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「学校の民営化」と「先生のフリーエージェント制度化」について思うこと

2003-12-04 13:51:00 | 徒然なるままに
11月24日(月)

今日は流石に晩秋という感じで、肌寒い1日だった。

夕べ眠る時から、今回の講義のことを思い出していた。

夏のスクーリングの最後の授業でも問題提起されていたのが、『教育の民営化』と『チャータースクール』。

これだけ多様化した不登校児問題。
学校に行くということが、どれほど重要なことなのか。
学校に行けないということが、どれだけ重大な問題なのか。
義務教育と言うのは、本来、子どもにとっては、教育を受ける権利を保障するものであり、親や学校はそれを保障する義務があると言うことではないのか。
いじめなり、体調不良、その他の事情などで通常の授業を受けることが困難な状況にある生徒に対しての保障が、あまりにも手薄でおざなりになってはいないか。
親が動いて、カウンセリングを受けたり、塾や家庭教師などで学力をつけさせることや、フリースクールに通わせることは不可能ではない。が、担任だけでなく、学校ぐるみ、地域ぐるみ、教育委員会、果ては文科省に至るまで、対応が後手後手のような感じを受ける。
確かに、不登校・引きこもりに関しては本人の意思や性格、状態、状況と言うのが一人一人まちまちで、マニュアル化もどこかに集めて一斉指導もできない。
でも、確実に彼ら彼女らの時間は矢のように過ぎて行き、授業はそれにもまして進んでいるので、途中から行く気になって教室に戻ったところで、長期休めば休むほど、どの程度みんなに追いついていけるのか・・・・。
子どもは学校に行かない自分を嫌い、
    学校に行けない自分を責める・・・。

アメリカでは不登校と言う言葉はないそうだ。
学校に行けないのではなく、その学校には、その子どもの居場所、学ぶべきことがないのなら、その子の居場所であり、個性や学ぶ意欲を伸ばせる別の『場』が必要なのだ。
学校教育がその子には適応できないと言うのなら、ホームスクーリングのマニュアルを送りましょう。と言う教育委員会の指導の下、親が子どもに教育をすると言う形態を取っているのだそうだ。
また、そう言う親たちが集まって、自分たちで公民館などを借りて学校を開き、自分達で『先生』(教職免許を持っていなくてもOK)を探し授業をやってもらう。
そう言う形態の学校を『チャータースクール』といい、5年間の審査期間があり、それなりの実績を認められた場合、教育委員会から補助金が下りるというのだ。
クリントン大統領の時代にたった1州1校しかなかったそのチャータースクールも、今や全米に広がっていると聞く。

現状の学校教育を考えた時、問題点として『学力低下』があげられているが、週5日制になって年間134時間も削減された授業の中で、その学年が学ぶべき内容を一斉授業で詰め込む授業のやり方に既には限界がきている。
中学校に至っては、テストの結果は二極化し、真ん中がいないのだ。
九九もあやふやな生徒と、中学3年の春には中3の内容が終えているような進学塾に通っている生徒が一緒の教室で授業を受けている。
評価は相対評価から絶対評価になり、その賛否も分かれている。

どこが分からないかのかも分からない、勉強のやり方自体が分からない。

基礎をちゃんと分かるようになりたい。
その学年の勉強はその学年のうちに理解できるようになりたい。

経済的理由で、塾には通えない。
学校の勉強は学校で分かるようになりたい。
教科書をちゃんと理解したい。

既に理解できているところの宿題をやるよりもっと発展的な勉強をしたい。
もっと勉強の面白さ自体を教えてほしい。

テストで点数をとっても成績に反映されない。
内申点や、所見は、先生の個人的感情や主観が入っているのか?
その点数をつけられた本人が納得し、次に頑張るきっかけになれるような評価であるのか?

これらの要望について、学校側や教師側にしてみれば、それぞれに対しての明確な答えや説明はあるのだろう。
が、しかし。それが生徒や親に正確に伝わるかどうかは疑問であるし、現状ではこれだけのニーズに今の学校教育だけで対応することは不可能だと思う。

教育とは『生きる力』を培うものでなければならないはずだ。
どこかで、切捨てられている生徒、十分な学力も技術も習得できないまま、心太式に押し上げられ、押し出されていく生徒はいないのだろうか。
孤立化している教師、指導力が低下している教師はいないと言えるのだろうか。

学校の民営化。
『公的』であるがゆえのメリットより、『民営化』することのメリットの方が多くなっていったら、学校制度自体、大きな変革期が来る。
教師のフリーエージェント制だってあるだろう。
学区制の廃止によって、特色ある学校づくりが主流になっていう一方で、対応しきれない生徒や家庭、教師、学校が必ず出てくるはずだ。
そうなった時、自分が教師として現場に立っていたら、『勝ち組み』に残れるのだろうか?

『NO.1にならなくてもいい。
 一人ひとりがonly1』

いつでもどこにでも自分の代わりはいるような教師ではなく、一期一会、生涯、脳裏に残るような一教師として、いい授業をしていきたいと思う。
そのためにも、教科指導法はもちろん、社会学や経済学、心理学、哲学、コンピューターなど、再度勉強しなおすことはもちろん、いろんなカリキュラムを企画・運用できる能力、魅力的な授業をプロデュースできるようなネットワークや情報量を常に持ち合わせられるようにならなくてはならない。
そして、何より、子どもたちに最高の教育と愛情を提供できるような教師でありたいと思う。

あまりに遠い理想と厳しい現実にギャップは感じるが、志しは高く!目標に向かって頑張るのみ!

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