春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

芥川龍之介・・・生き様おそるべし・・

2016-05-28 21:00:48 | 残念・・・!
なよなよした作家は好きではないが、
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。

その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・



昭和改元から間もない昭和二年一月、芥川龍之介は
鵠沼から田端のいえに帰った。龍之介は、前年(大正15年)四月から転地療養をしていた。
鵠沼での龍之介は、あらゆる病気を背負って
やせ細り、死を願い、それを口ばしった。

散歩に出ると「青酸加里を売ってくれませんか」と
町の薬屋を一軒一軒訪ねた。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。



七月二十三日の朝九時、龍之介は上機嫌で眼を覚ました。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。

写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」

あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。


芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。

コメント (2)
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