☆My Everyday Life in Canada☆

カナダに来て18年。2人の子供達の成長記録やカナダの幼児教育など梅ちゃんからの日常エピソード色々☆

100 languages

2024-11-09 | 教育観
Reggio ChildrenのHPにあるReggio Emilia Approachよりそのままコピー

100 languages
               
 NO WAY. THE HUNDRED IS THERE
 
The child
is made of one hundred.
The child has
a hundred languages
a hundred hands
a hundred thoughts
a hundred ways of thinking of playing, of speaking.

A hundred always a hundred ways of listening of marveling of loving
a hundred joys for singing and understanding
a hundred worlds to discover
a hundred worlds to invent
a hundred worlds to dream.
The child has a hundred languages
(and a hundred hundred hundred more)
but they steal ninety-nine.
 
The school and the culture separate the head from the body.
They tell the child:
to think without hands
to do without head
to listen and not to speak
to understand without joy
to love and to marvel only at Easter and Christmas.

They tell the child:
to discover the world already there and of the hundred
they steal ninety-nine.

They tell the child:
that work and play
reality and fantasy
science and imagination
sky and earth
reason and dream 
are things that do not belong together.
 
And thus they tell the child
that the hundred is not there.

The child says:
No way. The hundred is there.
 
Loris Malaguzzi   (translated by Lella Gandini)

まさか 100の言語がある
子供は 100でできている。
子どもは
100の言語
100の手
100の思考
100の考え方
100の遊び方
100の話し方がある。

100通りの聴き方、100通りの驚き方、100通りの愛し方
歌う喜び、理解する喜び
発見すべき100の世界
発明すべき100の世界
夢見る100の世界
子どもには100の言語がある
(さらに100の100の)

でも大人達が、その99を盗む
学校と文化は頭と体を切り離す。
彼らは子供に言う:
手を使わずに考える
頭を使わずに行動する
話すことなく聞くこと
喜びなしに理解する
イースターとクリスマスにだけ、愛と驚きを感じなさい

彼らは子供に言う:
すでにそこにある世界を発見し
そして100のうち99を盗む。
彼らは子供に言う:
仕事と遊び
現実と空想
科学と想像力
空と大地
理性と夢
は共にあるべきものではない
こうして彼らは子供に言うのだ。
百は存在しないと

子供は言う:
まさか。100はそこにある。
ロリス・マラグッツィ(レッラ・ガンディーニ訳)
DeepL.comで翻訳

参照
100 languages. Reggio Children. (n.d.). https://www.reggiochildren.it/en/reggio-emilia-approach/100-linguaggi-en/


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Reggio Emilia Approach

2024-11-09 | 教育観
私が好きな教育観の1つがレッジョエミリア アプローチ(Reggio Emilia Approach)です😊 
これは北イタリアにあるReggio Emilia という地域で生まれた教育です

本格的に始まったのは、第二次世界大戦の後

ファシズム独裁政治が終わり、敗戦により何もなくなってしまった街の人々は これからの街を作っていく存在となる子供達への教育に注目しました。
子供は未発達で、大人と比べると小さな存在ですが、彼らが持つ感性や子供達の人権が大切にされ「市民みんなで子供達を育てていこう」。そんな信念に基づき子供達が通える教育施設を各地に作りはじめました。

そこでは、子供達同士やその家族の他に地域住民達との交流もあり、敗戦後で物資が少ない中でも、工場で出る廃材、部品、布切れ、タイヤ、小物など、子供達の興味と発達に使えそうな物は園に提供され、子供達の知能、創造力、身体能力、社会性が日々の活動(遊び)を通して育まれていきました

市民が子供達への教育を大切にする活動が、教育者であり心理学者でもあるローリス・マラグッツィ(Loris Malaguzzi,1920-1994)に注目され、彼が中心となってReggio Emilia Approachが確立されていきました

彼の有名な言葉に「100 languages (子供達の100の言葉)」というのがあります
この「言葉」というのは、必ずしも口から表現される言葉でだけではなく、100通りの表現方法をも持つ。というとわかりやすいでしょうか
子供達が自分と世界のつながりを表現するその方法は、その子供によって異なる。言語を使っても100通りはあるし、音、光、色、線、匂い、感触様々な表現方法もある。そこから感じる方法、考える方法、伝える方法も みんな違う

子供達は日常の遊びを通し、様々な感覚に触れ、多くのことを感じ、考え、そして理解を深めていく。しかしながら、多くの大人達は子供達からそれらの学びの場を 子供達が本来持っている能力とそれを発揮する機会を奪っている。 

だからこそ、大人達は子供の言動や興味に注目し、観察し、そこからどのような学びを得ているのか、どのような環境を提供することでその学びが深められるのか 子供達の眼線や感性を大切に、そこに共に寄り添える教育方法がReggio Emilia Approach。と理解しています

また、Reggio Emilia Approachには、アトリエリスタ(atelierista)という創作活動への導きを広げてくれるスタッフと、ペダゴジスタ(pedagogista)と言われる各クラスの先生達とコミュニケーションをとりながら、そのクラスにいる子供達の興味活動から得られる学びを把握し、その環境をより良く整え次の学びへつなげていく方法を分析、模索、提案する担当スタッフがいます

子供達とのコミュニケーションには、open-ended question(答えが1つに限定されない質疑のやりとり)が意識的に使われ、子供達の思考を言語化する事で、言葉の発達と共に、より彼らの探究心を深めていく事につながります

