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石巻帰省レポート その1

2012-01-04 14:49:00 | 石巻ボランティア日記
1月2日(水)夜明け前、*(バス)*石巻駅到着。小・中・高校時代の友人と日和山に登り、神社に参拝した。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド3月11日の大津波は、北上川の河口に架かる日和大橋を越え、石巻の市街地を襲った。日和大橋のてっぺんにいた車4台を残し、石巻工業港を襲い、ひばり野海岸から襲った門脇地区南浜町の住宅街の瓦礫を巻き込みながら、北上川を遡上し、何度も津波は高さを増しながら石巻を破壊して行った。この鳥居の広場で、夏に雨の中、長淵剛さんが「Try again」を歌ってくださった。鳥居向かって左には、『救援、ありがとう』の横断幕が掲げられていた。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド日和山から望む、石巻市街地。ここは、石巻市民や石巻出身者のパワースポットだ。この、何もなくなった中瀬から、昨年8月1日川開き祭りの花火を打ち上げたそうだ。「こんな時にお祭りなんて!」「こんな時だからこそ、供養の意味でも、石巻再興の一歩として、花火を打ち上げるんだ!」という市民の賛否両論が続いたそうだ。実際、大手スポンサーが被災してしまい、花火大会の開催自体が危ぶまれていたのだが、全国の花火協会からの協力を得、2000発の花火が集まり、1日だけの花火大会が開催された。特に、新潟県長岡市から寄贈された花火は、北上川の河口サイズに合わせて、『ミニ・フェニックス』として、エンディングを盛大に飾った。この川開き開催に向けて、全国、海外からまでたくさんのボランティアが集まり、石巻の町のがれき撤去が精力的に行われたのだという。石ノ森章太郎漫画館の周りにあった瓦礫も、内海橋にひっかかかり、通行を遮断していた瓦礫も、震災・津波襲来直後を知っている人ならだれでも、『良く、ここまで片付けた』と感動するほどの当時の惨状と、撤去後の喪失感で胸がいっぱいになるのだという。私は、真夏に帰省し、ボランティア活動をした際の最終日に、神社の境内とこの場所を掃除した。全国各地から駆けつけてくださったボランティアの方に、在りし日の石巻の様子を語りながら…。この写真を撮っていた時に、ウォーキングに来ていた60代ぐらいのおじさんが話しかけてきてくださり、震災当時の様子を話してくださった。そのあまりの凄惨さに胸が詰まり、えぐられるようだった。と同時に、おじさんが教えてくれた、全国からの救援隊、自衛隊、米軍の『トモダチ作戦』などの精力的で丁寧な救援活動の様子を聞いて感動した。日和山公園と言えば、石巻随一の桜の名所だ。今年もすでに、かたい蕾を付けながら、やがて来る春に備えている桜の木々…。昨年の桜満開の時期には、誰もお花見をする人がいなかったということだ。当時、全国的にお花見自粛ムードではあったが、確かに、瓦礫を見ながら誰も花見などしたくはないだろう。ああ、いつになったら、この公園で、満開の桜を目で、幸せな気持ちで和やかなお花見ができるのだろう…。photo by toliton717 from OCNフォトフレンド夜、石巻市立蛇田中学校の同期会に出席した。参加者は、卒業生36名と恩師1名で、和やかに楽しく、お互いの無事と再開を喜び合った。幹事の話によると、連絡を取り合った中では、同期生にはこの震災で亡くなった方はいなかったらしい。実家のある地域も地震の被害は受けても、津波による被害は少なかった。ただし、家族や親戚、友人、同僚、知人を亡くした方、家や会社が半壊、全壊、津波で消失した人もたくさんいて、過酷な現実を受け入れ、向き合わざるを得ない現実を皆は必死に生きていた。特に、行政を担当している同級生は、その責任の重さと、これからの課題の多さに沈痛な面持ちだった。「300%頑張っている」と語る彼にこう言った。「石巻は頑張っている。泣きながら、泣きたいのを我慢して、頑張っている。本当に頑張らないといけないのは、石巻を出て行った人間。帰ってきてボランティアをする、石巻の物を買う。石巻にお金や物資を送る。自分のできることでいいから、立ち上がろうとしている、倒れないように踏ん張っている故郷の人たちを支えるのは、石巻出身者だ。全国から、海外から救援、応援に駆け付けてくれている。本当にありがたくて、涙が出る。夏に一緒に活動したボランティアの人たちに、どれだけエールとエネルギーをもらったことか。石巻の行政を司り、これからの復興に向けて頑張る○○君にお願いがあります。助かった人の分だけ生き残るKnow howがある。亡くなった人の数だけ解決しなければならない課題がある。地震から津波到達までの間の時間、何が生死を分けたのか…。これを分析してまとめたものをこれから必ず起こると想定されている、南海、東南海、東海地震で石巻と同じような被災地になる可能性のある市町村へ、そのレポートを送ってほしいの。失敗から学ばなければ、進歩はない。亡くなった方たちは浮かばれない。辛い作業だとは思うけれど、子ども達の未来のために、震災や津波に強い街づくりのために、この被災体験を生かしてほしいの。阪神や中越から駆け付けてくれたボランティアの人たちが、言っていたの。『自分たちが被災した時は、小学生だった。何も分からなくて、助けててもらった人たちに恩返しもできなかった。今、僕たちはあの時にもらった元気を石巻の人に分けてあげられる機会を得たんです。』そうやって、徹底的に泥出し、瓦礫撤去してくれている姿を見て、近所のおじさんは、『今は自分たちのことで精いっぱいだけど、いつか、日本のとこかで、こいな災害が起きたら、今度はおらだぢが助けにいがねくてね!(自分たちが助けに行かなくてはならない)』って言ってたよ。だから、私は、千葉に帰ったら、見できたこと、聞いてきたこと、石巻が今必要なこと、皆に知らせるから。私にできることがあったら遠慮なく連絡頂戴ね!」その後、みんなからのリクエストに応えて『海のトリトン』を熱唱して、みんなを笑顔にし、夏の再会を約束して、降るような星空の下を歩きながら実家に帰った。


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