか)

敦賀での名月の晩。燧(ひうち)が城を見て

【 義仲の 寝覚めの山か 月悲し 】

(燧が城の主であった義仲殿も、この景色を見ていたと思うと何とも感慨ぶかいものであることよ)

訪問:2009年~2016年

松尾芭蕉と奥の細道・・・次は何処の地、掲載は何時になるか当人にも不明(笑)

 

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別宮(べつぐう)神社 in 福井県敦賀市原

2016年07月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市原に鎮座される「別宮神社」、福井神社庁HPでは御祭神は『仲哀天皇・大山津見神・神功皇后・素佐之男命・別宮大神』

由緒「もと「西福寺」の鎮守社。別宮大明神と尊称している別宮は本宮に対する呼称であり、本宮は氣比神宮と常宮神社(氣比神宮の奥宮)也との口碑である。聖武天皇天平二十年(748)蒙古襲来夜、敦賀の天地轟々震動し蒙古の軍悉く海中に覆没した伝える。この神瑞霊異を氣比宮の神官が朝廷に奏上した為、氣比宮の御造営の宣旨があった。其の折、松原と櫛川にも神社を創立したと云われている。」敦賀郡神社誌より

高く組まれた石垣の上、深い緑に抱かれるように覆い屋に護られて鎮座される社殿。

その社殿前より神域を守護されるのは明治39年(1906)3月建立の狛犬さん一対。このタイプの狛犬さん、加賀ではよく見かけますが敦賀の神社ではおそらく初見ではないかと・・

口中から僅かに見える舌先がキュートな阿形さん

閉じた口元がとても思慮深そうに見える吽形さん。

境内の入口付近で見かけた四角い石は、多分「宝篋印塔」の塔身ではないかと思われます。もと「西福寺」の鎮守社という事を考えれば、そういったものがあっても不思議ではありません。

塔身の三面には「仏像」や「地蔵」もしくは「僧」と思われる姿が彫られています。この塔の来し方、何かないかと探してみましたが手掛かりなしでした。

参拝日:2012年7月10日

 

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別宮(べつぐう)神社 in 福井県敦賀市櫛川

2016年07月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市櫛川に鎮座される「別宮(べつぐう)神社」。御祭神は『伊奢沙別命(いざさわけのみこと)』、また一説には『仲哀天皇・神功皇后』とも云われます。

由緒「往昔より別宮大明神と尊称し、聖武天皇天平二十年(748)蒙古襲来夜、敦賀の天地轟々震動し蒙古の軍悉く海中に覆没した伝える。この神瑞霊異を氣比宮の神官が朝廷に奏上した為、氣比宮の御造営の宣旨があった。其の折、櫛川と松原にも神社を創立したと云われている。当社御創立の以前は氏神に山神社を奉斎していたものと推想される。」敦賀郡神社誌より

拝殿前左右より神域を守護されるのは、大きな耳を横に張り出した、大正4年(1915)6月建立の、エイリアンタイプの狛犬さん一対。目・口に施された彩色が鮮やかなのは、時に応じて化粧直しがされているのかもしれません。

ちなみに横顔で並べてみると、仲良しの二人がとっても楽しい相談をしているような雰囲気。人の手によって生み出された狛犬さんたち。見る角度によって想像が膨らんでくるのも、また、楽しみのの一つだったりします

本殿の傍らにあった末社に奉納されていた吽形だけの笏谷石の狛犬さん。満身創痍ですが、それでもこうして健気に神域を守護されています。

参拝日:2012年7月12日

 

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金崎宮(かねがさきぐう) in 福井県敦賀市

2016年07月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県敦賀市金ヶ崎町に鎮座される「金崎宮(かねがさきぐう)」。建武中興十五社の一社で、旧社格は官幣中社。御祭神は『恒良(つねよし)親王・尊良(たかよし)親王』。

境内迄の九十一の石段は、幸福の階段と名付けられています(^^;)。その理由は「九十二が無い・・・【九(く)・二(に)】つまり苦にならない」・・と言う事で「必ず駆け上がってください」と説明に書かれていますが、たどり着く前に間違いなく病院送りになります σ(^◇^;)

由緒「後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて金ヶ崎城に入城。半年の間、足利勢と戦うも遂に落城、尊良親王、新田義顕以下将兵三百余人も殉じ果てた。皇太子『恒良親王』は何とか逃れられるも、後に幽閉され 翌年京都にて他界される。金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年、敦賀の人々の熱烈なる請願によって『尊良親王・恒良親王』を祭神に、社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である」

長い石段をやっとの思いで登りきると一の鳥居、その先に舞殿、拝殿が続きます。約1000本のソメイヨシノが境内を彩る金﨑宮は桜の名所としても知られており、毎年4月1日~15日に行われる「神事・花換まつり」が有名です。

