「自分は強いと過信していた」 コリントの信徒への手紙一 11章2~16節
パウロの時代、ユダヤ人は父権制社会の考え方をしていました。けれども、イエスさんの福音が宣べ伝えられ、パウロも「キリストの自由」を教え、時代の変化もあって、愛や解放とはどういうものかについて考えられるようになりました。そんな流れの中で、コリントの教会では、これまでの習慣であった「礼拝でのかぶり物」をしなくなる女性たちも出て来たようです。そのことが、純粋にキリストによる自由から行われたものであるのか、時代の変化に乗じたものなのか、そのことは、落ちついて考えなければならないことかもしれません。
一見すると、パウロは女性に「礼拝でのかぶり物」をしなさいと教えているようです。それは、従来の習慣を守るようにと教えているのではなく、その行為が純粋にキリストの自由によって行われているのかどうか、落ちついて考えさせるためでした。習慣の元々の意味は何か、時代を切り開く責任とは何か、パウロは「キリストの自由」を自分の心の中の問題に留めるのではなく、時代や社会との関わりの中で他者と結び会うようでありなさいと教えているのではないでしょうか。まず大切なのは、キリストに連なっているかどうかということです。その上で、キリストに連なっていることが自分の信仰や生き方だけに留まるのではなく、時代や社会との関わりの中で、他者と共鳴・共感するような生き方となるようにと教えられているように思います。