夫婦別姓と日本国憲法で書いたとおり、現在の憲法では、夫婦別姓は理にかなっています。
しかし、その憲法を変えてしまおうとする動きが、自民党の中で起こっているのはご存知ですか?
それが、憲法第24条改正案です。しかし、よくない案なので、改悪案と呼ばせていただきます。
下記のサイトは男女平等を否定する憲法24条の改憲案に抗議しています。
詳しい情報は下記をご覧下さい。
STOP!憲法24条改悪キャンペーン
読売新聞の憲法改正試案が上のSTOP!憲法24条改悪キャンペーンのサイトに掲載されていました。「家族」を社会の基本単位だと条項に入れることは、戦前の家制度を復活させるものではないと書かれていますが、「家族」という言葉を入れること自体、「家制度」の復活を意味していると私はどんな屁理屈をかかれてもそう思います。ただ今風に言葉を変えただけで。
こうして考えてみるとなんだか、自民党がとても怖い政党に思えてきました。日本という国を戦前の危ない国に変えようとしている気がします。
基本的人権の尊重は、個人が優先しすぎてて家族を無視しているとか、愛国心が大切とか、子は親を扶養する義務があり、親は子どもを正常に育てる義務があるとか…。
さらには、
「夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないことで、家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない。」
(森岡正宏衆議院議員)
という言い草まで。
夫婦別姓がどうして情けないことになるのかよく分かりません。別姓にすることで、家族をないがしろにしようとはまったく思っていないのに。
なんだか恐ろしい言葉がたくさん並んでいて、吐き気がしました。よくぞそんな言葉を平然と吐けるものだと。
反対意見を言いますと、
まず、個人が優先してしまい、家族を無視するような人間が増えたのは、憲法のせいではないと思います。
高度成長期の親や学校の教育が間違っていたからです。
親は、子どもに何でもかんでも買い与えることがいいことと思い、自由に育てることがいいんだと、買ってもいいものといけないもの、してもいいこと悪いことの区別もつけず、育てました。そんな子どもは当然、個人が優先するように育つに決まっています。
権利を持つというのは、責任がともなうということをほとんどの親は子どもに教えていません。他人の領域を脅かすような権利はいけないことなのだということも教えていません。しまいには親自身や大人たちが他人を脅かすようなことをしているありさまです。
そんな大人たちを見て育つ子どもが、まともな大人として成長するでしょうか。
次に学校です。
私は学校教育に小学校に入学した頃から疑問に思っていました。6歳の子どもでも感じるのですから、やっぱりおかしいのでしょう。
何が変かというと、勉強ができさえすれば、先生や親の言うことを素直に聞いてさえいれば「いい子」という考え方です。
勉強がすごくできても、裏で友達をいじめたり、盗みをしたりする子が「いい子」ですか?
先生や親の前だけ、いいカッコしいの子どもが「いい子」というのですか?
違うと思います。
私の幼少時代もそうですが、今もそういう育て方の親や先生がまだ多いのでしょう。
だから、自分さえよければいいという大人や子どもが増えているのだと思います。
じゃあ、私の思う正しい教育とは何だ?ということになりますね。
それは、
ということです。
私はこういうことを主に母親に教えられました。
勉強や学校のことは、今まで生きてきてそう自分で感じたことです。
「愛国心が大切」って、憲法で決まっているような押し付けがましく恐ろしい愛国心なんていりません。
愛国心は自然と湧き起こってくるものです。
いまさら、天皇陛下万歳とか、日本国万歳とかどこかの国のように言わせる気ですか?
みんなが一斉に右向け右の世界は想像するだけで、かなり不気味です。
「子は親を扶養する義務があるし、親は子どもを正常に育てる義務がある」
どうして義務と言われ、押し付けられなければいけないんでしょうか。そもそも「義務」ではなく「責任」と言うのではないでしょうか?
それに、その家に応じて、扶養する場合や本人が自立して生きたい場合があるでしょう。家庭の事情は家々によってみんな違うのに、別に義務化しなくてもいいんじゃないでしょうか。
また「自立」という言葉も履き違えてますよね。「自立」とは自分勝手のことではありません。
読んで字のごとく、自分で立って生きていくことです。自分で立って生きていくということは、一人で勝手に生きることではなく、周りと協調しながら、自分らしく生きていくことを言います。
そういう教育を大人も、子どもも、受け、考える時代になったのではないでしょうか。
しかし、その憲法を変えてしまおうとする動きが、自民党の中で起こっているのはご存知ですか?
