■ピケティ氏の文学的視点
トマ・ピケティ氏は『21世紀の資本』でバルザックの『ゴリオ爺さん』を数ページにわたって解説しています。この作品はバルザックの代表作であるばかりか、19世紀文学の傑作です。バルザックの全作品は「人間喜劇」と言われ、壮大な人間ドラマの体系となっています。当時のパリの生活もつぶさに描かれていて、今でいう経済小説といってもいいでしょう(もっともバルザック作品は経済がテーマなのではなく、あくまで人間がテーマです)。ピケティ氏は、経済というものを最もよく現しているものの1つが文学だと言っています。
私はピケティ氏の著作はまだ読んでいませんが、Eテレで6週連続放映されたピケティ氏の「パリ白熱教室」の講義は全部見ていました。したがって、ピケティ氏についての言及は「白熱教室」の講義によるものですが、『ゴリオ爺さん』については自分なりに考えたことを書いてみたいと思います。
ピケティ氏は『ゴリオ爺さん』の中から、野心的青年ラスティニャックが「労働所得よりも資産所得による方がはるかに裕福に一生暮らせる、弁護士になるより富裕な家の娘と結婚しろ」とそそのかされる場面を引用しています。これは莫大な相続財産を念頭に書かれている場面です。私はといえば、この作品から贈与について取り上げてみようと思います。その方が、ゴリオという人物について語りやすいのです。
■贈与しまくりで破滅もあった時代
親が子に財産を与えたい、遺したいと思う感情は世紀を超えて変わることはありません。ゴリオは全財産を、娘2人が上流貴族に嫁ぐために使い果たしました。娘たちに財産を与え尽くして自分は無一文になり、今は安下宿の最下等の部屋に寝泊まりしています。そして、ついに臨終の間際となっても娘たちは舞踏会に明け暮れ、父の最期に立ち会うこともなかったのです。
それでもゴリオは満足なのです。自分の全財産を我が子たちに与えるのが自分の本望であり生きがいだったからです。ゴリオは無一文となったので相続は発生しません。しかし、彼の生前の贈与たるや、その額はいかばかりか、相当のものであることは作品から推察できます。19世紀のパリ、相続税はありましたが税率は1%ほど、贈与したところでほとんど税金はかからなかったも同じです。
もっとも、贈与税がかかったとしても、『ゴリオ爺さん』を読むかぎり、何かにつけて嫁いだ娘たちがお金をせびりに来て(それがゴリオにとっては幸せなのだ)、それをいちいち帳面に付けて申告などしていなかったでしょう。今の日本円で100万、200万のお金を頻繁に娘たちは貰っていたのです。もともとゴリオは実業家で、資産家でもありました。それが無一文になるまで娘たちに搾り取られるわけですから、その額たるや・・・、というわけです。
娘を上流貴族に嫁がせるためには、教育やしつけに習い事、衣装代やら舞踏会・茶会、遊興・交際費、贈答などどれだけかかったでしょうか。嫁いでからも貴族社会での付き合いや祝い事など、何かにつけて出費したに違いありません。
ピケティ氏が言うように、これは借金まみれのバルザックがやっかみで描いた世界ではありません。当時のありきたりの世相だったのです。特に資産を持つ者は自分の一族に金を与えるということに歯止めがなかったのでしょう。貰う方にとってもそれが当たり前のことだったのです。相続の場合は財産を遺す側が死亡するので破滅という概念は出てきません。贈与の場合は財産を与える本人はまだ生きているのですから、当時はゴリオのように贈与しまくって破滅することはありえたのです。
■日本の贈与税非課税はどこまで必要か
話は21世紀、日本では贈与税の非課税がいくつかあります。今年(平成27年)以降を見てもご覧のとおりです。
・住宅取得資金に係る贈与非課税の拡大・延長(最大1500万円)
・教育資金の一括贈与非課税の延長(最大1人1500万円)
・結婚・子育て資金の一括贈与の非課税制度の新設(最大1人1000万円)
親が子や孫に財産を遺したり、資金を援助したいという気持ちは否定しがたいものです。手元にお金があればなおさらの人間感情です。しかし、それも限度の問題でしょう。資産を次世代、次々世代に譲り渡して有効に使ってもらいたい、運用してもらいたいという政策も間違いではないでしょう。しかし、そこに何か違和感を覚えるのです。
「そんなのは、贈与できるだけのお金がない者のやっかみではないか」と言われてしまえばそれまでです。資産を持つ者から子に資産が渡る。確かに結婚、子育て、教育、住宅、と人生の大イベントに使うわけだから、そこで使いきってしまえば貰ったお金など残るわけがないということでしょう。しかし受贈者は、自分の懐が痛みません。一方、一般所得者はイベントごとに生活のためのお金を充てていくので、もともとの懐勘定が減っていくのです。
さらに、資産を持つ者が死亡すれば相続が発生し、結局はその資産が子や孫の代に渡ります。資産は保有する者から保有されるべき者(配偶者、子・孫)へと移っていくのです。
これを、資産を「持つ者」と「持たざる者」の格差と言ってしまえば簡単です。その格差を小さくするために相続税や贈与税があるわけです。贈与税というのは相続税の補完税ですから、それについて非課税を増やしていくというのはどうなのか。まさか今の時代、ゴリオのように自分が破滅するまでお金を与えまくる人間はいないでしょう。貰う方も貰う方で、贈与税の重みが1つの歯止めにはなっているのです。それが、非課税で贈与したあげくに自分の老後設計が廻らなくなる、というのは杞憂でしょうか。
■「資産保有税」は、あってもいいではないか
ここまで話を進めると、次のようになります。
― 資産を持っている者に、持っているというだけで毎年、税を掛けたらいいのではないか。
どうやら、ピケティ氏の言うことはそういうことらしい。固定資産税のように一定額以上の金融資産を持っていれば、持っているということで「資産保有税」(金融資産税)のようなものがかかってもいいと思います。しかも一時期の固定税ではなく累進税率で毎年課税する。それは、金融資産の価値というのが時間とともに上がりもすれば下がりもするからです。
そういう税ができれば、贈与税の非課税制度など作らなくてもよくなります。資産を自分で持っていようが、子にくれてやろうが、どっちにしても税金がかかるとなると、その税金が巡り巡って次世代の一般所得者にも移転していくのです。
― じゃあ、親の心情はどうなるのだ? 子にはお金をやりたいのだ。ゴリオのようにね。
そういう人は、どうぞあげてやってください。どっちにしても、税金がかかろうがかかるまいが、ゴリオのように親は子や孫にお金をやることをやめないものです。貰った側は、そこから税金を払うだけです。どうしても非課税にこだわるなら、今の暦年贈与のような非課税枠(年110万円)をもう少し広げればいいでしょう。その範囲で子や孫に与えることで十分なはずです。
資産が少しでも富める者たちの中だけでとどまらないように、相続税・贈与税は今より税率をゆるやかに下げるかして、その上でこの2つの税の補完税として資産保有税を累進課税することが必要ではないか。毎年とは言わず、せめて一定の保有期間でも。資産を受けた者だけが得するような非課税制度が本当に必要なのでしょうか。
持たざる者が持たざるがゆえに「負」からのスタートを生きる時代に、持てる者はそれなりに富み、持たざる者はますます富まざる者になる時代になればいいなどとは、誰も思ってはいないはずです。
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