ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
故・栽弘義氏と知り合って30年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/ea/d3770d66034079fce5bc5a2800e268b4.jpg)
今から30年前の今日86年6月17日は働いていた福岡の店の
沖縄慰安旅行の2日目で、この日の夜に当時沖縄水産の監督をして
いた故・栽弘義氏と電話で話したのだった。
福岡の店の慰安旅行は万座ビーチホテルに2泊3日というもので
昼間に観光をして夕食を食べると部屋にスタッフが集まり酒盛りを
するスケジュールだったのだが、2日目になるとさすがに飽きて中
座しホテル内を散歩していると公衆電話が見つかり横に置いていた
電話帳を何気なく見ていたら何と栽弘義氏の名前で電話番号がある
ではないか。
私が高校野球を全試合見始めたのが75年だが、この年の選抜で
ベスト8に入ったのが豊見城だった。
それを皮切りに豊見城は76年から3年連続夏の甲子園でベスト8
進出していた事から応援していたし率いていた栽監督は憧れの存在
だったわけで、本来ならば沖縄に行ったのだから沖縄水産の練習を
見学したいと思っていたものの当然団体行動のため断念していたの
だが電話帳に名前が載っていたのだ。
ちょうどこの頃に出始めていたテレホンカードがあったのでダイ
ヤルしてみると何と栽氏本人が出たのだ。
‘初めまして私は~’という挨拶の後に堰を切ったように豊見城
時代の印象的な試合の話をすると、ありがたい事に栽氏もしっか
りと応えてくれて話がどんどん弾み気が付くとテレカ度数はなく
なり手持ちの小銭も全て使い切っていたのだ。
最後の10円になった時に‘これっきりにするのは残念なので
電話帳に記載されている住所に手紙などを出させてもらえますか’
と尋ねたら‘私は筆不精ですから返事はできませんが、それでも
よかったら’と快く承諾してもらえた。
以後も年賀状を除いて返事は来なかったものの手紙を出したり
福岡や東京からも電話をかけると、しっかり私の話に応えてくれ
気が付くと最低でも1時間は喋っていたのだ。
それにしても今考えると我ながら思い切った事をしたものだし
全く知らない者からかかってきた電話によくぞ長々と付き合って
もらえただけでなく、いろんな秘話を話してくれたのだから感謝
してもしきれない。
« リアルタイム... | 小学校のPTA懇... » |
埼玉で行われた内山高志vsグラナドス戦でも空き時間に席を立たれらたかと思ったら
「真正ジムの山下会長と話して来ました」。
試合が始まったら、いつの間にか後ろの人と感想と語りあって。
私にはとても出来ないなぁ~と。
そんな事を思い出させて貰いました。
今考えるとホントに無茶な話ですよね。
若かったからこそできたとは思います。
あの時はトイレの帰りにたまたまおられたので声をかけてみたわけですよ。
見知らぬ人と平気で喋るのは仕事柄というのもありますね。