また、子供達の学びのプロセスは、ドキュメンテーションというものが作成され、子供個人、またはグループ活動の様子が写真やコメントと共に記録された物が作成されます。これらは子供達の絵や創作物などと同様に子供達が手にできるポートフォリオにしたり、壁に展示をすることもあり、子供達自身がそれらを目にし、手に取った親達も日々の活動やプロジェクトを通じて学んだ事を振り返ることができます。 

アートや創作活動も、絵を描いたり、粘土で何かを作るといった活動だけにとどまらず、子供達の探究心が尊重され、彼らが使ってみたいと思ったものを自分達で選んで創作したり、外の世界で体験した観察や探究を振り返りながら、学びのテーマを深める活動がアトリエで行われ、まさに子供達が持つ表現方法を存分に発揮できる場所と、それを導くスタッフがいる環境です

園内では、クラス担任だけで育成するのではなく、スタッフ間でコミュニケーションをとり、アイディアや情報を交換しながら 子供達のその時の興味関心に合う教育環境を整えていく。子供達の発想や興味が発達段階と共に尊重される素敵なアプローチだと思いませんか

世界各地で注目されており、国や地域によっては公教育で取り入れられているところもあるそうです。オンタリオ州も幼児教育のベースにはこのReggio Emilia Approachがあり、それを実践している保育所も多数ありますが、キンダーガーデンでは 以前ほど子供の興味を尊重したプレイベースな学び環境ではなくなりつつある印象を受けています(時間や手間のかかる作業も含まれる為、今の政府が教育に無関心で予算が出ない事なども多少は関係があるかもしれません)

しかしながら、私がキンダーの実習の時に出会ったECEが担当するクラスと、学童クラスではReggio Emilia Approachが実践されていました。
彼女はペダゴジカルアプローチとして

「学びがどのように始まり、子供達がその活動から何を知り、何を学んだか、そこからどのような関心が生まれたか」

このようなプロセスを子供達との対話と観察を通して、子供自身が教室で可視化できる場所を教室内に作っていました

彼女の出身地であるスコットランドでもそれがスタンダードで、キンダーでも子供達が自然と共にのびのびと遊びを通して学ぶ様子を聞かせてくれました。

賃金の問題もありますが、私はカナダの公教育でも州の教育指針のベースにもなっているプレイベースで学ぶ Reggio Emilia Approachが、ECEの間だけでなく、エレメンタリーの教師達+校長先生達にも認識が広がることを強く願っています

その為に必要な人材と労力に見合う賃金。それはキンダーの場合は州民の税金からになるのですが、子供達の探究心が育成される質の良い幼児教育は、これからのAI時代の中でもAIと共存しながら新たな探究や創造ができる大人の育成にもつながると思いませんか

Reggio Emilia Approachについて、詳しく知りたい方はイタリアのReggio EmiliaにあるReggion ChildrenのHP☜クリックより、英語とイタリア語でご覧いただけます
日本語では、便利な翻訳ソフトのご活用を😀 




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不適切な言動を目の当たりにしたら

2024-06-13 | 教育観
自分が疲れている時、体調がすぐれない時に、子供がギャーギャー癇癪起こし続けていると、勘弁してくれ。。。と思うことありませんか。私はあります。

でも、見方を少し変えると、この癇癪も自己主張や不適切な言動も含め、その子が今使える表現方法を使い、こんなにも全身のエネルギーを使って、今目の前にある出来事に対して主張をするため、本当に今を一生懸命に生きているんだな。と思うとね、そんなギャーギャー言っている姿も愛おしくも思えてしまうんですよね。

だけど、その子自身や誰かに対しての不適切な言動は適切な方へ変わってほしい。

その際に私自身が心得ていて、実践を続け、効果を感じている事があります

「不適切な言動の背景に理解を示す事」その上で「適切な言動を提案すること」
です。

これは、就学前の子達だけでなく、幼稚園生、小学生にも同様に使えます。
ティーン達とはそれほど多く接する機会はないけれど、多分使えるんじゃないかな。

例えば。私がお預かりしているデイケアのお子さん達(2−3歳児達)の間で時々ある状況

みなさんはどう考えますか。

とあるランチ前の時間帯。

私が「もうすぐランチだから そろそろこれをしまおうね」とお片付けを促すように声をかけた時に、それを聞いて実行してくれたAが、私の声が届いていないBにも片付けさせようと試みた。

でもAの意向は言葉では伝わらず、Bに片付けをするんだと伝えたくて無理やりBが手に持っていた物を取ろうとする。そこでBはAに抵抗し、AはBを叩いてしまった。

この状況、みなさんならどうしますか。

AがBを叩いた瞬間だけを見て判断したら Aに対し「叩いた事」に対してだけ叱る大人達が、実は多いかもしれません。こういった対応は教育現場でも目にした事があります。もちろん、叱られた生徒は負に落ちない様子や、自分は悪くないと激しく抵抗を示す姿も見たことがあります。

特に叱られる回数が多い子達は、状況を理解される前に「またか。。」という大人側の先入観でジャッジされてしまうケースも珍しくない。

でも、このケースで例えるなら「AがBを叩いた背景」には、Bが片付けの時間にそれを実行していない。それをどうにかしようとしたという考えがありました。

Bが片付けに素直に応じていたら、Aは叩かなかったかもしれません。
でも、Bも悪気はなく、おそらく遊びに集中していて、私やAの声が届いてなかったということも十分に考えられます。決して指示を無視してたというわけではないのです。

