なよなよした作家は好きではないが、
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。
その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・
芥川龍之介はその中の一人であります。
作品は極上なのに生き様はあまり好きではない。
その芥川龍之介の『死』を扱った新聞に目が行った。
新聞は昭和2年、3年代の文芸界から・・・

昭和改元から間もない昭和二年一月、芥川龍之介は
鵠沼から田端のいえに帰った。龍之介は、前年(大正15年)四月から転地療養をしていた。
鵠沼での龍之介は、あらゆる病気を背負って
やせ細り、死を願い、それを口ばしった。
散歩に出ると「青酸加里を売ってくれませんか」と
町の薬屋を一軒一軒訪ねた。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。
ある日、五、六十匹の蠅を飲み下したが、猛烈な下痢をしただけで、死にはしなかった。
五月のある日、龍之介は、仕事場にしていた、帝国ホテルの一室で薬を飲んだ。
しかし、妻文子が駆けつけるのが早く、応急手当をして一命は取り留めた。
七月二一日、龍之介は、佐多稲子を呼んだ。
龍之介は稲子に、自殺未遂のときのことばかり、執拗に尋ねた。
七月二十二日の夕方、龍之介は、上野桜木町の宇野浩二のの留守宅を訪ねた。
当時、宇野浩二は強度の神経衰弱のため入院していた。
龍之介は、宇野夫人に、見舞の菓子折りと浴衣地を渡し、宇野から来た手紙を読んで聞かせ、
ひとしきり泣くと、長い髪の毛をさっとかき上げて、「ではお大事に」と言って、去って行った。

七月二十三日の朝九時、龍之介は上機嫌で眼を覚ました。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。
写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」
あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。
芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。
朝の食事は、いつもより多く、半熟卵四個と牛乳を飲んだ。
夕方二人の客が来た。階下の八畳で夕食を共にし、
日本酒を猪口に二、三杯吞んだ。
珍しく元気で話が弾んだ。客は十時頃帰った。
翌七月二十四日の午前二時頃、龍之介は二階の書斎から降りてきて、
妻文子が、いつものように、
「あなた、お薬は?」というと
「そうか」と答えて蚊帳を出た。普段のように睡眠薬を飲んで、
また蚊帳に入った。
文子はその時、何とはなしに、ハッとした。
<夫は既に二階で、睡眠薬を飲んできたのではないだろうか。
それを、私に、いつものように
「お薬は?」と言われたので、
反射的に、また吞みにいったのではないだろうか>
胸騒ぎがしたが、それをどうしても尋ねることができなかった。
そのまま二人は深い眠りに入った。
龍之介にはそれが永遠の眠りとなった。
写真
芥川比呂志氏を膝の上に座らせた「芥川龍之介」
あの名文はこのような生活環境の中でかき上げたのか!
芥川龍之介の人間は好きではないが、
作品は「凛」としてどれも好きである。
芥川龍之介の遺書は、
妻文子、小穴隆一、菊池寛、竹内得三(義父の弟) あての四通であったが
其の他に、
「ある旧友に送る手記」という、久米正雄宛の手紙と、
「或る阿呆の一生」
の原稿があった。
