融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

明日は礼拝です

2016年09月10日 | 礼拝のご案内

 明日9月11日(日)は、主日礼拝です。午前9時から教会学校、午前10時15分から讃美歌練習、午前10時30分から主日礼拝です。メッセージは「自分は強いと過信していた」、讃美歌は「新しい時をめざし」(今月の歌)、「馬槽のなかに」、「神はそのひとり子を」です。礼拝後は、祈りの一時、そしてお茶の一時があります。ご興味のある方は、どなたでもご参加ください。その後、9月の定例役員会があります。また、午後1時30分からは、合唱練習があります。

 この一週間は、何だか週末が早く来たように感じます。台風とか、葬儀に出席したからでしょうか。宿題が山積み状態になっています。疲れも溜まっています。何とか次の週で宿題を消化し、ペースを取り戻したいと願っています。

 


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「世に流されず、ぶれなかった」

2016年09月10日 | 聖書のお話

「世に流されず、ぶれなかった」 コリントの信徒への手紙一 10章23~33節

 パウロは、「自分の利益を求めず、他人の利益を求めなさい。」と教えています。この言葉を耳にしたとき、近江商人の「三方よし」の精神(我よし、客よし、世間よし)を思い起こします。それは宣教に当てはめると、福音を宣べ伝える者と受け取る者の互いの救いと幸いを追い求めるのと同時に、宣教の拠点として教会が立っている地域を大切にし、良いものへと作り上げることであると考えます。

 コリントの教会の中には、自分たちのことを「信仰的に強い者」と考えていた人たちがいました。その人たちが、コリントの社会で他宗教と関わりを持つとき、自分たちは「信仰的に強い者」だから、「すべてのことがゆるされている」と過信することもあったのではないでしょうか。そうして、上から目線でトラブルになったり、反対に迎合して世に流されてしまったりと、自分の信仰がぶれてしまうこともあったのではないかと思います。

 「信仰的に強い者」とか、「すべてのことがゆるされている」というのは、それが自惚れになり、自分の信仰を追求することに終始してしまうという落とし穴になってしまうものかもしれません。宣教とは、自分を愛するように隣人を愛し、また地域も愛するということです。その点において、世に流されず、ぶれないようでありたいと思います。

 


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