融通無碍 翼を休めてみませんか

新温泉町浜坂にある日本キリスト教団浜坂教会の
牧師日記

憲法軽視の政権与党

2020年05月04日 | 日記

 憲法の第25条第1項には、「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。」とあります。日本国民には、その権利があるのですから、国が休業を要請する場合は、生活が行き詰まらないような補償が当然なされて然るべきです。

 しかし、現実は国が休業を要請した結果、会社から首を切られたり、自営業が店を閉めなくてはならないという、困った状況にあります。そうなっている原因は、国が行っている休業要請と補償のバランスが釣り合ってないからに他なりません。

 にも関わらず、休業要請を守らない企業を罰することだけを考えているのですから、今の政権与党というのは憲法を知らないのか軽視しているとしか思えません。休業に見合った補償なしで、休業だけを強制するような政策は憲法軽視で間違っていると思います。

 憲法は、主権者が国民であることを明確に謳い、権力者の暴走を食い止める役割をするものです。そのような憲法を憎み、改悪しようとする権力者が、憲法をどのように改悪しようとしたいのか、少し考えただけでも分かりそうなものではないでしょうか。

 


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人でなし

2020年05月04日 | 日記

 学校からアベノマスクと称されているガーゼを何回か折りたたんで作ったような安作りの給食マスクが児童のために配付されました。先生の立場からすれば、国からの要請に応じて配付されたのでしょう。そういった事情は分かります。

 一方で、その先生たちは、誰一人旧世代のアベノマスクのようなガーゼマスクをしている人はいません。プリーツの付いたサージカルマスクをしています。その理由は、アベノマスクではコロナウイルスに対する防御ができないことが分かっているし、カビがあったり虫の混入が多数報告されているからです。

 にも関わらず、子どもたちに不衛生なアベノマスクを付けさせるために配付するというのはどういうことを意味しているのかと思います。教師たちは、誰一人不衛生なアベノマスクを付けないで、反対できない弱い立場の子どもたちに不衛生なアベノカビマスクを付けさせるために配付する、こういうのを人でなしというのではないでしょうか。

 一番の人でなしは不衛生なアベノカビマスクを送りつけている責任者であることを間違いありませんが、その配付に協力している人たちには責任がないと言い切れるのでしょうか。もはや大人でガーゼマスクがコロナの防御に有効であると理解している人は皆無であると思われますし、多分、ご自分のお子さん方にもそう説明しているのではないでしょうか。

 450億円もの税金を使って一部ペーパーカンパニーを通し、政治家が極めて怪しいことをしていると思われるような汚いアベノカビマスク配付など、全くの無駄であるばかりか、汚いアベノカビマスク配付に付き合わされている人たちもまた自らの人間性を失い、人でなしに成り下がるようなことをしているのではないかと思います。百害あって一利なしとはこのようなことです。

 450億円をリベート目当てではなく、このコロナの状況で困っている人たちのために純粋に使うなどという考えもなければ、困っている人たちを助けるにはどうすれば良いのかという想像力さえないというのがこの国の上級国民とらやの考えではないかと思います。全て自分たちには甘く、人を轢き殺しても逮捕もされない、頭の中はいつも「今だけ、カネだけ、自分だけ」の人でなしなのです。

 私は、およそ先生と呼ばれるような方々から、「自分より弱い立場の人たちにも、自分がして欲しいと思うことをしなさい」、それが人であると教えられて来ました。今の状況は、人でなしが大手を振って歩いているようなものです。「自分より弱い立場の人たちにも、自分がして欲しいと思うことをしなさい」という理念を持った政治家が現れて欲しいものだと思います。

 

 


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火事場泥棒

2020年05月02日 | 日記

 国の非常事態にかこつけて、不衛生で低品質なアベノカビマスクを2枚国民に送付するについて、極めて怪しい随意取引をして国民の税金をかすめ取ろうとしているということだと思います。

 国の非常事態においてさえ、不正を働くために税金を無駄遣いし、私腹を肥やすなどとは、根っからの犯罪者集団としか言いようがありません。真相を究明できないとしたら、この国はもう終わりだと思います。

 しかし、TPP絶対反対を公約に掲げておきながら、手のひら返しで賛成したり、災害時には国民軽視の宴会三昧、コロナでは補償なき自粛の強要で国民の生活を破綻させ、そこまでされても未だ政府を支持する人がいるということに驚きます。

 

 


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「イエスと共なる食卓」

2020年05月02日 | 聖書のお話

「イエスと共なる食卓」 ヨハネによる福音書 21章1~31節

 弟子たちは、イエスさんを失った失意の中にいました。それは、イエスさんが復活されたことを受け入れられない弱さでもありました。7人の弟子たちは、ティベリアス湖で舟に乗り、夜通し漁をしていました。しかし、その夜は何も捕れませんでした。やがて夜が明け、岸辺から「子たちよ、何か食べる物があるか」と呼びかける声を耳にしました。彼らは、「ありません」と答えると、その声の主は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」とアドバイスしました。言われるままに網を打つと、驚いたことに引き上げることができない程の魚が網にかかりました。

 イエスの愛しておられた弟子が、ペトロに「主だ」と言いました。ペトロは、「主だ」と聞くと裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んで岸へと泳いで行きました。「裸同然」というのは、実際に裸であったということと、心が空っぽであり、心も体も飢え乾いていたことを伝えているのではないかと思います。それは、他の弟子たちも同じでした。イエスさんを失った者は、飢えと乾きを覚える裸同然の存在です。復活されたイエスさんは、ご自分も空腹を覚える存在として弟子たちと同じ場所に立ち、心も体も飢え乾いて裸同然であった弟子たちに寄り添い、食事を共にすることを通して励まされました。

 


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