こういった状況は、よくあると思います。では、どうすると子供達は学べるのか。

この時、「叩く」という行為は、不適切な選択であり、叩かれた方は痛いし不快に感じる。状況によっては怪我にもつながるので、「誰かを叩くことは不適切である」事は子供に伝える必要がある。

でも、叩いた背景には「片付けの時間だよ」と伝えたかった気持ちがある。ところが相手の子はまだ遊びたい事しか考えていなかった上に、おそらく「片付けの時間」であることすら認識していない。

AはBが手に持っていた物を引っ張るようにして片付けをする必要があることを伝えようとしていた。Aの思考はその目の前の事でいっぱい。でも、BはBの目の前の事でいっぱいで「遊んでいたのに、Aが急に自分が使っていた物を取ろうとした」と解釈して怒っている。だから、Bは抵抗を示す。それに対してAはどうにもできずBを叩いてしまった

この状況でBを叩いてしまったAのその行為だけに注目してAを注意したら、Aは納得するでしょうか。おそらく、Aは自分は私に言われた「片付ける」ということをBに伝えたかった

なのでもしここで私がAに対し「叩いじゃだめでしょ!なんで叩いたの?謝りなさい」と言ったとしたら、Aはおそらく納得いかず、悶々として素直に応じないと私は考えます

みなさんがもしAの立場だったら、どう接してほしいでしょうか

私の対応が必ずしも正解というわけではありませんが、私はこう言った状況の時に言葉で説明できる年齢だったらAに背景を尋ねます。 「どうして今叩いたのかな。何か困ったことや、嫌だなと思った事があったかな」と。

言葉でまだうまく伝えられない年齢や、状況を見ていた際は「Bにお片付けするんだよって伝えたかったのかな。でもBが片付けようとしないから、持っていたものを片付けようと取っちゃったのかな。それでギャー〜!!と言われちゃったから叩いちゃったかな?」などと、伝えています。

この時に、子供からの返答に即答を求めません。
なぜなら、子供達が情報を受け止め、考え、アウトプットするには、大人以上に時間がかかるからです

私の予想に納得がいってる場合は、子供なりにそうだという反応を示してくれます。

その上で、「その気持ちや考えはわかったけれども、叩くのは良くないこと。そういう時は お片付けだよと言ってみたらよかったと思うよ。 もし伝わらない。困ったと思ったら、私に助けてほしいと言いに来て良いんだよ」と伝えると、Aは納得し、叩いたことに対してBに謝罪をすることができました。それと同時に私はBにも なぜAが叩いてしまったのか、そしてお片付けをする時間なので、今手に持っているそれを、ここにしまってほしい事などを伝えます。

Bも納得をすれば、片付けにも応じてくれます。

なかなか時間のかかるやり取りではあるけれど、大人側が瞬時にジャッジしてしまって、その瞬間だけを見て子供達の言動にあれこれいうよりも、子供達も少しずつ「適切な言動を学ぶ」機会を得る事ができ、まだまだ幼稚園生くらいまでは、自分中心の視点だけれども、長い目でみると 自分で考えて判断できる力を育てる事にもつながるので、私は可能な限り状況を把握し、理解を示す事、その上で適切な言動や相手に伝える方法へ導く。事を意識しています



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モンテッソーリ教育の背景

2024-04-29 | 教育観
マリア モンテッソーリさんは、1870年にイタリアで生まれました。そしてイタリア初の女性医師です。初期は精神医学を専門とされていましたが、教育理論に没頭し、教育への情熱も芽生えたとのこと。

特に、彼女の観察力と経験から、知的障害や発達障害があることで、一般的な学校の集団教育から追い出されてしまった子達や、隔離されてしまう形での教育を受けている子達に対し、こうした子どもたちの多くが、経験や刺激を奪われるような方法で扱われていると考えていました。

そこで観察を通し、障害児扱いされる子供達もその子の発達に見合う刺激と環境を与える事で、それぞれのペースで夢中になる活動があり、それに伴って発達し成長する力がある事を見出しました。

また、彼女はイタリアの貧しい市街地で学校へ行けない環境の子ども達も対象に、それまで障害のある子どもたちに使っていたのと同じような方法と感覚教材を導入しました。そこでもいわゆる問題行動などを起こしていた子達も、その子の発達段階と興味に合う環境を提供することで、その子はその活動に自発的に取り組み、集中し自身を発達させていく力があることを実感しました。そして それらの経験からモンテッソーリ・メソッドが生まれ、1907年に彼女はローマに「子どもの家(Casa dei Bambini)」として知られる最初のモンテッソーリ学校を開校しました。
"I have studied the child. I have taken what the child has given me and expressed it and that is what is called the Montessori method." Dr. Maria Montessori.
「私は子どもを研究してきた。子どもが私に与えてくれたものを取り入れ、それを表現してきた。それがモンテッソーリメソッドである」とマリアモンテッソーリさんはおっしゃっています。
子どもたちに対する彼女の成功は、瞬く間に教育界の注目を集め、その後数年の間に、ヨーロッパ、北米、南米、そしてオーストラリアに学校が開校しました。モンテッソーリの幼稚園や小学校のほとんどは私立ですが、公立学校の中にはオルタナティブ・スクールとして開校しているところもあります。

