草刈りで住処を追われた蚊が、
開けていた車の窓から今晩の住処に、
容赦ない人間の仕業に、仇討ちの蚊4匹。
かい~ぃ‼
開けていた車の窓から今晩の住処に、
容赦ない人間の仕業に、仇討ちの蚊4匹。
かい~ぃ‼
小林源太郎。
1799年、中山道熊谷宿で生まれ、
父の彫り師・小林源八から、長谷川家に養子になった男。
1799年、中山道熊谷宿で生まれ、
父の彫り師・小林源八から、長谷川家に養子になった男。
江戸雑司ヶ谷(今の豊島区)で生まれた、
飲んべぇ~で女好き、
15歳年下の彫り師・石川雲蝶の誘いに乗って、
越後・魚沼市の西福寺の鐘楼に龍を彫った。
飲んべぇ~で女好き、
15歳年下の彫り師・石川雲蝶の誘いに乗って、
越後・魚沼市の西福寺の鐘楼に龍を彫った。
47歳で越後入りした長谷川源太郎が、
鐘楼に施した龍は、1850年51歳。
鐘楼に施した龍は、1850年51歳。
それまでは、三国峠あたりで、
金剛力士などを彫ったと伝えられてますが、
金剛力士などを彫ったと伝えられてますが、
どうなのでしょう…?
今回の魚沼巡りを決めたのは、雲蝶彫りより、
長谷川源太郎の、越後での彫り作品でした。
長谷川源太郎の、越後での彫り作品でした。
👇梵鐘は、越後の鋳造家の作で、
三十三体の観音像が模られていて、
戦時中、重要文化財とした、天皇の「勅許」の銘があり、
「供出除外」の指定を受けて、お寺に返されたといいます。
三十三体の観音像が模られていて、
戦時中、重要文化財とした、天皇の「勅許」の銘があり、
「供出除外」の指定を受けて、お寺に返されたといいます。
長谷川源太郎はこの後、雲蝶から離れ、
今でも2メートルは積もる、雪の越後を後にし、
1855年、群馬県榛名神社の双竜門の龍に銘を残し、
1855年、群馬県榛名神社の双竜門の龍に銘を残し、
👇榛名神社・双竜門の扉
亡くなる前年完成させたのが、1860年。
群馬県箕郷町生原の本殿海老虹梁の龍、
この時、一緒に彫ったのは、
東都、後藤恒徳。
この時、一緒に彫ったのは、
東都、後藤恒徳。
長谷川源太郎・絵は小琳斎を名乗り、
生まれ故郷・熊谷宿がよぎったのでしょうか、
晩年、高崎を拠点にして、62歳の生涯。
晩年、高崎を拠点にして、62歳の生涯。
👇北野神社
👇北野神社・本殿
👇後藤恒徳のサイン