それが、憲法第24条改正案です。しかし、よくない案なので、改悪案と呼ばせていただきます。
下記のサイトは男女平等を否定する憲法24条の改憲案に抗議しています。
詳しい情報は下記をご覧下さい。
STOP!憲法24条改悪キャンペーン
読売新聞の憲法改正試案が上のSTOP!憲法24条改悪キャンペーンのサイトに掲載されていました。「家族」を社会の基本単位だと条項に入れることは、戦前の家制度を復活させるものではないと書かれていますが、「家族」という言葉を入れること自体、「家制度」の復活を意味していると私はどんな屁理屈をかかれてもそう思います。ただ今風に言葉を変えただけで。
こうして考えてみるとなんだか、自民党がとても怖い政党に思えてきました。日本という国を戦前の危ない国に変えようとしている気がします。
基本的人権の尊重は、個人が優先しすぎてて家族を無視しているとか、愛国心が大切とか、子は親を扶養する義務があり、親は子どもを正常に育てる義務があるとか…。
さらには、
「夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないことで、家族が基本、家族を大切にして、家庭と家族を守っていくことが、この国を安泰に導いていくもとなんだということを、しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない。」
(森岡正宏衆議院議員)
という言い草まで。
夫婦別姓がどうして情けないことになるのかよく分かりません。別姓にすることで、家族をないがしろにしようとはまったく思っていないのに。
なんだか恐ろしい言葉がたくさん並んでいて、吐き気がしました。よくぞそんな言葉を平然と吐けるものだと。
反対意見を言いますと、
まず、個人が優先してしまい、家族を無視するような人間が増えたのは、憲法のせいではないと思います。
高度成長期の親や学校の教育が間違っていたからです。
親は、子どもに何でもかんでも買い与えることがいいことと思い、自由に育てることがいいんだと、買ってもいいものといけないもの、してもいいこと悪いことの区別もつけず、育てました。そんな子どもは当然、個人が優先するように育つに決まっています。
権利を持つというのは、責任がともなうということをほとんどの親は子どもに教えていません。他人の領域を脅かすような権利はいけないことなのだということも教えていません。しまいには親自身や大人たちが他人を脅かすようなことをしているありさまです。
そんな大人たちを見て育つ子どもが、まともな大人として成長するでしょうか。
次に学校です。
私は学校教育に小学校に入学した頃から疑問に思っていました。6歳の子どもでも感じるのですから、やっぱりおかしいのでしょう。
何が変かというと、勉強ができさえすれば、先生や親の言うことを素直に聞いてさえいれば「いい子」という考え方です。
勉強がすごくできても、裏で友達をいじめたり、盗みをしたりする子が「いい子」ですか?
先生や親の前だけ、いいカッコしいの子どもが「いい子」というのですか?
違うと思います。
私の幼少時代もそうですが、今もそういう育て方の親や先生がまだ多いのでしょう。
だから、自分さえよければいいという大人や子どもが増えているのだと思います。
じゃあ、私の思う正しい教育とは何だ?ということになりますね。
それは、
- 自由や権利にはそれ相応の責任が伴う。
- 例え子どもでも自分のしたことは自分で責任をもつ。
- 自分が嫌なことを人にしない。人が嫌がることを無理強いしない。
- 勉強も大切だが、それ以上に人との繋がりやコミュニケーションの方がもっと大切である。
ということです。
私はこういうことを主に母親に教えられました。
勉強や学校のことは、今まで生きてきてそう自分で感じたことです。
「愛国心が大切」って、憲法で決まっているような押し付けがましく恐ろしい愛国心なんていりません。
愛国心は自然と湧き起こってくるものです。
いまさら、天皇陛下万歳とか、日本国万歳とかどこかの国のように言わせる気ですか?
みんなが一斉に右向け右の世界は想像するだけで、かなり不気味です。
「子は親を扶養する義務があるし、親は子どもを正常に育てる義務がある」
どうして義務と言われ、押し付けられなければいけないんでしょうか。そもそも「義務」ではなく「責任」と言うのではないでしょうか?
それに、その家に応じて、扶養する場合や本人が自立して生きたい場合があるでしょう。家庭の事情は家々によってみんな違うのに、別に義務化しなくてもいいんじゃないでしょうか。
また「自立」という言葉も履き違えてますよね。「自立」とは自分勝手のことではありません。
読んで字のごとく、自分で立って生きていくことです。自分で立って生きていくということは、一人で勝手に生きることではなく、周りと協調しながら、自分らしく生きていくことを言います。
そういう教育を大人も、子どもも、受け、考える時代になったのではないでしょうか。