福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する「氣比神宮」。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国から畿内への入り口であり、対外的な玄関口にあたる要衝であった事から、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視されました。昨日に続いての氣比神宮、大鳥居は二度目の参拝、三年後のもの・・かなり色褪せが目立ちます。
二日目の今日は、南参道から神橋を渡っての境内紹介。
一の鳥居をくぐった先より神域を守護されるのは、明治28年(1895)4月建立の浪花タイプに近い狛犬さん一対。
笏谷石の狛犬さんに比べると、とにかく人懐こい顔立ち(笑)。それはともかく・・阿形さんの口元から流れ出た黒いシミのようなもの・・非常に気になります。心無い愚者の仕業でなければ良いのですが・・
南参道からすぐ左手に、「末社:大神下前(おおみわしのさき)神社」、御祭神 は『大己貴命(おおなむちのみこと)』。こちらは2009年参拝時の画像。
「式内社で、敦賀市内氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。」公式HPより(三年後の画像)
鳥居の内より神域を守護されるのは、宝暦7年(1757)9月吉日建立のダースベーダー顔の笏谷石狛犬さん一対。うっかり手を出すと嚙み千切られそうな吽形さんの噛み締めた歯・・・怖いですよ(^^;)
大神下前神の左(向かって右)に鎮座される「末社:兒宮(このみや)」。御祭神は『伊弉冊尊(いざなみのみこと)』。平安朝時代、花山天皇寛和2年9月20日遷宮の事が残されており、その以前よりの鎮座とされます。
徳川時代から子宝祈願を始め安産の神と称され、更には小児の守神として信仰が篤く、公式HPいわく、母子大小の笏谷石狛犬さんが拝殿内を守護されています。
母子狛犬とありますが、おそらくは全く別個の狛犬さんを一対にしたと思われ、母とされる阿形さんは、享保11年(1726)の建立。
子とされる吽形さんは、嘉永2年(1849)の建立。似ても似つかぬ見知らぬ赤の他狛犬ですが、縁あって母子とされたのであれば、仲良くお過ごし下さいますように。
「兒宮」の隣に鎮座されるのは、摂社で式内社の「角鹿神社」。御祭神は『都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)』
「崇神天皇の御代、任那の皇子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、氣比の浦に上陸し貢物を奉る。天皇氣比大神宮の司祭と当国の政治を任せられる。その政所(まんどころ)の跡にこの命を祀ったのが当神社で現在の敦賀のもとの地名は「角鹿」に由来する。往古東門口が表通であったため氣比神宮本社の門神と云われた。」公式HPより JR敦賀駅前『都奴賀阿羅斯等』の像
境内亀池側の絵馬殿
「「亀池」敦賀は名水湧出の地であり、特に境内は水脈の中心に位置し江戸時代に当宮の亀池は「日本庭園歴覧」に記された名池でもあった。明治42年、東宮殿下(大正天皇)御参拝のお茶の水に用いられた一井がその由来を語る。昭和の大造営で亀の池を改修、滝のある神水苑を整備しお水取りの参詣者でにぎわう。」公式HPより
昭和11年、当時陸軍関係者が武運を祈願して献木されたユーカリの木。傍らの案内板によれば、ユーカリが北陸の寒冷地に育つのは珍しく、敦賀市指定天然記念物となっています。
「「旗掲松」南北朝争乱時代の延元元年(1336)当神宮宮司氣比氏治が南朝後醍醐天皇を奉じ氣比大明神の神旗を掲げたと云う「旗掲の松」。金ヶ崎城を築いて足利軍に対し奮戦したものの、一門ことごとく討ち死す。今でも旧根が朱塗中鳥居前に残り二代目が成木として雄々しく育つ。」公式HPより
参拝を終えて手水舎の近く、気になっていた「長命水」で気比神社の紹介は終わり。説明によれば、大宝2年(702)の修営途中に、突然として地下水が噴出したと伝えられており、以来、1300年以上に亘り「長命水」の名称で親しまれ、小容器で持ち帰る人もいるそうです。
参拝日:2009年6月5日&2012年7月10日