春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

白萩の大悲願寺②-② 政宗の手紙。

2019-10-05 21:49:19 | 関口文治郎/神社仏閣
 
仙台市に「萩の月」のお菓子があって、
美味い!

萩は仙台の代名詞、昔から萩の街と思っていた。
一通の手紙が東京あきる野市に、
保管されていた。
仙台のヒーロー、伊達政宗が、
近くの川で鮎釣りをして、宿泊した大悲願寺。
垣根からあふれる程の、
白い萩のさ揺らいだ光景を見た、
政宗が国に帰ってから、是非ほしいと送った、手紙。
 
政宗が統治していた仙台に、萩は無かったのか?
 
 
伊達政宗は仙台のが伊達家の当主になって23歳の時。
弟との家督争いに母が一枚かんで、
目が悪い政宗より、弟の政道を担いで、
当主に据える思いが、裏目に出て、
政宗 、弟を殺害したことになっている。
 
その政宗の弟が、あきる野市の大悲願寺で、
住職になっていた伝えが現住職の説法からうかがえる。
15代住職秀雄のこと。
 
政宗の長女五郎八(いろは)姫は12歳で、
徳川家康の6男松平忠輝に嫁ぎ、
不運、忠輝は改易され、平民に、
21歳で離縁されて、仙台に帰る・・・
史書・・子はいなかったが通説なのですが、
子は、大悲願寺に預け、身を守っていたのではと・・。
正宗が度々大悲願寺を訪れていた理由は、
孫に会いに行くため。手紙の白萩とは、孫の事。
注意深い正宗は、露骨に書かず白萩と・・・。
そうとも思えてくます。

あんなこんな、あちこち調べたのに、
さっぱり、らちがあかない。
とんぼに負けず劣らずクルクルの目。
歴史ものは、作者の想像が入る。
止めた。
ここはすんなり、政宗の手紙が現在も残っている、
白萩を届けてほしいと書いた内容と思うことにした、
看板に陽が映している、一通の手紙。

👇大悲願寺本堂、地元の大工12名と、木挽き14名が造った本堂。

 
白萩を見る弘法大師。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
👇梵鐘 1672年8月6日、横川(八王子市)の冶工、
加藤五郎衛門宗次の鋳鋼。
朝夕は、時の鐘、ゴーン。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ラグビー日本が勝って、13日がまた楽しみ。
 
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 白萩の大悲観寺① 観音堂、仁... | トップ | 日高市、聖天院勝楽寺②ー①、... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

関口文治郎/神社仏閣」カテゴリの最新記事