カナダも。。。というか、カナダは教育管轄が州ごとのため、州の方針によって教育への予算も異なり、若干違う部分もあるかもしれませんが、私が住んでいるオンタリオ州で、モンテッソーリ教育と聞くと、少なくとも住んでいる地域では私立の学校になります。
 
ただ、幼児教育を勉強する中で、モンテッソーリの考え方は何度も登場し、保育園や公立の幼稚園にモンテッソーリの学校と全く同じ教具は揃っていなくても、オンタリオ州が掲げている幼児教育観の中に「観察の大切さ、そこから子供の発達に何が必要か、その促進に必要な手助けや環境づくりの重要さ」は含まれているため、理解&実践されている先生方はいらっしゃいます。なので、公立の幼稚園でも本来その根底にある考え方には、モンテッソーリ教育観も含まれているはず。。。なんですけどね。。
そうでない先生がいるのも現実だけど。。。

特に観察の大切さは本当に重要で、よくある子供同士のトラブルにも、観察することや、子供達の話を聞くことで、状況に適した声かけや提案ができ、私の経験だと3歳以上の子達は本人に気が付かせる形で声をかけると、その子自身が考え、トラブル回避の方法を選択できる場面を何度も見たことがあります。
 
こういった事の大切さと、その効果を他の教育者達や親御さん達と共有することも子供を理解する上で大切だなと感じています。

具体的な教育観やエピソードも書きたいけれど、頭が働かなくなってきたのでまたの機会に。

モンテッソーリ教育についてもっと深く学びたい方は英語だけどこのHPにリソースも含め、た〜くさんの情報が詰まっています。
Association Montessori International (通称AMI)
この中のFIND YOUR COUNTRYから、日本でのモンテッソーリ教育に関するHPリンクも見られます。 教師養成コースの案内なども閲覧できます










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モンテッソーリ教育はどんなイメージ?

2024-04-28 | 教育観
レッジョエミリア、モンテッソーリ、ガードナーの多重知能理論の中だと、日本でも聞いた事がある人が割と多いのは、モンテッソーリ教育じゃないかなと思います。

すでにご存知の方達も多いかもしれませんが、特に、世界中の様々な分野で世に名の知られている方達がモンテッソーリ教育を受けていたというメディア情報を私も目にした事があるので、そこからモンテッソーリ教育=天才やカリスマを育てる教育。と注目されたり興味を持たれた方もいるかもしれません。
その教育法は確かに素晴らしいのです。 

ただ、誤解も広がっているように感じています。きっとモンテッソーリ教育の先生達もそう感じられているのでは?

どちらかというと公立ではなく私立である事が多く、それにより一部のお金がある家庭層の子ども達だけが受けられる特別教育。とか、その教育を受けたらみんなカリスマ的なすごい人になる。とか、逆に協調性が育たないというネガティブなイメージを持たれている方達がもしいたら、それはちょっと違うのです。 

また、メディアではモンテッソーリ教育に使われている教具に注目される事が多く、手先を使う活動がメインで取り上げられているのを目にしますが、もちろんそれだけではないのです。モンテッソーリ教育でも身体を使う活動や、周りの子供達との関わりも大事にされています。決して自分で好き勝手にやりたい放題。。という事ではありません。

発達スピードや、その興味は子供一人一人異なる事が大切にされ、自分の活動と同様に他人の活動も尊重される(ここは同調とは違う)。結果、自分との違いをネガティブに比較や批判するというよりは、この人はこういう考えなんだ。こういう事が好きなんだ。得意なんだ。苦手なんだ。と、異なる意見にも理解を示せる、尊重し合える、活かし合える、成長と共にそんな人間力も育つ教育だと私は解釈しています   *もし勘違いしていたら、どなたかご指摘を!!

マリア モンテッソーリさんの言葉に
"We discovered that education is not something which the teacher does, but that it is a natural process which develops spontaneously in the human being." ~ Dr. Maria Montessori
"教育とは教師が行うものではなく、人間(子供達)の中で自発的に発達する自然なプロセスであることを発見した"  というのがあります。

モンテッソーリ教育では自発的に学ぶことをとても大切にされていて、だからこそ、その子の発達段階や興味が関係し、それに合う環境を提供するためにも、大人の観察力がとても大切になる。教具はそのツールの1つであり、その時のその子に興味がない教具を大人側からやらせようとしても、それは自発的に学ぶ事に繋がらないため、今のその子に適した教具ではないという事になります。  でも、それに興味を持つ時期がその子に訪れるタイミングが来たら、その時はその教具が適した物になります。

モンテッソーリ教育を受けて社会的な成功者として評価をされている方達は、モンテッソーリ教育を受けたからだけでなく、その教育を通して接してくれた先生方や、ご家庭で接してくれたご家族達が、子供時代の興味や発達に寄り添い、自発的な取り組みや発達を尊重するという同じような目線で関わり、「その子が今何に夢中になっているか。どういった発達段階なのか。」その活動に仮に時間がかかったとしても、大人的には意味のない活動に感じられたとしても、その子のその時の興味を理解し、尊重してもらえる環境であったのではないかと思います。 

そういった環境で育った事が、他人と比べる人生ではなく、自分はこうありたい。こう思う、こうしたい。その為に自分は何をしたらよいのか。そのような将来ビジョンを描ける力が育ち、社会的にも成功を収めているのではないでしょうか

長くなってしまったので、モンテッソーリ教育は、どういった背景から誕生したのか。。。については、また次に書きます。


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観察眼

2024-04-23 | 教育観
観察眼は、子育て以外にも持っていると活用度の高いスキルかなと思います。子育てや幼児教育では絶対にあった方がいいスキル。教育者には必須なスキル。

