茨城代表を強豪にした木内幸男氏を偲ぶ


gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/nikkansports/sports/f-bb-tp5-201124-202011240000842

 1週間前84年夏に取手二で01年春&03年夏に常総学院を優勝に
導いた木内幸男氏が、ガンのため89歳で亡くなったとの事。

 最後に監督として甲子園に出場したのが09年夏で80歳を迎える
11年まで監督を務めていたのだから凄いし、ガンに罹患し一時は
ガンが消えたという話も聞いていたのだが最終的に全身に転移し
ていたとの事で何とも気の毒な話。

 個人的に木内氏といえば中2だった77年に1学期間だけ筑波で暮
らしていた時に土浦日大に逆転勝ちして甲子園初出場を決めたの
が46歳だから、いかに甲子園に出場するまで苦労したかが分かる
し7年後に桑田真澄&清原和博のPL学園に勝って優勝するとは思わ
なかった。

 とはいえ松沼博久&雅之兄弟を育てたという話を聞いて、いい
監督だと思って注目していたのだが77年夏こそ初戦を突破したも
のの78年夏&81年夏に83年春と3大会連続所詮敗退し東の横綱と
いわれた84年春もベスト8で岩倉に逆転負けするなど勝ち運に恵
まれてないとは思った。

 どちらかというとやんちゃなメンバーを伸び伸びプレーさせて
いる感じだったので、勢いに乗れば強いけどポカをやって取りこ
ぼすというのが印象的だった。

 正直言って常総学院に赴任してからは相手のスキを突く洗練
されたスタイルになっていたのだが、03年末に東北に勝って優
勝した時はダルビッシュ有が2年だった事もあり先制される方が
勝つ確率が高いなど独特の分析が悉く的中して4-2で逆転勝ち
しての優勝には驚かされた。

 木内氏が取手二を率いて甲子園に出場するまでの茨城県勢は
大型投手工藤一彦を擁し優勝候補筆頭と言われた土浦日大でも
ベスト8すらなかったわけでが、77年以降茨城県代表が挙げた夏
の甲子園の勝ち星44勝中26勝を木内氏が率いた取手二&常総学
院が挙げているのだからいかに凄いか分かるだろう。

 沖縄県が強くなったのは栽弘義監督の手腕といわれているが、
さしづめ茨城県の野球を大幅にレベルアップさせたのが木内氏
である事は間違いないと思う。

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