舞殿の後方、拝殿には菊の御紋の神社幕が、まるで日章旗のように鮮やか。

拝殿の朱の透かし塀を背にして神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

境内摂社「絹掛神社」。御祭神は『尊良親王に殉じた総大将・新田義顕以下三百二十一名』

鳥居前左右より神域を守護されるのは、明治45年(1912)5月建立の浪花タイプの狛犬さん一対。

絹掛神社の御社殿前より神域を守護されるのは、大正2年(1913)1月建立の狛犬さん一対。

体は小さくとも、方耳を失おうとも、御祭神が鎮まる聖域を一生懸命守護されています。

拝殿下の境内に建立されていた時計台は、「御鎮座 貮拾年記念」の奉納。

ちょっと風変わりな可愛い絵馬は、織田信長の窮地を知らせる為、妹お市が陣中に届けた小袋が手本だとか。朝倉攻めを見事勝利に導いたこの逸話から、金崎宮は難関突破の宮とも言われています。

「金崎宮」から花換えの小径を辿って更に上に行けば、国の史跡「金ヶ崎城址」に至ります。そこには、共に戦った武将たちと運命を共にする為に自刃した「尊良親王御墓所見込地」もあるとか。もう少し頑健であれば訪ねて見たかった史跡ですが、ここは謙虚にわが身を顧みて自粛(^^;)

城址碑のある場所から見えた敦賀港の風景

帰路の石段途中に鎮座されていた「愛宕神社」、鳥居の前からの拝礼で失礼させていただきました(o_ _)o

参拝日:2012年7月10日

 

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氣比(けひ)神宮~Ⅱ~ in 福井県敦賀市

2016年07月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福井県

福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する「氣比神宮」。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的な玄関口にあたる要衝であった事から、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視されました。昨日に続いての氣比神宮、大鳥居は二度目の参拝、三年後のもの・・かなり色褪せが目立ちます。

二日目の今日は、南参道から神橋を渡っての境内紹介。

一の鳥居をくぐった先より神域を守護されるのは、明治28年(1895)4月建立の浪花タイプに近い狛犬さん一対。

笏谷石の狛犬さんに比べると、とにかく人懐こい顔立ち(笑)。それはともかく・・阿形さんの口元から流れ出た黒いシミのようなもの・・非常に気になります。心無い愚者の仕業でなければ良いのですが・・

南参道からすぐ左手に、「末社:大神下前(おおみわしのさき)神社」、御祭神 は『大己貴命(おおなむちのみこと)』。こちらは2009年参拝時の画像。

「式内社で、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。」公式HPより(三年後の画像)

鳥居の内より神域を守護されるのは、宝暦7年(1757)9月吉日建立のダースベーダー顔の笏谷石狛犬さん一対。うっかり手を出すと嚙み千切られそうな吽形さんの噛み締めた歯・・・怖いですよ(^^;)

大神下前神の左(向かって右)に鎮座される「末社:兒宮(このみや)」。御祭神は『伊弉冊尊(いざなみのみこと)』。平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前よりの鎮座とされます。

徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤く、公式HPいわく、母子大小の笏谷石狛犬さんが拝殿内を守護されています。

母子狛犬とありますが、おそらくは全く別個の狛犬さんを一対にしたと思われ、母とされる阿形さんは、享保11年(1726)の建立。

子とされる吽形さんは、嘉永2年(1849)の建立。似ても似つかぬ見知らぬ赤の他狛犬ですが、縁あって母子とされたのであれば、仲良くお過ごし下さいますように。

「兒宮」の隣に鎮座されるのは、摂社で式内社の「角鹿神社」。御祭神は『都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)

「崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」に由来する。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われた。」公式HPより JR敦賀駅前『都奴賀阿羅斯等』の像

境内亀池側の絵馬殿

「亀池」敦賀は名水湧出の地であり、特に境内は水脈の中心に位置し江戸時代に当宮の亀池は「日本庭園歴覧」に記された名池でもあった。明治42年、東宮殿下(大正天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語る。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備しお水取りの参詣者でにぎわう。」公式HPより

昭和11年、当時陸軍関係者が武運を祈願して献木されたユーカリの木。傍らの案内板によれば、ユーカリが北陸の寒冷地に育つのは珍しく、敦賀市指定天然記念物となっています。

「旗掲松」南北朝争乱時代の延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと云う「旗掲の松」。金ヶ崎城を築いて足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死す。今でも旧根が朱塗中鳥居前に残り二代目が成木として雄々しく育つ。」公式HPより

参拝を終えて手水舎の近く、気になっていた「長命水」で気比神社の紹介は終わり。説明によれば、大宝2年(702)の修営途中に、突然として地下水が噴出したと伝えられており、以来、1300年以上に亘り「長命水」の名称で親しまれ、小容器で持ち帰る人もいるそうです。

参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日

 

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