ポイントはできるだけ客観的に主観を入れない(特に行動分析したい際は)
この子はいつもこうだから。。。この子はこういう事を言いそう、しそうなタイプだから。。みたいな固定観念を入れてしまうと、情報を客観的に見るのが難しくなり、状況を正しく理解できなくなったり、勘違いをしてしまう原因にもなります。

誰でも簡単にできるようで できるわけではない。でも、意識をしながらトレーニングすることで、観察眼も磨かれていくと私自身も経験から感じます

同じ景色を同時に見ても、そこから何が見えたか、何を感じたかは、たまたま最初に視界に入った物、その人が持つ感覚やレンズ(先入観など)、その時考えていたこと、普段から何にアンテナを張っているかで 入ってくる情報も、受け止め方も変わってくると思います

観察眼も同じで、どんな部分に着目しているかによって、同じ状況の映像や画像を見ても異なる情報が得られます。

例えば、私が以前受講していた「Observation 」のコース内で、やや安全性にリスクを感じられる環境での子供達の様子を記録する課題がありました。
これもその時の観察目的が「子供の主体性」であれば、観察ポイントはその部分に着目し、課題もそれについて書きます

でも、同じ映像を見ながら「安全面や環境設定」について「大人の子どもへの関わり」など観察目的が異なれば、全く別のレンズをつけてその状況を見るので、注目する場面も課題文章も全く異なる内容の物が書けてしまうわけです

この観察眼は、大人側も心のゆとりがある程度ないと、客観視が難しいかもしれません。なぜなら疲れていたり、体調不良だと自分もしんどいので、冷静に見聞きする判断が難しくなりやすいからです。

子供の癇癪や、やめてほしいなと思う行動が繰り返されると、感情が揺さぶられることがあると思います。子供自身は大人を困らせよう、大人をイライラさせようとしてやっていることは稀で、子供自身が困っている何かを伝えたくて、相手に自分の意思を伝えたくて選択した言動が適切ではなかった。。。。という事があります。

繰り返される不適切な言動も、どういった状況で、何がドリガーとなっているのか。そんな事を意識して観察すると、その子供の気持ちに共感できたり、状況に適した言動を代案として伝える=子供はその状況に応じた適切な言動を学べる などのアプローチが可能になります。

また、子供達の行動を観察することで、物を並べたい、積み上げたい、倒したい、投げたい、落としたい、叩きたい、動きたいなど、発達の段階で満たされたい活動が関係しているかもしれない。という発見もできます。

石や壊れ物をそこらじゅうで投げられては、危険ですが、「投げたい時期」に、誰も怪我をしない場所でひたすら満足するまで投げさせてみる。とか、柔らかいボールなど投げても良い物を遊び道具に加える事で「投げたい」という欲求を満たすことができるし、投げる為の身体の動きに必要な筋肉を鍛える事もできます。その子はもしかしたら、将来野球を始める可能性を秘めている事だってあるかもしれません。 思い返すと、投げるに関しては、我が子達にも人や野鳥もいない水辺でひたすら小石を水に投げるなんて時期が ありました

また、遊びの提案をする際に、今日の例をあげると。
ある子が、感覚遊び用に使っているスポンジに、今までは握ったり、硬い、柔らかいなど表現を添えて伝えようとしていたのが、今日は粘土用のお箸を刺そうとしていました。
でも粘土には刺せても、スポンジに刺すには太すぎでさせない。。。この時に「それはそこに刺さらないよ」とか、「それはそうやって使うものじゃないよ」と取り上げてしまう選択もあるかもしれないし、スポンジをキッチンコーナーで洗い物に使う提案をする選択もあるかもしれません。 でもこの場合、この子は「このスポンジに粘土用のお箸が刺さるかもしれない。もしくは刺してみたいと思っているのかな?」と感じ「ここにさしてみたいのかを聞いてみました」。どやらそうらしい反応だったので、怪我をしないように見てないとですが、お箸の代わりに楊枝を並べてみたんです。

そしたら、それをスポンジに刺し始めて、楊枝だとスポンジに刺さって立つからもう1本。

もう1本と刺して、その様子を見ていた他の子達も自分もやってみたくなって、我先にとやりたがる子もいるほど何人かの関心を集めました。
楊枝は使い方によっては危ないので、本数少なめで順番こして、遊んでもらいました。

シンプルな作業ですが、スポンジに何か刺してみたい。細い箸なら刺さるんじゃないか、穴が開くんじゃないか。そんな興味から、やってみた行動かなと思いました。簡単に刺せるものとそうでない物がある。そんな事ももしかしたら感覚的に得られたかもしれません。

また、うちには生憎なかったけれど、少し大きめの半円のスポンジがあったら。。。ハリネズミみたいになって、面白いだろうななんてアイディアも浮かびました。これらを遊び環境の中に取り入れたら、楊枝を自分が思うところへ刺す事で、形ある物を作る。という指先を使う創作活動になります

あ、でも。。。
創作という観点では、私はハリネズミを思いついたけど、本当の創作としては、子供自身が目の前の道具をどう使って、何を作るか。なのよね
なので、子供自らの発想で「ハリネズミ」を作ったら、それはその子の創作したハリネズミとなるわけで、だから、本来は道具をいくつ用意して、それをどう使うかを、私は観察して記録する方が面白いし、子供達の創作力を育むことにもなるんですけどね

