農村地域である但馬に無関係でいられない種苗法改正案が「不要不急」と「自粛」を訴える最中で採決されようとしています。私たちの「食」と「農業」の問題であり、教会で言うところの「いのち」の問題でもあるのですが、農村地域にある教会や伝道所さえこの問題に対する関心が薄いように思われます。
農村地域にある教会や伝道所は、農業をお花畑のように捉えたり、「いのち」という言葉を綺麗なフレーズとして捉えたりしない環境で暮らしているはずなのですが、実際は都会的な考えの中で育った都会っ子が牧師であったりしますので、農村地域にある諸課題を担える力量もないというのが現実です。
聖書にも「一粒の麦」の話があるように、種は暮らしと「いのち」に深く関わると同時に、教会にとって親しみのある話題です。にも関わらず、農業に感心がない理由を「社会状況の変化」と片付けてしまい、何の疑いも持っていないところがあるように思います。それは、言い換えれば「怠惰と無関心の罪」ではないかと思います。
種苗法改正案が通ってしまい、アグリ企業が種を自分たちの物として登録したなら、農家はこれまで自家栽培できていた種までも企業から買わなければならなくなってしまいます。農業が農民を主役とするのではなく、企業を主役とするものに変わってしまうと、そのことが農民のくらしを破壊してしまうことになりますし、益々食料自給率が低下してしまうと識者をはじめ、たくさんの人たちが警鐘を鳴らしています。
怠惰と無関心の罪のために、農業衰退、食料自給率の低下、食糧不足をもたらし、未来の子どもたちを飢えさそうとしているのではないか、そんな想像力を持ちたいものだと思います。しかし、自分自身への反省も込めて、そんな想像力さえも失ってしまうのが怠惰と無関心の罪の恐ろしさではないかと思います。