融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

思うこと

2016年05月20日 | 日記

 「内地」の人の中で、「日本が守られるために沖縄に基地がなくてはならない、中国が攻めて来たらどうするんだ」と、時々そういう声を聞くことがあります。

 それは、普通に考えてみると、「内地」の自分が静かで平安な暮らしをしたいために、沖縄の人は基地の騒音に悩まされたり、米軍関係者による犯罪の被害者になっても構わないと言っているのでしょうか。

 自分が幸せになりたいために、他人に不幸を押しつけて犠牲にしても構わないという考え方は、甘ったれているのではないでしょうか。そういう人は、最低でも「沖縄に基地がなくては困るので、私も嘉手納基地の真下に移住して、沖縄の人たちと共に騒音を甘んじて受けながら生活する」と言って、その通り実行しているのなら、まだ筋が通っているというものです。

 聖書には、「よきサマリア人のたとえ」という物語が記されています。旅の途中で追いはぎに襲われ、倒れている人がいました。そこを、宗教家や人格者と呼ばれているような人が通ったのですが、見て見ぬふりをして過ぎ去りました。しばらくして、サマリアの外国人がそこを通ったとき、倒れている人に応急処置をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行き、宿屋の主人に前金を渡して介抱させるといったことをしました。

 イエスさまは、「よきサマリア人のたとえ」を話された後、話を聞いていた人たちに向かって「誰が倒れていた人の隣人になったと思うか」と問われました。それは、誰が答えても「助け、介抱した人」に違いありません。

 つくづく、イエスさまの問と答えが「当たり前のこと」になっていないのが世の中というものかもしれません。けれども、イエスさまの教えを少しでも受け止め、自分の生活の中で、少しずつ実現させて行くことによって、確かに平和が訪れると信じる者でありたいと思います。

 

 

 

  


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