ちなみに、次男がこれをみて、「僕は1本あれば十分で、スポンジに刺さる音が聞きたい」と言ってました。こんな感じで、遊び方も人それぞれ。

その他に、恐竜が好きな子達、数に興味がある子達がいるので
恐竜のすごろくを出してみました

すると、やはり恐竜に興味がある子達はすぐに恐竜だ!とやってきます。 数を数える練習になるかなとサイコロも用意して、やり方を見せてみたけど、まだそういう段階ではなさそうだったので、ひとまず好きなように遊ばせてみました。

すると、サイコロを転がすことに関心が高い子、恐竜探しに関心が高い子、順番はともあれ、数字に沿って迷路のように指でたどっている子。他の子がしている事を真似している子。それぞれの関心や興味の具合で、双六本来の使い方はできなくても、それを使ってその子なりに遊んでいました。 

絵本の中に出てくる数字を指でなぞり、それがいくつを表すのかに興味を持ち始めた子もいるので、この双六は、恐竜や数に興味を持ってる子達が、数字に触れる、数えながら物を動かす、サイコロの点を数える。そんな学習要素を取り入れながら遊べるおもちゃとして、しばらく活用できそうだと感じました。

この先もし、すごろくに興味を持つ子が出てきたら、その時は別のタイプの双六を取り入れるとその子の学習意欲を向上させる期待が持てます。

双六には興味がないけれど、サイコロに興味がある子達は、サイコロを使ったブロックの積み上げゲームなど、その子が興味を持つ遊びに取り入れる事で同じく数を学ぶ機会につなげることができます

こんな風に、日常の様子から、子供達が自主的に活動に参加しそうな物を用意する事も、環境を整える事の1つになります。それを実行するためにもまずは「観察」が大事

そして、子供の興味の時期が過ぎたな。。。と思ったものは、しばらく片付けて、その時興味を持ったものにおもちゃを入れ替える。という事もできます

ちなみに、興味は移り変わりますが、その中でもずっと好きなもの。同じような遊び道具で飽きずに遊ぶものは、それらはその子が好きな事、またはその遊び内容にパターンによっては得意な事。が関係している事も大いにありです



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私の好きな教育観

2024-04-21 | 教育観
いくつかある教育観の中で、私自身がとても良いなと共感しているのが

Reggio Emilia Approach (レッジョエミリアアプローチ)
Montessori education (モンテッソーリ教育)
Gardner's Theory of Multiple Intelligences(ガードナーの多重知能理論)です。

この3つの教育観に共通しているのが、「学びの主役は子供自身」という考え方

子供達には自ら学ぶ力があり、その時の発達段階と興味ベースに応じた環境を整えることは、子供が主体的に学ぶ事につながる

大人が考えたカリキュラムを一方的に教えるではなく、子ども自らが学ぶ力を信じそこに寄り添うこと

その為に大人ができる大きな役割の1つは観察
観察から子ども達の興味や得意を探る
子供達の発言に耳を傾ける(アクティブリスニング)
子供の発達ドメインとその過程、特性の理解
子供の気質の理解
子供達が自主的に活動(学び)へ参加できる環境の設定

この環境は、「environment as the third educator(環境も第3の教育者)」というくらい、その子の興味と発達段階に合う環境を整えることは、子供自らが学ぶ効果を上げると言われています

これらを実行するにあたり、上記3つの教育観はとても役に立ちます

そして、なぜ教育が繰り返されていると感じるかというと、例えばモンテッソーリ教育を作ったマリア モンテッソーリさんは約1世紀前の方、レッジョエミリアアプローチは世界大戦後の敗戦の世から生まれた教育観、ガードナーさんは今もご健在でハーバード大学の教授ですが、この方達以外にも、ジャン ピアジェさんなど人間の発達段階における特性に注目し、子供個人の発達段階を理解する大切さを重視した幼児教育を唱えている素晴らしい方達が100年前後も前から多数いらっしゃり、今もその名が知られ、子供の人権や個人の発達に適したアプローチが学びにつながる大切さを唱えているんです。

様々な教育理念を学ぶと、1世紀も前から今に至るまで、子供の人権や発達、また社会との関わりなどに注目した「子供が主役の教育」を唱えている方達がいたのだと嬉しく思うと同時に、ではなぜ、子供主体の学び教育から大人指導型の教える教育に行ったり来たりしてしまうのか。
不思議であり、面白くもあり、ちょっと残念にも思うことです

昔は子供は自分では何もできない。考える力や判断力がない存在として扱われていた時もあったようです。今でもそういう考え方を持つ国もあると思います
例えば、カナダの黒歴史である先住民族の子供達に対する虐待が長期にわたり表面化されなかった事の原因の1つは、子供達の訴えに(それが先住民だからという差別も併せ)真摯に耳を傾け、向き合う大人達がいなかったことも関係していたと言われています。

まだ言葉で上手に伝える力が育っていない子供でも、考えがあり、感じていることがあり、理解する力も持っている。

余談ですが、私がカナダに来た最初の数年は、今以上に英語が流暢に話せない事で、もどかしい気持ちを感じた事が何度もありました。 母語でなら簡単に言える、伝えたい事、考えている事が相手と同じようにある。でも、それを大人であっても同じように伝えられない。 きっと最初の方に出会った人達は、私がどんな考えを持っている人間かなど興味もなかったかもしれないけれど、知らないだろうな。あまり考えてない馬鹿な人と思った人もいるかもしれない。
だから、身体の障害や発達の段階で言葉で伝える力がない人達の気持ちも共感できる部分があります


子供の興味や発達が尊重された教育観に共感する教育者や教育機関は今現在も多数あるし、それが公教育で継続実施されている国もあるかもしれませんが、日本を含む多くの国で、公教育のスタンダードにならないのはなぜなのか。日本の著名な教育者の方達も子供目線の教育環境の大切さを伝えているのに、現場が変わらないのはなぜなのか。。。。

オンタリオ州の幼児教育は、これらの教育観が重要視されていると私は理解しています。が、、昨日書いたように少し昔の教育観に戻りつつある傾向も感じています。

なぜだろう。。と、考えた時、1つは一方的に教える方が教育者側の準備や負担が少なく済むから??
あらかじめ設定されたカリキュラムに沿った準備をし、そのマニュアル通りに教える事である程度の仕事はできますよね。

もう1つは、「遊び=学び」の環境から発達促進をさせるには、教育者側の観察眼や創造力も必要になります。その力やバリエーションが豊富でない教育者にとってはマニュアルがある方が助かるのかもしれません。

でも、マニュアルも時に便利で助けられる存在だと思いますが、それに固執してしまうと、今度はそのマニュアルの取り組み方法と合わない子ども達に対して、先生側もストレスを感じ、問題児レッテルが貼られてしまったり。。。なんて事にもつながるような。。

子供達それぞれに気質も異なり、発達のスピードも 各ドメインごとにも凸凹があることは珍しくないわけで、そこに少なくとも理解を示し、アプローチのバリエーションが複数ある事で、異なる気質や得意を持つ子達もそれぞれ学ぶ機会を得られるのにな。。

さらに現実的な問題として人件費もあるのかなと。
子供達を観察するにしても、一人の人間が観察できる範囲には限界があります。

ECEのカリキュラムの中で「observation」というコースがあるのですが、目的に応じた観察をする時は そのスタッフは「観察と記録」が仕事なので、その間別のスタッフが通常業務に入ると習いました。

もちろん、日々の活動の中でもある程度の観察はできるわけですが、子供の興味関心、発達レベルはそれそれ異なるので、丁寧な質の高い教育環境を作るには、人材が必要になり、そのための人件費が発生する。
じゃあ、そのお金、どこから出るの? そんな経済的な問題にもつながるのだと思います

質の高い教育には、質の高い人材も必要で、その人材を育てる教育も必要で。。そう、お金がかかるのです。。。。。

これらの問題を解決できる策があれば、教育者の質も上がり、子供達が安全に、自主性を持って日々の活動からたくさんの学びを得られる教育環境が作れると思うんですけどね。

経済的な問題に関しては、世の中に 子供への興味と理解、幼児発達の楽しさ、素晴らしらを含む認知が広がっていないことなども関係があるのでしょうか。。。

(この辺りをお金持ちの層が損をせずに公教育に多額の投資してもらえるような仕組みを開発できたら。。。 最近解雇が多いIT系の優秀な方達がそこにアイディアを生み出してくれないかな。。。次のビジネスチャンスでは!?

それと、今の大人達も、子供だった頃に「教えられる」教育を受けてきて、それがスタンダードだと思っている人達も世界中に沢山。 「子供が遊んでいる=学んでいる」んだけど、どうしてもそうは思えず、「子供が遊んでいる=無駄な時間を過ごしている」そんなふうに考えてしまう大人達が世間に沢山いることも事実です。 だからこそ、教育者側もポジティブな発信を続け、子供の発達や育ちについて情報を共有していくことも大切なのかなと感じています

あちこちそれましたが、私自身は勉強する中で、特にReggio Emilia Approach 、Montessori education、Gardner's Theory of Multiple Intelligencesに共感していて、自分の教育観にもなり、日々の思考にも度々登場しています。

このそれぞれの教育理論についても、また別の機会に綴りたいと思います。



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教育も行ったり来たり循環するのか!?

2024-04-20 | 教育観
大昔から無くならない戦争もですが、教育も行ったり来たり繰り返されているのかな。。。。と感じる今日この頃。

教育について綴ってみたいことがいくつかあるので、新しくカテゴリーを追加してみました

私自身、ここ数年オンタリオ州の幼児教育について学ぶ中で、今の教育観を確立するまでには 当時の教育者達が世界中の多くの教育について調査分析をした経緯があり、その中で 「学びの主役は子供。そして子供は自ら学ぶ力を持ち、遊びを通して学ぶ」方針を固めた事を知り、その為に幼児教育者がするべき立ち位置と役割。そんな部分にとても共感を得ています。
自信を持って、オンタリオ州の幼児教育方針は良い!と私は言いたいのですが。。。

キンダー以降を教えられる先生達が持っている教育観とズレがあるのかもしれない。。。。と、思う経験もいくつかありました。

今の大学生達がキンダーだった頃から、オンタリオ州の幼児教育は少しずつ移行期に入り、9年生達がキンダーの頃から、「遊びから学ぶ」という主旨での教育方法で、小学生達と同じ時間帯で、毎日1日学校へいく幼児教育がスタートしました。
その頃から、幼児教育者:Early Childhood Educator ( ECE )も教育委員会で正規採用となり、クラスは教員とECEの2名体制でそれは今も変わらず。(でも、、そのお給料の差はびっくりがっかりなんだけどね。。。。)

長男と次男がキンダーだった頃の教室環境はボランティアや訪問日に見た印象だと、ECEが学んだ幼児教育の環境設定がされていて、子ども達は様々な活動をその教室内や校庭で取り組める。一人になりたい時用の空間なども用意されていました。
ボランティアで入った時も、子ども達と話したり、その遊びに手伝いが必要な際にサポートしてほしい。というような要望だった記憶。

でも、私が最近実習で行った先では、20名ほどの生徒達に、大人4人(保護者ボランティア、教員実習の生徒、クラスの先生と私(クラスのECEが休憩中)がいた環境下で、子ども達の活動に目を向け、そこに共感したりしていた大人は私だけでした。他の大人達は各テーブルに子ども達を数人呼び、印刷されたプリントにアルファベットの練習を取り組ませていたんですよね。。。別にそれが悪い事とは言わないけれど(そういった活動が好きな子もいるしね)。でもせっかく大人達がたくさんいるのに、子ども達がそれぞれの場所で色々試行錯誤したり、工夫したり、夢中になってる活動があるのに、それに気がついてもらえないような勿体無い気がしてしまったのです。「子供は遊びが学び」が理解されていないように感じてしまいました。

先生達は目の前のプリント作業をする子達に注目している事が多いため、子供に注意が行くのは、何か争いごとが勃発した時が多い。。。
なんか勿体無いよね。。。。

また、幼児教育の発達の1つで大事とされている事に社会性の発達があります。それには感情の理解、表現、自分と相手への尊重、適切な言動を身につける、必要な助けを伝えられるなど 自分と感覚が異なる人を相手に自分の意見が伝えられ、相手の事も尊重できる力を身につけるというのは、一筋縄ではいかない根気のいるアプローチ。中にはそれらがとても苦手な子達もいます。また、なかなか気持ちを切り替えられない子もいる。これに関しても、ECEの先生との方が、子供の素行に対しての理解や、小さな変化への共感が同じような目線で感じられた事も印象的でした。もう1人の先生も決して悪い先生ではなかったのですけどね。

それに、息子達のキンダーの先生達はみなさん共感力があり、子供目線のアプローチをしてくださっていた記憶なので、何かね、教育委員会の方からくる方針や、校長先生の考え方によって 最近のキンダー以降の学年を教えられる先生達の教育観が少し前の世代で一般的だった方法に逆戻りをしているように感じたのです。 これは現場の先生達も感じている様子でした

学校という組織の中では、教育委員会や校長先生の方針に従わなくてはならないのでしょうね。。。
でも、代行のECEとして採用される際の募集要項には 「遊びから学ぶアプローチ」を求められているような内容だった為、この統一感のなさは、何なんだろう。。。

今後、オンタリオ州のキンダーガーデンの教育はどういう方向性にいくのだろうか。。。10年前の移行期逆バージョンの時期が巡ってきているのだろうか。。。

ECEとしての大ボス?は、その資格登録や更新をするCollege of Early Childhood Educatorsという機関だと思うので、そこの方針=ECEとなる為に学んだ事から得た信念を仕事に反映することが大切になると思うのですが、学校という組織と教育観が統一されていない場合、学校で働くECEはどうする事が良いのか。。。

先日代行で行った先では、敷地内の小さな森で遊ぶ際に「枝を拾ってはならない」という新しい決まり事ができていて、驚きました。校長先生からの指示だそうです。
誰か大怪我でもしたのか聞いてみたら、ご近所トラブルがあったとのこと。

この場合、私だったら遊ぶ前に「枝を持ったまま走っても良いのか」「枝を誰かに向けたり、武器のように使用しても良いのか」「枝を近所の敷地に投げ入れるのは良い事か」

これらは全部答えは「NO」であり、そこには子供自身の安全、近所に済む家族の安心安全に関係のある行動であり、子供自身に質問から考えさせ「してはならない」と理解させた上で、例えば拾った枝を見たて遊びに使ったり、創作物を作ったり、それで文字を作ったり、そんな活動に「枝を拾い集めて使う」事はむしろ子供の発達には適切な使用方法であり、「枝を拾う事を禁止」というのは度が行き過ぎる判断だと私は思ったのです。その日だけ行く先なので、何も言いませんでしたけど。

仮に、そういった会話をした後に、枝を持って走ったり、投げようとしていた子がいたら「あれ?〜はしていいんだっけ?」と聞けば よほど理解度や行動制限に問題を抱える子でない限り、動きを止めます

そんなもやもやを感じつつも、私が出会ったECEの方達の中には、お手本にしたいような教育観でお仕事をされている方達にも出会えて、その労力にマジで賃金もっとあげるべき!!と思ってなりません。

子供の主体性を重んじながら「遊びから学ぶための環境づくり」は、その発想力もですが、教育者自身も情報収集や交換をしたり、試行錯誤する経験の中で積み上げていける部分でもあると思うので、各ECEの方達が持つバリエーションの量によっても、できる事が変わってくるのかもしれません。だからこそ、私はその出会ったECEの方達が、私に惜しみなく色々見せてくれたり、話を聞かせてくれたように、その取り組んでいる事を、学校内や地域、ご家族にも もっと共有して、子供が遊びから何を学んでいるのかへの理解が広がったらいいのに。。と密かに願っています。

私自身も、自分が良いと感じた教育観をもっともっと向上させて、実践レベルにしていきたいし、実践してみて良かった事は共有したいと感じている今日この頃です



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